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映画が始まると無個性な窓がズラリと並ぶ団地の壁面が映し出されてその一室の窓から見えるのが一心不乱に原稿用紙に墨を入れる主人公の菅田将暉、彼は漫画家志望のアシスタントで絵は巧いが何度原稿を持ち込んでも「キャラクターが弱い」と突っぱねられてしまう漫画家よりはアシスタント向きの人である。子供も生まれそうだしいい加減に引き時か、と内心では全然納得していないが断筆宣言をした矢先、彼は凄惨な殺人の現場に出くわしてしまう。偶然にも目にしたその犯人が彼の漫画にキャラクターの命を吹き込んだ。デビューすらできないうちの断筆宣言から一転、目撃した殺人事件および犯人をモチーフにした彼の漫画は速攻で連載が決定し超人気を獲得、一躍大ヒット漫画家先生に成り上がるのであったがその漫画の愛読者の一人がモデルになった当の殺人鬼Fukase(SEKAI NO OWARI)だったのでなんかたいへんなことになるのでした。「先生! ぼく先生が描いたとおりに殺しておきましたよ!」。
思わず震えたね。震えたは大袈裟だがついに邦画メジャーでもここまでできるようになったのかと感慨深いものがあった。なんといってもすごいのは死体インスタレーションである。こ、これでR指定付かないんすか! 映倫の担当者がたまたま英語が苦手でRとPを間違えちゃってPGになったとかじゃないんすか! 白々しいセルフ小芝居はいいとしてなにも区分を上げろと言いたいわけじゃないんだがこれでPGならR指定の映画にはどんな奇想天外な残酷描写が入るのかわからないゴアゴアっぷり。そこらのアメリカンスラッシャーがセサミストリートに見えるぐらい素直に気持ち悪くて怖い死体描写なので思わず感心してしまう。
前に山崎貴か誰か有名な邦画メジャー監督がたとえば首を切るにしても直接首を切るショットを映画に入れると映倫的にNGで首切りのショット(および切断面など)は入れず切れた首だけを見せるよう編集するとOKになると言っていたが、おそらくこれもそういう理屈でR指定が付かなかったんだろう。最近の邦画メジャー映画でいえば『さんかく窓の外側は夜』も死体インスタレーションにかなり気合いが入っているわりにはPGで済んでいたのだが、直接的な殺しの描写はやはりない。
殺人行為そのものではなく殺人後のエグ死体を見せることで観客に殺人の場面を想像させるのは『キャラクター』も同様で、その見せない編集によって直接的に殺人を映し出すよりも遙かに殺人が禍々しく見え、フリーハンドとは言わないまでもかなり濃い死体描写(といって内蔵がでろんと出るとかではないが、ロープやビニールなどの小道具を巧く使った死体造形や血の彩色が見事におぞましいのだ)がある意味脱法的に可能になっているわけだから、なんのためにあるのかよくわからない日本のレイティング制度である。まぁでもR指定の付く映画でも『見えない目撃者』とか『ヒメアノ~ル』とかは従来の邦画メジャーの残酷水準を大きく超える死体描写と殺人描写をやっていたので最近の映倫は残酷描写に関しては基準を緩和してんのかもしんないすね。あるいは単に製作側の自主規制が解けて来たとか。良い傾向です。
さて気の滅入る死体インスタレーションは『キャラクター』最大の目玉といえるがこの映画が素晴らしいのはそこだけではない。刑事の中村獅童が事件現場の金持ち邸宅に足を踏み入れる際、髪が落ちたりしないように昭和の主婦が風呂上がりに被る例のアレみたいなやつをちゃんと被るあたりによく表れているが、邦画サスペンス的なというか、テレビ刑事ドラマ的な「こんなもんでしょ」がない。映画的に誇張するところは誇張するとしても刑事はちゃんと刑事の仕事をするし漫画家はちゃんと漫画家の仕事をするし編集者はちゃんと編集者の仕事をするのである。これをリアルと言うつもりは毛頭ないのだがディティールを積み重ねることでの映画的リアリティの構築に妥協がないのだ。
