カーペンターをその愛好家から守る

このまま遺作になってしまいそうな2021年現在ジョン・カーペンター最後の監督作『ザ・ウォード/監禁病棟』の確かパンフに載っていたのだがカーペンターファンの映画評論家かなんかが対談で「女子高生がカーペンター好きとか言ってたら嫌だもんw」とか言っていて、なにもこれが総意とは思わないが典型的なカーペンターファン男性の心情を見事に代弁しているなと思った。

ジョン・カーペンターといえば「男」の映画監督である。なぜならカーペンターの映画には男ばかり出てくるし男っぽいものばかり出てくるからである。まことに明快であるが果たしてカーペンターはそんなスッキリと筋の通った映画監督であっただろうか。多少色が付いても土産物屋に並ぶ工芸品のような男のB級映画を作り続ける職人監督というのが世に流布する一般的なカーペンター像っていうか映画雑誌とか映画本とかでカーペンターが語られる時の切り口だが、そうした見方からするとどうにも据わりが悪いのが先に挙げた『ザ・ウォード/監禁病棟』であり、「女子高生がカーペンター好きとか言ってたら嫌だもんw」にはその限界が表れているようにも思える。この映画は精神科病院の閉鎖病棟に強制入院させられた少女たちの物語なのである。

おそらく古くからのファンがイメージするよりも遙かにカーペンターは自由に創作活動を行ってきたアーティストであり、多くの監督作でテーマ曲を自作してきたこともあって近年は映画そっちのけでミュージシャンとして活動しているが、サントラ作りが高じてミュージシャンに転向するカルト的人気の映画監督という軌跡はデヴィッド・リンチと重なって、造形や絵画も手がけるマルチ・アーティストのリンチ同様にこれはカーペンターの多面性を証すところに思える。映画が好きで映画監督を始めたのは間違いないがカーペンターの場合は同世代のスピルバーグのように映画に拘泥してはいないのだ。

とすれば観る側も例の「男の映画を撮る職人監督」イメージなんかさっさと捨ててしまった方がカーペンターとその作品のためになるし、だいたいその方が面白く観ることができるんじゃないだろうか? その抽象性から時代や地域を超えて様々な角度からの読みがなされる『ゼイリブ』のような例外もあるにしても、カーペンターの代表作とされる『ハロウィン』も『ニューヨーク1997』も『遊星からの物体X』も時代の徒花として額縁に入れられたまま鑑賞されているのがカーペンター作品を取り巻く現状に思えるが、「職人監督のB級映画」をそう丁重に扱うこと自体が倒錯であり作品に対する裏切りである…とまでは言わないが、美術館の展示品と違って映画は額縁から取りだして好きにいじっても別に壊れやしないんだから思う存分好きに観りゃいいじゃねぇかとかは思います。

※以降、わりとカーペンター作品のネタバレが俺の気分でポンポン出てきますので未見の方はご注意ください。

というわけでカーペンター映画を今俺が思いついたざっくりフレームで超分類。あくまでざっくりフレームなので根拠などを問われたら力強く「ない!」と叫んで笑いながら近くの街路樹に何度も自分で頭をぶつけますがま何事も最初はざっくりでやることが大事です。そのざっくり作業すらほとんどマトモにされてこなかったからね少なくとも日本の少なくとも俺が観測した範囲では。要はカーペンター映画って別に職人とかB級とかっていう概念を使わないでも観れますよっていうことだけ提示できればいいわけですよ。あとはみなさんでビデオ屋に走ってカーペンター映画を借りまくってこうも観れるなああも観れるなと思考を爆発させつつ理論化などしていただければよろしい。なんでビデオ屋かってマジで代表作何本かを除いて全然配信されないんだよカーペンター映画…それもカーペンター批評の盛り上がりで少しでも前進すればいいいのだが!

個々の説明は後回しにしてまずは分類の全体像。便宜上各カテゴリーで作品が重ならないようにしてますが当然一つの作品が複数のカテゴリーを横断することもあるのでそのへんはフィーリングでなんとかしてください。無責任!

