とくに関連性とかはないが少し前に観て感想書いてなかったドキュメンタリー映画が二本あったので一つにまとめて感想文。モスクワ市街を放浪する野良ワンコの野生生活をライカ犬(たち)の受難記録を交えて描いた『犬は歌わない』と、スーダン出身のマラソンランナー、グオル・マリアルの波瀾万丈な半生を辿る『戦火のランナー』です。
『犬は歌わない』
《推定睡眠時間:15分》
怒っている。この野良犬どもは常にウーと唸ってキレている。あと飢えている。飢えすぎて路駐カーのボディにガシガシ噛みついたり(なんかうまそうな臭いでもすんのかそこ)穴を掘って食い物を探したりする。飢えてブラブラしていたら子猫チャンと遭遇、双方目が合って一時停止した後、野良犬二匹組は逃げ出す子猫チャンにハイパーダッシュで食らいつく。残酷だなぁ。野良犬に倫理とかはないのでまだ息のある苦しみ子猫チャンをしばらくくわえたまま一匹は周囲をぶらつき、もう一匹は子猫ハントが終わると同時に近くの木にマーキング。本来の、ということもないだろうがこれが野生のマーキングかと変なところで感心する。
苦痛にあえぐ子猫チャンの骨を野良犬はがぶがぶと噛み砕いてやがて子猫チャン絶命。ニィ…ニャ…ニィ…ぐらいな弱々しい鳴き声がニッ…の音で途絶える瞬間、生き物が死ぬってこういうことなんだなぁとか思う。身体が動かなくなることよりも生きている音を出さなくなることの方がその死を人に印象づけるんじゃないだろうか。そういえば映画とかドラマで人の死の記号といえば心電図が「ピー」に変わるあの音である。たとえ肉体に変化がなくてもその音を聞けば誰でも「あぁ、死んだんだな」と思うんじゃないだろうか。とすれば逆に、あの野良犬のうなり声というのも生存を証すためのものなのかもしれない。俺はここにいるんだよ、という。
ダナ・ハラウェイの本の形をした理論武器『猿と女とサイボーグ』には霊長類の生態観察(およびその人間への適用)の展開を批判的に検討した章がある。専門用語の火薬庫状態なので細かなところはまっったく理解できていないがそこで提起されるひとつの問いはなぜ競争的な環境を所与のものとして設定するのかということである。ダナ・ハラウェイはインテリなのでこんなバカなことは言わないが俺の小学生脳を通せばそれはつまりエサがめっちゃたくさんある環境ならサルもエサを巡っての敵対行動を取ったりヒエラルキー作ったりしないんじゃないのということになる。実際そうかどうかはともかくとして科学者の「自然」が自明のものでも所与のものでもないことが、したがってそのカギカッコ付きの自然に基づく知の体系の恣意性がここでは問題になるわけである。
とはいえなのだが犬猫多頭飼いのご家庭というのも現実にあるわけだしそこでは犬猫の仲が悪いということはあっても発見即捕食の関係にはあまり入らないのではないだろうか。野良犬が子猫チャンを襲うのは腹が減ってるからである。安全な寝床とかもない。腹が減りすぎて満足な休息が取れないと人間も人間を食うので犬だってそんなもんだろう。印象的なのは子猫チャンをくわえた犬の、まるでその食べ方を知らず途方に暮れているかのような振る舞いである。ナレーションが語るように宇宙に行ったライカ犬が何を見たかは誰も知ることができないが、もしかしたらこんな風に途方に暮れていたんじゃないだろうか。
ときおり挿入される宇宙犬候補生たちの実験風景や外科手術風景を納めた記録フィルムは基本的に説明が付かないのでなにやらおどろおどろしく見える。科学の発展と社会の前進の美名の下にわけわからん環境でのわけわからん生を余儀なくされた犬たちの哀れが少しだけ沁みる。あと予告編にあった推薦コメントみたいなやつの「まるでタルコフスキーが撮ったディズニー映画!」は全然ピンと来ませんでした。ピンと来る映画ないだろそれ。なんだよ。
『戦火のランナー』
《推定睡眠時間:0分》
最近ネットリベラルの間ですこぶる評判の悪い言葉の一つにアスリートの言う「感動(勇気)を届けたい」というのがあり、感動を押しつけるなよという理屈なのだろうが、このような映画を見ればアスリートが世界大会で競技をすることで届く感動や勇気というのは確かにあるのだろうと思う。と同時に、オリンピックが個人の生を救うこともやはりあるのだろうとも思う。
