地獄である。まったくこの世は生きるも地獄で死ぬも地獄、嫁ぐも地獄で稼ぐも地獄…かどうかはかなり個人差とか地域差があるので一概に言えないにしても、たとえば女の人の方が男の人に比べれば自己実現の機会が少ないのは企業トップや政治家の男女比を見れば一目瞭然、現代の医療技術をもってすればそうそう死ぬことはないにしても出産が依然として女の人に大きな身体的負担を強いることには変わりがないし、性犯罪の被害者も9割以上が女の人、家庭内暴力の被害者も基本的に女の人だしシリアルキラーが殺すのも当然女の人ばかり、そのうえ我が国大日本においては参政権が与えられたのも男の人より20年も後のことなのだから嗚呼地獄地獄、それなのに女性専用車両とか映画館のレディースデーなんかを指して男差別だとかのたまうお馬鹿さん男性もいるのですからこの世はまったく女の人の地獄です。
ま俺としてはですね女の人は自由を制限された中での利益をある程度保障された管理型の地獄、一方男の人はある程度自由である代わりに利益保障なしで競争を強いられる放任型の地獄(これにマルクス主義フェミニズムで言うところの再生産と生産をそれぞれ当てはめることもできるだろう)を生きていて、人類の歴史というのは多大な犠牲を出しながら上へ上へと突き進んでいく男の地獄に対して犠牲を最小限にするために上昇を志向しない女の地獄が横へ横へと広がって、その二つの地獄が相互依存しつつ時に混じり合いながらもバチバチと反目して逆円錐型の螺旋模様を描いてきた地獄の歴史なのではないかとか思っているわけですが、ここは俺の文明観を披瀝する場ではなく映画紹介のコーナーです。
映画の歴史は地獄の歴史と誰かが言ったがこれはその完全俺主観でのホラー&女の人版。10本選んだからお前ら全員観て地獄に堕ちろ!
前の→アンチ・フェミニストのためのホラー映画案内!(よりどり10本)
『地獄』(1979)
地獄編と銘打っているからには最初に挙げたいのはやはり『地獄』。邦画で『地獄』といえば中川信夫と石井輝夫というカルトな名匠二人による1960年版と1999年版が有名だが、その間に挟まれてあんま目立たないロマンポルノの鬼才・神代辰巳による1979年版も地獄感という意味では決して負けていない。中川版、石井版があの世の地獄描写に重きを置くのに対して神代版『地獄』がこれでもかと見せつけるのは家父長支配の続く田舎に囚われた女の生き地獄っぷりである。
夫の兄弟との不倫のかどで夫にぶっ殺された可哀そうな元旅芸人の女が地獄直行、入り口に立ってた地獄のオッサンにたかだか不倫ごときの罪を死ぬほど(死んでるが)咎められて地獄の責め苦を受けることになるが、ぶっ殺した夫はその事実を村人たちに知られているにも関わらず警察のご厄介になることもなくのうのうとシャバで生きているというこの強烈理不尽。しかも死と同時に生まれた赤子は「あんたがその赤子をどうするか、村人たちが見てるぞ~」という村の男衆の陰湿脅迫により女の不倫相手の妻が引き取らされることになるのであった。ちなみにこの村では男衆による集団レイプは日常的に行われているが警察の概念などはないのでやはり誰も捕まったりはしない。なんという地獄!
