《推定ながら見時間:50分》
マジでNetflix配信のSF映画こういうの多すぎるんでいい加減にして欲しいし超最近配信されたジョージ・クルーニーのネッフリSF『ミッドナイト・スカイ』も言ってしまえばこれと同じだからね狙いとか主題的には。生きるか死ぬかの極限状況に置かれた人間がそれでもヒューマニズムを保てるか否かみたいな。もちろん保てますよネッフリSF映画ですから。これはネタバレじゃないですから観てりゃわかりますけどネッフリSF映画本当に全部そうですから。ヒューマニズムを失うってパターンは絶対ないね。人間は最後まで気高く美しく悩んだり迷ったりすることはあっても基本的に悪人は存在しないので最後は愛や理想や想い出を胸に抱いて感傷的かつ献身的に散るのですってバカじゃねぇの死ね。いや死んでるんだが…。
こんなもん感想もなにもないよ。パターンが同じなら感想の差異化だって無理でしょ。そりゃ確かにありますよ繊細な演技とか宇宙船内の技術的なディティールの面白さとかそういうのは。そんなん褒めようと思えばいくらでも褒められますからね。どっかで聞いたそれ! そっかで聞いたねそういう感じのギャグ的なの! いいんだそういうつまらない脱線は。しかしつまらないとしても多少の脱線ぐらいは欲しかったよなこの映画にも。
なんというかですねぇ、なんというかですねぇ、酸素がなくてどうしようっていう話を延々狭い船内でしてるだけであまりにもケレン味がなさすぎるでしょーっていうかですねぇ、そうだなぁ、せっかく宇宙行ったんだから殺人バクテリアとか宇宙海賊とか透明エイリアンぐらいは出してもよかったですよねぇ。それが「ぐらい」の範疇に収まる概念かどうかは大いに議論の余地があるとしても。
とにかく何もないんだよネッフリの宇宙には。まぁ『ミッドナイト・ゴスペル』もネッフリ宇宙SFの範疇に含めればあの宇宙には怪物もゾンビも瞑想もなんでも出てくるから何もない宇宙とは言えない。ドラマシリーズは面倒くさくて見ないので『ブラック・ミラー』とか『ストレンジャー・シングス』みたいなSFドラマにはもしかしたら驚異の宇宙があるのかもしれない。がしかし、ネッフリオリジナルの実写SF映画という括りで言えばそこにはやはり何もない。宇宙は虚無であり抽象空間でありその零度の空間に浮かび上がるのは人間の生とヒューマニズムだけだ。
こんなにつまらない発想がSF映画にあっていいのだろうか? いいもなにもネッフリ配信作品には現にたくさんあるんだが。『ユピテルとイオ』とかこんな感じだったしな。『三体』がビッグ話題を呼んだ中国SFのヤング巨人・劉慈欣の原作を映画化した『流転の地球』だって全然面白くなかったよ、センス・オブ・ワンダーに乏しくて(これも最後には人間力の話になるわけだ。いい加減に飽きろよ!)
