《推定睡眠時間:0分》
ランというだけあって主役の人(キーラ・アレン)が車椅子でドラッグストアを激走しキーッと音が聞こえるようなコーナリングをかますシーンがあってこんなスポーティな車椅子の使い方は劇映画で見たことないと思ったらこの人は普段から車椅子の人らしい。そう言われればなるほど感で車椅子からよろよろストロングに立ち上がるシーンも迫真であったが迫真というかあれはリアルだったわけだ。ふーん。
そこはもっと推してくれてもよかった気がする。確かにリアル足の不自由を活かしたシーンはあれこれあるのだがその多くはサスペンスの醸成に使われていてタイトルからイメージされるほど車椅子で走らないというのはもったいない、本気の車椅子は手漕ぎでもそこそこ早いはずであるからフルスペックの健常者相手なら勝ち目は薄いとしても、主人公を家に縛り付ける毒母親(サラ・ポールソン)に喘息設定とか片足不自由設定とか付ければ車椅子チェイスも成立したのではないか…と書けばなにやら不謹慎感がすごいのだがいやでも車椅子の娘を絶対に親離れさせたくないと考える母親ならそういう設定があった方がよかったんじゃないすかね。
人間、なんか色々あるじゃないですか。同じ障害を抱えているがゆえに独特の強い絆で結ばれるけれどもその片方が別世界に旅立とうとする時には絆が束縛と憎しみに転化するみたいな、そういう理不尽だけど理性ではどうしようもないやつ。あの毒母親が仮に足に障害がある人だったら娘には足の障害のせいで思うような人生が送れなかった自分の分まで的に思って教育に力を入れたりする反面、そのおかげで娘が家から出ようとしたら今までの行為とは矛盾するようではあるがかなり激しく反発するんじゃないかと思うですよね。で一線越えてしまうかもしれない。
一線は越えるんですけどこの映画はその一線に至るまでの過程がないからサスペンスの連続なのに意外と緊張感はなかったな。大した理由もなく単にどうかしてる母親VS単に狂った母親の犠牲者となる娘って感じで。それでしかも母親がメガネすらかけてないフルスペック健常者でしょ。そりゃ善悪の明瞭な方が娘がんばれと思えるのは確かだが、観ているこっちに葛藤がない分だけカタルシスも薄い。この母親は狂ってるけどでも気持ちはちょっとだけわかるからな~とか、この母親も障害者に理解のない世間に色々と苦労させられてきたんだな~とか、そういうのはあった方が母娘死闘も盛り上がったんじゃないだろうか。
と書いてて思ったんですけどそういえばこの映画に出てくる母親以外の健常者ってみんな良い人なんですよね。このご時世そんな露骨に身体障害者差別をかましてくる人間もそうおらんでしょうがなんかあれだよな、悪魔祓い感があるっていうか、母親に健常者の、あるいは健常者社会の悪をすべて託してその他もろもろの健常者の罪を無いことにしようとしているようなところがある。
おそらくそこは作り手があまり意識していないところで、その健常者社会に対する眼差しのヌルさが母娘死闘のユルさを生んでいたのかもしれない。まだ対立の表面化していない時に母娘で映画を観に行くシーンがあるが、映画館のような集客効率を追求した空間では基本的に規格外の障害者は脇に追いやられるので、アメリカの映画館事情は知らないが少なくとも日本の映画館では車椅子で映画を観るのは手間がかかるだけでなく座席の選択肢もほとんどなく、健常者と比べれば満足な映画体験が得にくいのが実情である(言うまでもなくこれは聴覚障害や視覚障害や知的障害など、要するに標準モデルから外れる全ての人間に対して言える。頻尿の人とか)。
こんな風な健常者社会の意識すらされない構造的障害者差別が物語の下地にあれば家を出る/出さないを巡る戦いも切実なものになったであろうし、『RUN』のタイトルが意味するものも、車椅子の疾走も、もう少し重みのあるものになったんじゃないかと思う。まそういう重いのじゃなくて軽いスリラーとして気楽に観てねってのもわかりますけどね。障害者の人が主演のジャンル映画が当たり前に作られればいいんじゃないすかというところなんでしょうきっと。それは俺も大いに賛成なのだが。
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同じ監督/脚本(アニーシュ・チャガンティ)の人の前作。これは面白かった。これも。