実はこっそり養子に出されて都会で育っていた件の赤子がそんな地獄村に親の因果でやってきて云々というのが主なお話で、観た人ならわかるであろうがこれはたぶんあれですこの映画の二年前1977年に公開された『八つ墓村』とわりと被ってるので便乗してます。鍾乳洞のミイラとかそのまんま。どちらも田中邦衛が出ているというのも何かの因果か。『八つ墓村』が村社会に囚われた男の苦痛と狂気を描いた映画だとすればこれはその女版というか、アンチテーゼのような映画であったのかもしれない。
石橋蓮司、岸田今日子、金子信雄に浜村淳と一人でも濃い怪優たちが四人も五人も集まってしまった濃厚すぎるキャスティング、そんな面々に囲まれてひたすら悶える原田美枝子、「抱きてぇなぁ…殺してぇなぁ…」とねっとねっとり原田美枝子に迫る田中邦衛の幽鬼の如し存在感、村社会の粘性ドラマの合間合間に入ってくる全然怖くないチープな怪奇特撮など、どんな顔をして観ればいいのかわからないが情念だけは爆発している珍場面のオンパレード。雪崩に乗って崖から落ちる小屋の中で近親SEXをしながら地獄に堕ちるというまさしく昇天(?)な前代未聞の地獄堕ち描写には悶絶必至だ。
「声を出すな!」と何度も迫力なく注意してくる地獄案内人には笑ってしまうが、これも女に沈黙を強要する家父長制の戯画と見れば、その沈黙を突き破る餓鬼と化した主人公の母親の叫びはちょっとだけ感動的である。声を出すことは地獄脱出の第一歩。追悼田中邦衛という意味でも今こそ再評価されるべき地獄映画に思う。
『リアル鬼ごっこ』(2015)
タイトルはこんなんですが内容は原作とも前の映画版ともミリ単位もかすらないという衝撃の園子温版『地獄』。正体不明の悪意に晒された女子高生が何度も何度も死んで死ぬたびにトランスフォームしてたどり着いた先は…というお話で佐藤さんもなければ鬼ごっこもないのだからすごい。すごいがそういうことはやっていいのだろうか。まぁ俺は原作も読んだことないし『リアル鬼ごっこ』に思い入れとかないので構わないといえば構わないが大抵の人は構わないわけないので観客の評価的にも地獄っぽいです。
とはいえあくまで園版の『地獄』として観れば楽しめないこともない。奇天烈な殺人シーンの数々は鼻で笑えるし血の量もかなり確保していてエラい。出演者の9割が女の人で殺されまくるのが女子高生でということでメッセージも明確ですね。明確であることと説得力があること(または映画として面白いこと)はまったく別の次元の話なのでこれを観て何かを反省するとか考えるとかは一切できないが、まぁこういう『地獄』もありますよということで…。
『フラワーズ』(2015)
プロットは『リアル鬼ごっこ』(2015)と同じようなものですがこちらは全然ちゃんとした映画。鼻をつんざく腐臭に女が目を覚ますとそこはどこだか知らん死体置き場。壁の隙間からは謎の男に無理やり連れてこられる女が見える。記憶はなく自分が誰だかもわからない女はとりあえず生き延びようと狭い汚い床下を這って進むが…。
インディー・ゴアとか呼ばれるジャンルに属する自主映画の一本で、このジャンルはその名の通りいかにえぐい(よって面白い)ゴア描写を見せるかということに主眼が置かれているので、台詞もなく明確なストーリーもなく描かれるのはたただただひたすらゴア、と蟲と汚物。いかにも悪趣味であるが何事も突き詰めれば美しくなるもので、攫ってきた女の死体を犯す人でなしマンが臓器でチンをしごいて血をローション代わりにするなどのまったく酷いシーンが満載であるにも関わらず、死の迷宮の残酷美術は独特の詩情を湛えているし、死の記憶の中で彷徨い続ける女たちの姿にはこの手の映画らしからぬ哀感が滲む。
おそらくジャーマン・ゴアの巨人ユルグ・ブットゲライトの『死の王』からは強い影響を受けているだろう。ブットゲライトと日野日出志の世界観を少しだけブラックメタル風味を加えて融合したような抒情的女地獄映画です。まさしく『血肉の華』。
『ハウス・ジャック・ビルト』(2018)
おかしいだろ! なんで女ばっか地獄に堕ちなきゃいけねぇんだよ! たまには男が地獄に堕ちろ死ね! というわけでこちらは男が、しかも女ばかり(慣れてきてからは男も殺す)を三十人ぐらい殺していた外道シリアルキラー男性が地獄に堕ちる映画です。だがしかしその地獄が甘い! ビビるぐらい甘すぎてむしろ天国! てめぇこれじゃあ殺したもん勝ちじゃねぇかという気もするのだが時代錯誤なロマン主義者の監督ラース・フォン・トリアーはダンテの『神曲』であるとかゲーテの『ファウスト』の変奏としてシリアルキラーの殺人行脚を捉えているようなので地獄もおそろしいところというより一度は行ってみたい暗黒ドリームランドなのです。ずるいわーそれはずるいわー。