・職人的ジャンル映画
たとえば・・・
『姿なき脅迫』(1978)
『ザ・フォッグ』(1980)
『ボディ・バッグス』(1993)
『ヴァンパイア/最期の聖戦』(1998)
『ゴースト・オブ・マーズ』(2001)など。
※おもにフィルモグラフィーの初期と後期にある。

・ニューシネマの残り香映画
たとえば・・・
『ダーク・スター』(1974)
『要塞警察』(1976)
『ザ・シンガー』(1979)
『ニューヨーク1997』(1981)など。
※男臭いカーペンター映画はここに属するものが多い。

・何が真実か見失った男たち映画
たとえば・・・
『ハロウィン』(1978)
『遊星からの物体X』(1982)
『ゼイリブ』(1988)など。
※個人的にこのへんの作品群に強く惹かれる。

・この世の法則が崩壊する映画
たとえば・・・
『パラダイム』(1987)
『マウス・オブ・マッドネス』(1994)
『世界の終り』(2005)
『グッバイ・ベイビー』(2006)など。
※上のカテゴリーの発展形。このへんも実にグッとくる。

・過剰なパロディでジャンル映画を解体する映画
たとえば・・・
『ゴーストハンターズ』(1986)
『エスケープ・フロム・LA』(1996)など。
※『エスケープ・フロム・LA』はこころのカーペンター映画ベスト1(候補)

・異形の生と異邦人の眼差し映画
たとえば・・・
『クリスティーン』(1983)
『透明人間』(1992)
『光る眼』(1995)など。
※リメイクものは基本的にこのカテゴリー。

・弱いものの強さ映画
たとえば・・・
『スターマン』(1984)
『ザ・ウォード/監禁病棟』(2010)など。
※実は上のカテゴリーの作品もこれが当てはまるがオリジナル作だととくにこの面が強く出る。

☆かいせつ

〈職人的ジャンル映画〉に関しては説明不要。いわゆる「カーペンター映画」。その中には『ザ・フォッグ』の霧の向こうに何かが潜んでいるというイメージのように〈何が真実か見失った男たち映画〉とか〈この世の法則が崩壊する映画〉の萌芽も見られる。また、このカテゴリーでは女性主人公が多いのも注目ポイントで、それもほとんど例外なく自立した戦う女性として描かれていたりするのが面白いところ。「カーペンター=男の映画」説はこのカテゴリーの映画を観るだけで容易に突き崩すことができるだろう。

〈ニューシネマの残り香映画〉は結構カーペンター作品を読み解く上で重要な作品群だと思っていて、『ダーク・スター』の宇宙の果てで死ぬ前にサーフィンする男という悲劇とも喜劇ともつかないラストに漂う厭世観とか挫折感とか、そこはかとない負け犬の美学は極めてニューシネマ的だし、それは以降のある時期までのカーペンター映画の基調になっているように思える。

ロジャー・ゼラズニィのSF小説『地獄のハイウェイ』の影響を受けたと思しき『ニューヨーク1997』の主人公スネーク・プリスケンはニューシネマ的な受け身のアンチ・ヒーローであり、自分から何かをしようとは基本的にしない。しかし最後には偉い奴らにこき使われるだけじゃ終われるかよってんでニューシネマでは不可能だった権力へのささやかにして痛快な反撃に出るわけで、あたかも『ダーク・スター』の主人公の末路を背負ってその本懐を遂げるかのようである。

〈何が真実か見失った男たち映画〉はおそらくカーペンターが自身の作家性を開花させた作品群で、ここにはカーペンターの代表作がいくつも含まれる。象徴的なシーンをひとつ挙げるならやはり『ゼイリブ』の、ロディ・パイパー演じる主人公のホームレス肉体労働者・ネイダが最低水準の生活を余儀なくされながらも遠くの摩天楼を眺めて「俺はアメリカを信じてるさ」とかなんとか笑顔で語るシーン。『ゼイリブ』を観た人ならご存じの通りその後ネイダは今まで信じてきたアメリカが全てニセモノだったことを知るわけである。