理解不能ですよ。なんでヒューマニズム賛歌をわざわざ宇宙にまで行ってやろうとするんですかね。そんなもん地上でやればいいじゃんって思うし実際、この映画の監督ジョー・ペナの前作『残された者 -北の極地-』は墜落事故で北極に一人取り残されたマッツ・ミケルセンが生物として生きるだけの毎日を瀕死の女性との出会いを機に脱して、生物としての死の危険を冒してでも人間として生きようとするっていうお話だったわけです。地上でできることは宇宙に持ち込まないでほしいな。なんのための映画の中の宇宙か…。
とはいえなのだが何もこれはネッフリSF映画だけの問題(俺にとっては問題である)ではなく最近のアメリカ宇宙SF映画全般に言えることで、宇宙版『地獄の黙示録』とかいうそんなもん絶対嘘じゃん的な過剰批評文句に死んだ目で失笑させられるブラッド・ピット、トミー・リー・ジョーンズ共演の大作『アド・アストラ』も宇宙の果てまで行ったブラッド・ピットが「やっぱ目の前の現実が大事だよね」みたいなどうでもいい教訓を抱えて地球に帰ってくるのでトミー・リーの代わりに俺が発狂しそうになったし、たいそう評判のよろしいみんなだいすきクリストファー・ノーランの『インターステラー』だって宇宙の果てと愛する我が家は超次元で接続されて、結局のところ地球だいすき家族だいすきやっぱり我が家が一番さ主義へと一気に5世紀ぐらい時代を(精神的に)退行しながら凡俗ヒューマニズムの称揚へと逃げ込むのでした。
下らない! 実に下らない…! 目眩がするほどの惨状である。何も宇宙SFなら気持ち悪いエイリアンを出せとは言わないが(言ったが…)宇宙を舞台にするのなら重力に縛られた地上のヒューマニズムからは多少なりとも距離を取って欲しいしヒューマニズムに変わる何かを模索する気配ぐらいは見せて欲しい。『アド・アストラ』が宇宙版『地獄の黙示録』と呼ばれたのは示唆的に思うのだが、つまり現代アメリカSF映画にとって宇宙なんかもはや特別な場所ではなく、せいぜいベトナムと同程度の異国でしかないんである。
野蛮と野生に覆われた(と帝国主義者の目には見えるわけだが)異国の地で人間が試され失われたヒューマニティを回復するというのは「白人酋長」物語と対になる「異人先生」物語とでも呼ぶべきアメリカ映画におけるひとつの定型である(『ラスト・サムライ』とか)。アメリカ映画にとって…とここまで書いていて気付いたんですが『密航者』は出演俳優はアメリカ俳優でも出資にはドイツも入ってるので純アメリカ映画ではなかったらしい…ただまぁそれだと俺の罵詈雑言の前提が崩れてしまうのでネッフリ配信のアメリカ映画ということにするが! もうね、宇宙なんてその程度の素材ですから。
『ファースト・マン』だってそうでしょう。『ゼロ・グラビティ』だってそうでしょう。宇宙は人間に極限の試練を課しつつそれを乗り越えようとする人間のすばらしさを称える背景として存在するだけで、宇宙に対してそれ以上の興味なんかないんですよ現代アメリカ宇宙SF映画の作り手は。『ゼロ・グラビティ』は宇宙空間の恐怖と魅惑を追求することで少しだけ人間中心主義から脱していたように思うが結局それ作ってんのはメキシコ人のアルフォンソ・キュアロンですからね。イギリス的なるものを決して捨てないリドリー・スコットとアメリカ的なるものに没頭するジェームズ・キャメロンの指向の違いはそのまま『エイリアン』と『エイリアン2』の宇宙観に表れているんじゃないのかな…と『密航者』の感想要素がもはや見当たらなくなっているが!
まぁだからそういうことですよ。『密航者』全然ダメ。よかったの最初の打ち上げのシーンぐらい。あと全然ダメ。いや別に面白いけどミニマルな人間ドラマとして面白くは観れるし映像も音響も演技も全部しっかりしてますけど…宇宙の映画で人間とか観たくないんですって。ましてやヒューマニズムなんか観たくない吐く。そんなもん家族とか友達と楽しくおしゃべり会食してるだけで満たされた気分になるので所詮飛沫程度しか感染経路を持たないクソ貧弱ウイルスがなぜか大流行しているという摩訶不思議な生態を持つ霊長類系統図最後尾の原始的な地球生物にやらせときゃいいんだからゆーてもその一員に過ぎないとはいえ宇宙に出た新人類最初の一歩の人々は何か違うものを表現してくれよ。
こういう映画のヒューマニズムはどうせ一生宇宙にも他の星にも行く予定のない人たちには人間はどこへ言っても人間なんやねと涙の一切れでも添えて安心感を与えるかもしれないが、たとえ空想の中でも宇宙を旅してみたい人には絶望感すら抱かせるのだ。宇宙めっちゃつまんないじゃん…って感じで。
【ママー!これ買ってー!】
SFになんかまるで縁のないアーレントだって人間とは何かを考える時にアイロニーを帯びたたとえ話として人類の宇宙進出を持ち出してますからね。宇宙時代の人間らしさは地上時代とは異なるだろうみたいな感じで。それぐらいの想像力を物語のプロが持てなかったらダメだと思うんだよな。