でも仏教的なキツイだけの地獄とかに堕ちたらマット・ディロン演じるこのシリアルキラー男性は一日で精神崩壊してしまうに違いないのであんま地獄の苦行も役に立たないかもしれない。とにかくへっぽこなのだ。人は殺すがあまりにも要領が悪いし少しでも予定が狂ったときの狼狽っぷりとかハンパない、そもそも劇中最初の殺人からして被害者となる女に「なんか殺人鬼っぽいよねw」とか繰り返しdisられてたら殺人鬼にならなければいけない気がしてきてしまって…という意志の弱すぎる衝動的凶行。そのへっぽこ加減に大笑いさせられる血みどろブラックコメディで、冷酷な殺人行為がここではトリアー本人も抱えているであろう男としての劣等感や孤独感の裏返しとして半ば自虐的に提示される。
シリアルキラー男性は何一つうまくできなかった。悲願であった理想のマイハウス建築計画はいつまでも経っても進展しない(男たるもの家ぐらい建てるべきだ)、頭の中で思い描いた俺って最強的な厨二殺人計画は結局いつも成功しない(男たるもの女ぐらいコントロールすべきだ)、で、その階梯を登れば罪を清めていつか天国にたどり着けるはずの地獄でも、この男はやはり失敗するのである(男たるもの未知の世界に恐れず挑戦し征服しそこで成長して父となるべきだ…)。殺人無罪な鬼畜映画と思わせておいてその実、機能不全に陥った「男らしさ」の滑稽とその虚無的な末路を描いた、アンチ男性性なある意味でのフェミニズム映画といえよう。
それにしても家を求める孤独な男が殺すのは「家」を持った人ばかり、というのはなにか切ないですねぇ。
ハウス・ジャック・ビルト(R18+版)(字幕版)[Amazonビデオ]
『蛇の穴』(1948)
『ハウス・ジャック・ビルト』のシリアルキラー男性は帰る場所としての家を求め続けたわけですが、精神科病院の女性閉鎖病棟を舞台にしたこの『蛇の穴』も帰るべき家を失った人の物語という意味では同じ、閉鎖病棟で目覚めた記憶喪失の女(大女優オリヴィア・デ・ハヴィランドが熱演)を夫とか精神科医とかまわりの人たちが帰るべき家に帰そうと一生懸命あれこれします。病棟の懇親会で「か~えろ~か~えろ~おうちへか~え~ろ~」と一人の患者が歌うと他の患者たちがしみじみ聴き入る場面が印象的ですね。
ノリで地獄ホラーの枠に入れてしまったが実は怖い場面はそんなにない。「蛇の穴」とは精神病患者が劣悪な環境に放置された閉鎖病棟のことで、今日の目から見れば何がどうなっているのかよくわからない怪しげな治療法・治療器具なども含めておどろおどろしさは感じるが、これは劇中でも非科学的で前時代的なものとして扱われており、おどろおどろ表現はそれに対する精神分析の優位を示すために用いられるに過ぎない。記憶喪失の主人公は主治医の献身的にして先進的な精神分析によって次第に記憶を「取り戻し」最終的には優しい夫の待つ家へと帰る。精神分析の啓発映画なのである。
だが、その楽観的なエンディングこそ今では恐ろしさを帯びる。主治医は主人公の語る記憶から彼女の無意識の歴史を炙り出していく。それは包容力のある父親に対する負い目であり、無関心だった母親に対する憎しみであり、今までの交際男性はすべて父親の影を求めて選んだもの、作家になろうと編集者の仕事を選んだのは「家」から距離を置くための反抗心で、したがって彼女が作家の道を捨てて優しい夫の待つ家で専業主婦になることが主治医にとっても彼女自身にとっても治療の完了なのである。
果たして本当に父親に関するトラウマがこれまでの人生の様々な選択の理由であったのか、そして突然の記憶喪失の原因であったのかは定かではない。だが、フロイトの肖像画が患者を監視するかのように壁の上方に飾られた主治医の部屋で、父なるフロイトの厳かな視線を浴びながら主治医の語る過去の「物語」を聞かされた主人公は、確かにそれが自らの真実の過去であると感じてくる。精神分析は女を監獄としての病院から連れ出したが同時に家庭という別の監獄へと移送したというわけで、その過去も未来も現在もすべては「家」に紐付けられ「父」の眼差しの中で解釈されることが、ここでは無邪気にハッピーエンドとして提示されるのだ。なかなかのホラーでしょ?