こちらも同じく小栗旬が刑事役ということで2016年の邦画メジャー・サイコサスペンスの『ミュージアム』などと見比べればその差は一目瞭然、なんで今更『セブン』の二番煎じやねん的なツッコミは禁じ得ないとしても『ミュージアム』はそこまで悪い映画だとは思わないのだが、というかむしろ邦画メジャーなのにちゃんと怖い殺人鬼映画を作ろうとして頑張っとるなぐらいに当時は思ったのだが、多少猟奇的な要素を取り入れたところでテレビ刑事ドラマ的なお約束作劇から抜け出せていないのでリアリティがなくて結局全然怖くなかった『ミュージアム』に対して、映画的にディティールを詰める『キャラクター』はしっかりと怖い。神は細部に宿るというが殺人鬼もまた細部に宿るのである。今ドヤ顔してますからこの文句はみなさんコピペして拡散してください。
そうしたディティールに支えられたシナリオは多少の強引さがあっても白けることがない。というかこのシナリオも邦画サスペンスの標準形からすればかなりヒネリの効いたレベルの高いものであって、そうだなぁ、猟奇殺人鬼の出てくる邦画といえば今年はほら今年はさみなさんご覧になっているか知りませんが『ドクター・デスの遺産』とかが公開されましたがこっちは『ドクター・デスの遺産』までサスペンスのシナリオ水準が下がってるからね。その水準から見上げる『キャラクター』のシナリオはもはや巨人です。黒船。『スターウォーズ』の最初に出てくるでけぇ宇宙船。もうびっくり。
観終わって心の中で叫びましたよ。邦画メジャーがついに15年ぐらい前の韓国ノワールに追いついた! って。いや完璧に良い意味で言ってるからこれは。全然ディスってないから全然。ショック描写も残酷美術も陰影の濃い撮影もハイテンポな編集も全部すごく良かったのでディスに見えるとしたらそれは邦画メジャーのサスペンスが今まではそれぐらいヌルかったという話だから…。
ところで突然ですがここから多少のネタバレが入ってきますのでネタバレに怒って俺を殺しに来そうな殺人鬼気質の人などは絶対に読まないでくださいあなたのためにというよりも俺のために!
それでこの映画面白いのが犯人のバックボーンとして四人家族こそ幸せな家族の在り方という教義(?)を持つ宗教的コミューンが出てくるんです。写真で一瞬だけ画面に映るその姿は現代の邦画がカルト宗教を描くとすべてそうなるように服装が微妙にオウムっぽいのですが(『さんかく窓の外側は夜』もそうだった)、四人家族こそ幸せな家族の在り方とする「宗教」って何? って思うよね。創価学会とか幸福の科学とかの保守新宗教が家族形態の維持を訴えることはよくあると思うんですけどそれは教義に付随するひとつの実践のようなもので、それ自体が教義になることは普通ないし、ましてや四人家族というのは人口を維持するための近代以降の核家族ロールモデルなので、宗教にするまでもなく一般社会がそれを肯定しまた求めるわけじゃないですか。
でもそれが「宗教」としてここでは扱われる。本当は四人家族を成人男女に押しつけているのは一般社会なのにカルト宗教的コミューンが押しつけた(せいでそこ出身の殺人鬼は四人家族ばかりを殺すようになってしまった)ということにされる。この倒錯は色んな見方ができると思うんですけど、俺としてはそういう置き換えが邦画メジャー映画の中で可能なギリギリの表現だったんじゃないかと思っていて、というのもどっかの危ないカルト宗教が猟奇殺人を生んだんだっていうことにすれば観てる人は安心できますけど、社会が四人家族を求めるから家族嫌いの猟奇殺人鬼が出てきたんだっていう社会派な設定にしてしまったら「じゃあ俺たちが悪いの?」って感じで観客はちょっと嫌な気分になると思うんですよね。
日本映画の観客は総じて幼稚なので映画を批判的に観たりすることはできないし自分たちの日常を少しでも否定するようなものは受け付けないか、仮に受け付けたとしても映画の中の別世界の出来事として自分から切り離そうとする。俺はこの映画の作り手はその点にかなり自覚的だったんじゃないかと思っていて、だからそういう風に観ると非常に面白いですよねこれは。