だがネイダが目覚めたものは果たして「真実」だったのだろうか? 異星人のテレビ局がテレビ番組に洗脳電波を忍ばせて人々の意識を操作できるのなら、反異星人派がサングラスに同様の仕掛けを施して逆洗脳をすることもまた可能なのではないか? 主人公の目から見れば悪い異星人退治でしかない行動が客観的に見れば狂った男の銃乱射事件でしかないという認識の断絶が『ゼイリブ』の面白さの核心に思える。『遊星からの物体X』では誰もがお互いを異星人だと思い込んで疑心暗鬼に陥るが、その結果として主人公のマクレディは人間であった仲間の隊員を異星人と誤認して撃ち殺してしまうのだった。

ここにはニューシネマとその時代に生きた男たちのその後が提示されているのではないか。華々しく散ることもなく挫折感だけを抱えて仕方が無く社会に適応して、その中で自分が信じるべきものを完全に失ってしまった宙づりの男たち。もはや国は信用できないが、かといって反体制運動も信用できないし、自分の行動や物の見方が正しいのか正しくないのかすら判断することができない、迷子のアメリカ人。カテゴリー化はあえてしなかったがこうした人物を好んで描く点でカーペンター映画には鋭利な社会批評が隠されている(でも『遊星』の音声解説ではエイズの話題に触れてたので観客が気付いてないだけで本人はあんま隠してるつもりはないと思う)

〈この世の法則が崩壊する映画〉は先にも書いたが〈何が真実か見失った男たち映画〉の延長線上にあり、ここでは真実の喪失が個人の経験を超えて世界の変容に拡大される。『パラダイム』の制作時にカーペンターが量子力学の反物質の概念に興味を持っていたというのはわかりやすい話(あれは実はそういうお話だったのです)。『マウス・オブ・マッドネス』はH・P・ラヴクラフトのオマージュというか非公式の映画化のような作品だが、何が真実か見失った男たちがラヴクラフトの人智を超えた異世界にたどり着くのは当然といえば当然のことかもしれない。

〈過剰なパロディでジャンル映画を解体する映画〉もこうした文脈の上に置けば批評的な含意が浮かび上がってくる。『エスケープ・フロム・LA』はとにかくもうすごい、ものすごいパロディだらけの全編悪ふざけ映画だが、何が真実かを見失ってこの世の法則が崩壊する時に、映画のお約束が無傷でいられるわけがない。『ダーク・スター』のサーフィンはここで再び登場、ニューシネマのスタアの一人であったピーター・フォンダはかつてのLAでなんか浮浪者みたいになってる、ブラックスプロイテーション映画の女王パム・グリアは実は男で監獄LAの一大勢力を率いていて、ビバリーヒルズで怪しい人体実験を繰り返す整形外科医はインディーズから飛び出したブルース・キャンベルだ。

監獄と化したLAでハリウッドの主流派から見れば傍流であった影の英雄たちが所狭しと跋扈する。『ダーティハリー』でさえ7本ぐらい続編が作られてしまうハリウッドにおいて、作れば金になること間違いなしのあの『ニューヨーク1997』の続編で全編パロディを展開しつつ、そのラストでは地球文明を終わらせてしまう『エスケープ・フロム・LA』は、『ニューヨーク1997』のまとう威光を『ダーティハリー』の一作目においてハリー・キャラハンが警官バッジを捨てたようにカーペンター自らが破壊しつつ、その自己批判を通してハリウッド映画産業そのものに否を叩きつけているように見える。その意味で、このカテゴリーの映画はカーペンター作品中もっともラディカルで、もっともニューシネマの精神に忠実な部類だろう。

〈異形の生と異邦人の眼差し映画〉はカーペンターがニューシネマのその先を模索する中で生じた(かもしれない)もうひとつの可能性を指し示す作品群である。ニューシネマのその後の正規ルートである〈何が真実か見失った男たち映画〉での男たちは一様に破滅に向かうことになるが、こちらのカテゴリーの作品群はどこか明るいムードを持ったものが多く、「アメリカ男らしいアメリカ男」ではない登場人物たちはどのような形を取るにせよ希望を捨てずに未来のために行動する。