蛇の穴 [DVD]
※他メーカーの廉価版あり
『怪猫トルコ風呂』(1975)
東映はそのヤクザなパブリックイメージに反してフェミニズム的なテーマを正面から扱った作品を実は多く手掛けてきた映画会社である。表向き女性に理解を示しつつもその家族主義によってやんわりとしかし明確に女性解放に抵抗を示す松竹などとは対照的で、そのことは松竹が寅さんのような看板キャラクターを女優ではせいぜい高峰秀子のカルメンぐらいしか作り出すことができなかったのに対し、東映では藤純子の緋牡丹お竜、梶芽衣子のさそり、杉本美樹の『0課の女』や志穂美悦子の『女必殺拳』、そして岩下志麻の『極道の妻たち』など、女優が演じる看板キャラクターを次々と輩出したことからもわかるのではないだろうか。
といって脚本家や監督はともかく制作陣にフェミニズム的な問題意識など松竹映画以上に微塵もなかったことは火を見るよりも明らかなのもまた東映映画であるというわけで、東映カルト映画の一本に数えられるこの『怪猫トルコ風呂』も基本的にはスケベな男客を釣るために制作されたポルノホラーである。トルコ嬢のおっぱいと性技とあとなんか怖いやつ適当にくっつけたら売れるだろ的な身も蓋もなさであるが、その内容はといえば性産業の搾取構造に切り込むまさかシリアスなトルコ風呂&男批判映画。
売春宿の主人(なんと殿山泰司!)が赤線の廃止を受けて「メンスの終わった活動家どものせいで店を畳むことになったが、奴らはお前らの生活のことなんか考えてへん」とインターネットの女叩き界隈みたいな理屈で娼婦たちにトルコ風呂への鞍替えを提案するものの、これが学のない娼婦たちを騙して売春を続けさせるための卑劣な嘘であったことが主人公の人気ナンバー1娼婦・谷ナオミのわたし娼婦やめます宣言によって露呈する冒頭シーンからしてあくまでポルノであるという映画の前提を揺るがしかねないド直球の批判だが、晴れて売春から足を洗った谷ナオミが頼る恋人の室田日出男の正体は鬼畜ヤクザであり、このヤクザは売れっ子娼婦を手放したくない売春宿の主人と結託して谷ナオミを主人のトルコ風呂に見事売り飛ばし、売り飛ばされた谷ナオミはかつての仲間であったトルコ嬢たちから裏切り者としてリンチを食らう…とここまで正しい批判で畳みかけられたらもう勃つどころではなくすいませんでしたの感想しかない。映画の本筋はそこからなのだが…。
エドガー・アラン・ポーの『黒猫』も絡めて化け猫という古典的な題材を違和感なく現代に蘇らせた掛札昌裕と中島信昭のシナリオは見世物精神と社会性を両立させた見事な出来映えで、山口和彦のサディスティックな演出も谷ナオミの悲劇のトルコ嬢っぷりも迫真、カルト映画というかキワモノ映画のように扱われてしまっているが(そのおかげで映画史の墓場から発掘されたという経緯もあるが)キワモノの枠には収まりきらない秀作ではないかと思う。でも一番のみどころは謎の風俗マスターを超ノリノリで演じる山城新伍。爆笑。
『女獄門帖 引き裂かれた尼僧』(1977)
駆け込み寺といえば現代ではほぼほぼ比喩的な意味でしか使われないがここに出てくるのは文字通りの駆け込み寺。年季をちゃんと終えたのにストーカー気質の女衒によって監禁された哀れな女郎が山奥の尼寺に行けば助かるらしいとの噂を信じて大脱走、道中で山賊に強姦されるとか子供に石を投げられるとか散々な目に遭いながらもなんとか尼寺に辿り着いた女郎はこれでようやく地獄現世に救いの光がと着いて5分ぐらいだけ思うのであったが着いてまもなくこれまた文字通りの意味でここが男を食い物にする少林寺ならぬ食人寺であることがわかってしまったので女郎を追ってきた女衒や山賊などなどを交えて地獄バトルに突入するのであった。
というわけでセックス! バイオレンス! カニバル&サイケデリック! 間断なく食いまくりヤリまくり殺りまくる特濃69分は男絶対殺すウーマン住職が殺人忍法を使うわ佐藤蛾次郎が母乳攻撃で窒息させられるわ即身仏まで元気にハイッと体操選手立ちをするわのルール無用のハイテンション、白塗りの志賀勝が人肉をコトコト煮込んでいる横では尼僧たちがファンキーなディスコサウンドで踊り狂いながらリンチをしたり監禁した男のチンを縛り上げてレイプなどをしております。最後は燃え上がる寺院の中で『魔界転生』もかくやの尼僧デスマッチ!
