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序盤に出てくるテレビディレクターかなんかの人の眼鏡が超ちっちゃくてオシャレ眼鏡にも限度があるしそのサイズの眼鏡だったらかける意味ないだろ何を見るためにかけてるんだよっていうのがその後もずっと気になってていや本当に小さくて良いたとえがちょっと浮かばないんですけどレンズサイズがゲームボーイアドバンスのソフトぐらいでしかもそれが鼻当てパッドなしのタイプの眼鏡だから鼻の頭にちょこっとかける感じなんですけど眼球のまさに眼前にポジションを取るならレンズサイズがある程度小さくてもレンズを通して視界を確保できるとしてもそのサイズで鼻トップに乗せたら普通に意味なくない!?
なんか読むときにだけ鼻の頭から付け根に位置をずらして使う老眼鏡なのかもしれないですけど老眼鏡だとしてもマジでレンズが小さいから司会の1/3もカバーできないんじゃないかと思うしなんで普通のサイズかあるいは重さが気になるならちょっと小さめぐらいのサイズで妥協しないでそんな極端なレンズサイズを選んだんだろうっていう…全然レンズ通して見てないですからねインタビューとかでも。カメラ見て話してるとき完全にレンズ下向いてますからね。それがとにかくずっと気になっていたファウンド・フッテージ系のフェイク・ドキュメンタリー映画『野良人間』です。
なんかメキシコで野良人間を拾って教化しようとしてた聖職者がおったんですよ。いないけどいるっていう設定のフェイク・ドキュメンタリーなので取材班は超ちっちゃい眼鏡の人への取材を皮切りにその真相に迫っていくという体。まぁこう言うのもあれですが面白いわけないよね。虐待の連鎖とか信仰の狂気とか教会の隠蔽体質とか実は結構真面目な作りの映画というのもありまして野良人間がムクムクーっと狼男に変身して人々を血祭りに! みたいなそういうの無いですから。焼失した聖職者の家から発見されたビデオテープに映っていたのは野良人間の教化が虐待へと変貌していく残酷な過程(と教化プロジェクトの失敗で精神の荒廃していく聖職者の姿)のみであった。
しかし面白くないということはある意味フェイク・ドキュメンタリーとして完成されていることの証左でもある。これはYouTubeとかで映画であることを隠して流したら本物のドキュメンタリーだと思う人は結構いるんじゃないですかね。とにかく「ぽい」映像のつるべ打ち。とくに取材パートが良い。教会の管区長だかのでけぇ家の門のところで強面の世話人に取材を申し込むとすげなく拒否られるのだが、ビシャリと門を閉めて家に戻っていく世話人の後ろ姿を柵越しにカメラが捉えるショットとか調査系ドキュメンタリーの超あるある。
インタビュイーの一人がインタビューに入る前にいつもつけてる家の中のろうそくを一本一本消していくのをカメラが背後から追う、というシーンがある。これがこの人の日常ですよというショットだが、あるわ~超あるわ~。山奥でひっそりと野良人間育成計画をやってた聖職者は一時期地元の家政婦を雇ってたのでその人もインタビューに出てくるのだが英語のできる他のインタビュイーと違ってこの人はスペイン語しか話せないので字幕が出るとかありすぎて笑ってしまうよな。
なんでオカルト調査系ドキュメンタリーとかに必ずと言っていいほど出てくるんですかね、この、調査対象を間近で見てた英語の話せない現地の人インタビュー。だいたいそんな深くは事情を知らないんだよ。で最初は警戒しつつもそこそこ調査対象と親しくしてるんですけど調査対象が事件っぽい何かを起こして以降は関わるのをやめるんだよな。調査対象のことはそんな悪く思ってなくて気前が良かったとか親切な人だったとか言う。構成的には調査対象と面識はないけど事件は知っている研究家とかのアカデミックな感じのインタビューをやった後に挿入されることが多い。この映画の現地の人インタビュー(疑似)はそこを全部押さえていたな。匠の技だ。
あくまでフェイク「ドキュメンタリー」としてリアリティとディティールに凝る分だけ不気味ムードはあっても展開的には地味になるが最後には一応驚愕(でもない)の事実判明的なオチが用意されている。意外とというと失礼なのだがこのオチはわりに技巧的で適度に謎と不気味さを残しつつ各所に巧妙に張られた伏線を腑に落ちる形で回収する。ぶっちゃけ適当に観ていた俺はそのオチの意味するものを十分に把握できたとは言えないが、そうだなぁ、たぶん、悪を通して善の存在を演繹的に証明しようとすることで悪を正当化してしまうような信仰の倒錯と逆説というのがあのオチには込められているんじゃないだろうか。
残酷な自然に対して人間の文明はやさしい、だから自然は残酷でなければならない、とか。信心深い者なら無神論者の精神分析など恐れないものだ、だから神の道を歩む者は積極的に精神分析を受けて自分を試さなければならない、とか。こういう考えを突き詰めていくとあなたがたのためにこそ私はあなたがたを殺すのだというオウムのような慈悲殺人の論理になるだろうし、卑近な例なら愛があるからこそ俺はお前を殴ってるんだ的な虐待の論理にもなる。
この映画はそういう論理の恐ろしさを描いていたんじゃないかと思うが、それにしても拾った野生児のファウンドフッテージとかいう作品の根幹を成すアイディアの下らなさとはずいぶん不釣り合いな社会派っぷり、なかなか食えない映画であった。
【ママー!これ買ってー!】
タイトルの時点で絶対に嘘なので清々しさすら漂うがこれもホントにあった系のファウンド・フッテージ映画。ファウンド・フッテージ界で○○人間シリーズ増殖中?