とはいえその行動は古い価値観にすがって生きる人間たちにとっては脅威となるわけで、このカテゴリーの中でカーペンターのリメイク作を把握するなら、オリジナル作では純粋に「普通のアメリカ人」の恐怖の対象であった透明人間や宇宙人の子供をカーペンターがどのように描いているか、その差異が観る者にカーペンター作品読解の大きな手がかりを与えるのではないかと思う。つまりは、カーペンターはここで権力=常識に弾圧される異形に、明らかに肩入れしているように見えるのだ。

〈弱いものの強さ映画〉はおそらくカーペンターが新作を撮るとすればこの路線ではないかと思える作品群で、それはカーペンターがニューシネマを単に一過性の流行で済ませずに自身のテーマとして思考し続けてきた映画作家だとするならば、当然の成り行きと言える。というのもニューシネマってマッチョで頼れる正しい存在っていうアメリカ男性神話の解体って側面が少なからずあるじゃないですか。主人公もなんか冴えないひ弱なメガネの人とかが多いですしね。バッド・コートなんかが何本も主役張ってたわけで。

で、カーペンターはその男性神話の解体にニューシネマの可能性を見たんじゃないかということが『スターマン』の癒やす存在としての宇宙人像からは窺えるし、『ザ・ウォード』が(「正常な」男たちによって隔離された)少女たちの物語だったのもそこに理由があるんじゃないか、と思えばたとえば『グッバイ・ベイビー』(これは妊娠中絶という現代アメリカを二分する話題を皮肉をたっぷりまぶしてカーペンター流のアクションで料理した隠れた傑作である)のデーモンが悪魔を恐れる劇中の人間たちの想像に反して子煩悩なパパであったことの意味も自然と了解できる。

カーペンターが反トランプ派と知ったときには絶対にトランプ支持者だろうと思っていたのでかなり意外だったのだが、アメリカをメイクアゲインする以前に男らしいアメリカ男をメイクアゲインしようとしたのがトランプ陣営と見ることもできるので、それも驚くには当たらない。男たちが殺し合う『遊星からの物体X』で彼らが何を恐れていたかと言えば、可愛らしい犬であり、武器を持たずに犬の世話をする飼育係だったのだ。

…とまぁこんな感じでざっくり分類しながらカーペンターのフィルモグラフィに一貫したパースペクティブを与えてみたわけですがキータッチの勢いに任せて書いているところがあるので繰り返しになりますがこんなもんあくまで後になったらポイ捨て余裕の作業仮説です。この仮説に従えばジョン・カーペンターという映画作家はニューシネマへの憧憬から出発してニューシネマという未完のプロジェクトのその先に突き抜けたポスト・ニューシネマの人ということになるが、当然それはわかりやすくて都合の良い一つの物語でしかないわけで、別の角度からカーペンターのフィルモグラフィーに筋を通すことはいくらでも可能であるし、筋を通すことはできないと見ることももちろんできる。

身も蓋もないがゆえに単なる職人のB級映画として観ることができるのがカーペンター映画なら、そこからいくらでも意味を汲み出せるのもまたカーペンター映画だ。日本オリジナルセットの『ハロウィン』『ハロウィンⅡ』『ハロウィンⅢ』DVDボックスには「作って遊ぼうマイケルマスク!」が付録で付いていたし、みんなも作って遊ぼう自分だけのカーペンター観。みんながみんな勝手なカーペンター論をネット上で粗製濫造すれば配信解禁どころか悲願の新作もあるかもしれない…と繰り返し書いているがそう思うのなら粗製濫造とか言うなよ。

【ママー!これ買ってー!】


エスケープ・フロム・L.A. (字幕版)[Amazonビデオ]

映画における脱構築を実践した作品と観れば、案外タランティーノ作品や『ファイト・クラブ』にも劣らぬ90年代アメリカメジャー映画の大実験作なのかもしれない。

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