だいたい哀れな女郎といってもこの主人公(田島はるか)も狂犬の目で盗んだ生の大根にかぶりつくような生命力激高人間なので筋書きだけ見れば陰惨この上ないグラン・ギニョル劇に思えるが絵面的にはゼロネガティブ、食って食われての地獄絵図だがみんな楽しそうだしなんか観ると元気になってしまう。男どもの食い物にされながら女として生きなければならない宿命を知った一人の少女の涙のような初経の場面は意外と切なさ爆発ですけどね。男たちに搾取されるも地獄、女たちに同調を強要されるも地獄、あぁ地獄地獄…。
『女囚さそり 殺人予告』(1991)
『人魚伝説』の池田敏春による東映看板シリーズ『女囚さそり』のVシネリブート作は主人公(※さそりに非ず)が岡本夏生という配役にまず意表を突かれるが本編が始まると日の丸に「君が代」、カメラが引くと右翼の街宣車が「君が代」を流しながら走っているシーンであることがわかるがこの街宣車がどっかの暗がりに停車すると中から出てきた男たちが街宣車に積んでいたドラム缶を捨てていく、ドラム缶にはまだ乾いてないコンクリートが詰まっていてそこから全身コンクリ塗れの岡本夏生が…って冒頭から飛ばしすぎているだろ。
荒唐無稽な伊藤俊也版さそりの衣鉢を継いだものとはいえめちゃくちゃである。女子刑務所なのに刑務官の制服が迷彩服、地下にあるのは迷宮と化した防空壕、中庭にはSM用の磔刑台が置いてあるし所構わず日の丸が張ってある。これ刑務所じゃないだろどこだよ、とツッコめば池田敏春的には「日本です」とでも答えるのだろう。オッサンたちが権力を握る日本の縮図。政界進出を目論むこの刑務所の元所長その名も「ごうだ たけし」は政治家ライフの邪魔になる黒い過去を消すために女殺し屋の岡本夏生を当然使い捨て前提で所内に送り込む。岡本夏生に与えられたミッションは「さそり」の暗殺。この女子刑務所では代々看守の男どもが女囚に狼藉を働いていたがただ一人不屈のメンタルで男どもに抵抗し続けた女囚がおり、今は地下防空壕に監禁されているらしいその女囚・通称さそりが女囚たちの信仰対象となって彼女たちに抵抗の力を付与していたのだった。女囚たちを黙らせるためにさそりをどうにかしなければ…。
『引き裂かれた尼僧』では男の支配から逃げ出した女たちが理想郷として作り上げたはずの女オンリーコミュニティでお互いに憎み合い殺し合ってしまうという地獄(その影には即身仏が象徴する「父」の存在が常にあったのだった)が描かれたが、この『殺人予告』ではそこから理論的に一歩進んで女たちの分断を煽ることで男支配を盤石にしようとする父たちの狡猾な管理技術が描かれる。その現代日本女地獄のひとつの突破口として池田敏春が提示するものは男の合理的管理を無効にするある種のオカルティズムである。
池田敏春の映画では常にそうだが権力を握る男が時空間に縛られるのに対して男に抵抗する女は時空間に縛られることがない。『人魚伝説』では復讐鬼と化した主人公の海女が海と一体化することで場所も時も生も死も超越してしまい、最後には映画自体の持つ合理的構造(それを男の秩序と呼び換えることもできるだろう)まで壊してしまう。権力に対して合理的に抵抗はできない。時も場所も人も超えて繋がってしまうような不合理な怒りを皮膚に深く刻みつけなければならない。そのような確信がおそらくは池田映画のひとつの特徴でもある時空間を無視したカットつなぎの動機となっていて、この『殺人予告』でも凶器を手にした岡本夏生がさっきまで永田町かどっかで街宣していた「ごうだたけし」をダッシュで追いかけているうちになぜか遊園地に辿り着いてしまうというコントのようなホントの場面があるのであった。