このマラソン選手グオル・マリアルは2011年にスーダンから分離独立した南スーダンの人で、スーダン時代には内紛のアオリをモロに食らって両親と離別、武装勢力に見つかって奴隷的に暮らしていたが隙を突いてダッシュで脱出して難民としてアメリカに入ったのだった。理由は知らないがアメリカでは超級メジャーな高校部活がクロスカントリーである。これはスキー板履いてやるやつではなく高校の周りにある野山の中とかを走る野外マラソンだが、ひょうんなことからこれをやってみたマリアルさんの走りがヤバかったので部活関係者瞠目、なんとかこいつをプッシュしようぜということでマリアルさんはマラソン道に、そしてオリンピックへと向かうのだった。
賛成するにせよ反対するにせよなのだが日本のオリンピックに関する言説を見聞きしていて俺が違和感を持つのはもっぱら日本の都合でしか語られないことである。たとえ開催地は日本であってもオリンピックは世界中の人が参加して世界中の人が見るのだから日本の事情だけを考えてはいけないんじゃないだろうか。推進派の言う「コロナに打ち勝った証」のオリンピック(打ち勝ってないけど)とか現在進行形で新型コロナ被害が拡大している国や日本のように裕福ではないからワクチンを確保できていない国がオリンピック参加国の中にもあるであろう中で言うことではまったくないのでそんな国際協調の意志が微塵もない連中のやるオリンピックならさっさと返上すべきである。
しかし反対派が日本の感染状況やある種の政治的達成として中止を求めるのもそれはそれでオリンピックに参加する選手やそれに期待をかける国の人たちを完全に無視する野蛮な行為だろう。空港検疫で他国の選手に陽性者が出たときに政府のザル対応を批判するのは正しいとしても、その選手を心配する声がポツリとも出ないような村社会的態度は賛成派に劣らず野蛮なのである。まーどいつもこいつも自分の都合しか考えない村国家ジャパンにはオリンピックなんか無理だったということですね。それはいいとして!
マリアルさんのオリンピック参戦から見えてくるのはオリンピックが先の見通しが立たない途上国に平和的発展のロールモデルを与える可能性である。華やかな開会式に世界各国の選手が集って人種も民族も様々な観客たちの見守る中で競技をする。中途半端に金を持ってるだけで教養もなにもない斜陽成金ジャパンのバカにはこれが国威発揚イベントとしか見えないかもしれないが、オリンピックを国威発揚やナショナリズムと切り離すことはできないとしても、それは参加するすべての国の国威発揚でありナショナリズムであり、開催地がエライという話ではないのである。
そうした意味で俺はオリンピック会場を世界のどこか一箇所にまとめてやる現今のトリクルダウン方式は時代遅れだと思っていて、通信技術もこれだけ発達しているのだからその競技の選手が最もパフォーマンスを出しやすい環境の国に競技会場を分散設置して日程だけは会わせて同時中継をしたらいいんじゃないかとか思っている。そうすれば理念と乖離したオリンピックの現状を多少なりとも理念に近づけることができるのではないだろうか。オリンピックの経済的利益を先進国が独占する構造になってるから腐るわけで、分散開催して途上国にも利益を行き渡らせつつ単なるゲストではない当事者意識を持ってもらうことがオリンピックの再生に繋がるのである。再生というともう死んでいるかのような言い草だが(死んでいると思ってるので)
と映画から映画から話がダイナミック脱線しましたが順位とかではなく出ること自体が重要なんだみたいなマリアルさんの泥臭走りはわりと感動的です。南スーダンの人もマリアルがんばれ南スーダンの星! と応援してくれてこちらも感動的。オリンピックいい話である。その一方でIOCの官僚主義がチクっと批判されたり(南スーダンの)国内オリンピック組織の無能や陸上連盟の腐敗も描かれ単なるいい話では終わってくれない。南スーダンも建国当初は沸いたもののすぐに内紛に入っちゃってあっちもこっちもうまくいかない感じである。
だからこそかどうかは知らないがマリアルさんは今日もオリンピックに向けて走り続けるのであった。オリンピックが感動や勇気を与えることもあればそれで救われる生もあるのである。その足下で犠牲になる生もまたあるのだと思えば、この映画は別にそんな感じではないのだがなんだかハーラン・エリスンの『世界の中心の愛を叫んだけもの』のような話である。理想がなければ人は人間として生きることができないが、その理想の犠牲になって死んでいく人間は(あるいは動物も)存在するのであり、そこから目を背けるべきではないのだ。
【ママー!これ買ってー!】
世界でいちばん新しい国とあって南スーダンは諸々の研究対象になっているらしい。本とかたくさん出てる。