そんなわけで『殺人予告』はシリーズ異色のオカルト編となっていて、非業の死を遂げた女囚たちの魂は火の雨となって降り注ぎ、壁に埋め込まれた女囚の白骨死体は動き出し(お前も動くのか!)、コンクリ詰めにされて死んだはずの岡本夏生はミイラのように蘇る。予算がなかったのかそれとも『人魚伝説』で主演の白都真理にトラウマ的パワハラ演出を施してしまったことを池田敏春が反省したのかハードなシナリオのわりに演出はおとぎ話のようなゆるさではあるが、まぁおとぎ話っぽさというのも合理的秩序に対する一つの反合理的抵抗と好意的に捉えられないこともないし、伊藤俊也版の過剰演出に理論付けを行った結果と思えば更に好感度は上がる。
例の決戦遊園地が象徴しているのかもしれないバブル期の浮かれジャパンをしょせん現実の地獄を覆い隠す権力オッサンどもの管理的虚構じゃねぇかと喝破する池田敏春と岡本夏生の鋭い眼差しは時を超えて現代日本をも射貫く。悪徳看守役だが劇中の女キャラの中でいちばん乙女感を出してくるダンプ松本のキュートっぷり(プロレスもあり)、野性的な佇まいと身のこなしが新時代のヒロイン像な岡本夏生、さそり復活を鮮烈に印象づけるカッコいいラストなどなど、梶芽衣子は出てこないが結構見所盛りだくさんの映画です。一番大事なことを最後にサラっと書いてしまいましたが。
『残酷! 女刑罰史』(1970)
ある意味で『殺人予告』はさそりを魔女として解釈した和製魔女映画と言えるが、リアリズムのタッチで淡々と中世の魔女狩りを描いたこの『残酷! 女刑罰史』を観ればわかるように中世ヨーロッパにおいて魔女狩りは科学に基づく合理的人間管理の一側面であり、悪名高い拷問にしても痛めつけるためのものではなく魔女被疑者の自白による「真実」の暴露を目的にした裁判の一過程に過ぎない。こう見れば女の管理を通して日本の病巣を暴こうとする『殺人予告』も大フロイトの後継者たちが記憶喪失患者に「真実」を語るよう迫る『蛇の穴』も、そして『残酷! 女刑罰史』もみな一本の線で結ばれるのである。すべてのホラーは魔女へと続…いや続かないかもしれないが。
学のない魔女狩り下級役人どもがかっさらってきた尼僧連中を早速強姦しまくる景気のいいオープニングや実際の拷問器具を借りてきたという拷問シーンはそれなりに迫力があるも映画の主眼はそこにはないので実は残酷を期待すると肩すかし、主に描かれるのは魔女狩りシステムとそのヒエラルキーの中のドロい人間模様で、白馬の王子様的魔女狩り役人(ウド・キア!)が中央から派遣されてきたことで平和に魔女狩りをしていたはずの地方の魔女狩り機構に嫉妬やら猜疑やら劣情やらが渦巻きついにはぶっ壊れて農民一揆が起こってしまう…というなんか文明批評っぽい感じである。
したがって拷問シーンでも見物は拷問そのものより粛々とお仕事として魔女被疑者の拷問に勤しむオッサン拷問吏の姿。肉体的にきつい拷問仕事(考えてみれば重い器具を手で回したりなんかして結構力仕事である)をこれも家族のためだからななんつって汗を拭いながらこなす哀愁のオッサン拷問吏を見ればあなたの魔女狩り観も良い方か悪い方かは知らないがいや良い方に変わられるとちょっと困るのだがとにかくきっと変わるに違いない。魔女狩り役人といっても悪魔ではないし狂信者でもないし言うまでもなく全能でもない単なる人間。単なる人間があくまで仕事として非道な虐殺システムに加担する悪の凡庸さこそが問題なのだという視点は絶滅収容所を念頭に置いたものだろう。これは西ドイツ製作の映画なのである。
お話の主軸は魔女狩り役人のなんたらかんたら(役人と酒場の娘の道ならぬ恋とか金とセックスの絡む行政腐敗とか…)ではあるがナチスを台頭させた大衆運動の帰結がホロコーストだとするなら魔女狩りシステムの一応被害者ポジションであるはずの民衆もまた無罪とは言えない。事実、こどもたちに大人気の(みんな魔女ごっこして遊んでる)旅回りの人形劇芸人夫婦が理不尽にも「これは魔術だ!」と学なし役人(かなり最高のヨゴレキャラ)の一存で連行されたりするような圧政っぷりにブチ切れて立ち上がる民衆も、映画の冒頭では公開魔女処刑ショウを映画でも観る感じで楽しそうに観劇してたんである。これもまた凡庸な悪。立ち上がるといっても正義感から立ち上がったわけではなくみんな騒ぎたくて立ち上がっただけなので略奪殺人強姦などを楽しんでスッキリした民衆はとくに何も反省することなどなく素知らぬ顔で日常へと戻るのであった。後に残るは死体だけ、というドイツ的に突き放したオチにシビれる。
女を抑圧する魔女狩りシステムはそのヒエラルキーの中に男を閉じこめ魔女狩りに生活を従属させることで男をも抑圧する。いまだ不合理な魔術の世界に生きる民衆を馴致するための合理的な魔女狩りシステムこそが結果的に魔術信仰を民衆に生じさせ不合理なエネルギーの暴発を招いてしまう…。タイトルからは想像しにくいが義務教育教材にしたい知的に硬派な魔女(狩り)ホラーです。
残酷!女刑罰史(1970)/ Mark of the Devil(北米版)(リージョン1)[DVD][Import]
『サイレントヒル』(2006)
原作ゲームの主人公は失踪した一人娘を探す中年やもめだがこの映画版では母親に設定変更されていて(色々大人の事情もあるのだろうが)その理由を監督のクリストフ・ガンズは「原作の主人公にフェミニンなものを感じたから」と語っている。どこがだよ! …と思うところはまぁ俺原作ゲーム好きだしぶっちゃけあるのだが、ゲーム版『サイレントヒル』は毎回巻き込まれ型の主人公で『バイオハザード』みたいに能動的に道を切り拓いていく感じではないので、そのへんが欧米目線では「フェミニン」と感じられるところなのではないかと思う。シリーズが進むにつれて段々廃れていきましたけど初期は敵から逃げて進むステルス寄りの戦闘システムを採用してましたね。まそれはいいとして。
主人公の性別変更を受けてかあるいは逆にそれが性別変更のひとつの動機になったのか、映画版では原作ゲーム1~3作目の悪夢を漂うような不明瞭なシナリオから魔女の要素を抽出して1作目メインで再構成、ヨーロッパのようには洗練されていなかったアメリカの野蛮な魔女狩りの歴史と女の抱える問題を新たに背景として導入することでシナリオに明瞭な輪郭が与えられた。霧(映画では灰と煙)に包まれた廃墟のような無人の町サイレントヒルで失踪した娘を探しているうちに主人公は異形の怪物と町に囚われた不気味な人々に出会う…という大筋は原作とだいたい同じだがそんなわけで受ける印象はだいぶ違う。
映画版独自の見所はなんつってもやっぱ終盤の大虐殺である。レイティングがそんな高い映画ではないので虐殺といってもその具体的描写は比較的マイルドだが、そうは言っても魔女を殺せ殺せと殺したところでなにがどうなるわけでもないのに恐怖に駆られて魔女狩りにはしる無知で野蛮で臆病で怠惰な田舎人間どもがついにお出ましの魔女的ななにかによって逆に血祭りに上げられていく光景はたいへんゆかい、こんな風に魔女が迫害者たちに完全勝利を決める欧米のホラー映画というのは少なくとも公開当時はほとんどなかったであろうから快挙である。
原作ゲーム独特の恐怖感はほとんど残されていないが、『サイレントヒル』名物のシュルレアリスティックなクリーチャーは(概ね)忠実に映像化されているし、山岡晃が手掛けた原作ゲーム1~4作目までの楽曲をほんの数曲を除いて原曲のまま切り貼りしまくったサントラはコンポーザーでクレジットされているジェフ・ダナがどこで何をしていたのか全然わからないマイベスト盤っぷり、原作ゲームの売りの一つである裏世界はデヴィッド・クローネンバーグ組のキャロル・スピアが3作目あたりを基調にして解像度高く再現しているというわけで、原作ゲームの様々な要素を過剰なほど取り入れつつも(現場に原作1作目の映像を流すモニターを置いてカメラワークを模倣したほどである)映画独自の世界観を構築したかなり理想のゲーム映画化。
『ヘレディタリー/継承』や『ウィッチ』などなど単に女の受難では終わらない魔女ホラーがにわかに脚光を浴びている昨今だが、その先鞭をつけた(かもしれない)魔女大勝利映画として観ても面白い傑作である。怪談的な後味、ジョデル・フェルランドの魔女っ子っぷりも良し!