無個性な団地に暮らす(団地こそ戦後の「四人家族」の受け皿じゃないか!)菅田将暉の漫画が面白くないのはキャラクターが弱いからだが、それを描く菅田将暉にもキャラクターなんかないしただ漫画家になりたいだけで描きたいものも本当はない(だから第二の事件の発生を知らされるとあっさり編集者に連載休止の提案をする)。この人は自分のキャラクターが欲しいと思っているが妻が妊娠しているから漫画家のキャラクター獲得の夢を捨てて父親キャラクターにならなければというプレッシャーを感じていて、別に共働きでやりながらコツコツ新人賞とか狙っていけばいい気もするが、「四人家族」の父親ならかくあるべしの思い込みがそれを阻むのである。
男は仕事をして妻は専業主婦で四人家族ならマイホームを持つべしだ。菅田将暉の実家の家族構成と血の繋がらない設定はその戯画とも言えるし、それが典型的な「四人家族」イメージを通してしか繋がらない薄っぺらい関係であることが、菅田将暉に「四人家族」の強迫観念を与える。「四人家族」は漫画家の夢を潰す忌まわしき家族のあるべき姿である。菅田将暉の影のように現れるのが幸せ四人家族をぶっ殺したい殺人鬼Fukaseであり、二人が出会うのが「幸せそうな感じの家」を求める漫画家の依頼で菅田将暉が見つけたどっかの金持ちハウスというのは決して偶然ではないのだ。菅田将暉はFukaseに自分が密かに憎む「四人家族」を殺してくれるもう一人の自分を見い出したのである。
一方Fukaseの方は幸せ四人家族の中で育って自分を完全に見失ってしまった人である。Fukaseは金持ちハウスで四人家族を殺すがその時点ではどうも一家四人殺しの殺人犯と文通を続けてるうちに殺人犯には負けまいと自分でもやってみたくなっただけの人(だけの人ということもないだろ)であり、連続殺人犯のペルソナは持たなかったが、菅田将暉がFukaseを見たことで漫画家としての自己を確立したようにFukaseも菅田将暉の漫画に描かれた自分を見て連続殺人鬼としての自己を確立するのである。ラストの裁判シーンで殺人犯との文通を語るFukaseと漫画を描くために殺人事件の資料を読みあさる菅田将暉は同じコインの裏表であり、漫画の原稿で埋め尽くされた団地の一室といかにも狂ってるぞ~連続殺人鬼だぞ~なオブジェやペイント(壁の絵はFukase作らしい)で飾り立てられたアパートは、本質的に同じものなのである。
『キャラクター』は何もない人たちの物語と言える。自分がどうあるべきかとか、何をしたいかが本当のところは何もなくて、というよりもわからなくて、ただ漠然といつか自分も「四人家族」にならなければならないというプレッシャーを感じている「四人家族」出身の人たちが、「四人家族」ではない何かになろうとして一人は漫画を描いて一人は家族を殺していく。Fukaseが文通していた殺人犯も心神耗弱的な意味で自分が何者かわからない人であり、この人もまたFukaseによって名誉殺人犯のペルソナを与えられることで自分は殺人犯なんだと殺人犯なんだと思い込むようになる。
ほとんど置物のように菅田将暉の糟糠の妻を演じる高畑充希にもなにもない。菅田将暉とFukaseの違いが殺すか殺さないかぐらいしかないように(それは結構でかい違いなんじゃないかな!)高畑充希とFukaseの間にも大した違いはないわけで、違うのは高畑充希が「四人家族」に完全に屈服して家族の器となるために自らのキャリアと自己の確立をアッサリ捨ててしまうことである。しかしそれが救いのようには映らないことはこの映画で描かれる四人家族がどれも作り物めいたぎこちなさを帯びていることからすれば当然であるし、殺人の源泉たる「四人家族」がカルト宗教のものだとして社会の外部に排除されたように見えても、それは実際には社会の内部に深く根を下ろした排除不可能な現代社会の要請なのだから、カルト宗教とか殺人鬼の問題を解決したところでどうにもならないことに由来するのである。
小栗刑事は殉職しちゃったけど殺人鬼は捕まったしとりあえずこれでみんなハッピー! なはずのラストがどんより重いのは「四人家族」の呪縛は解けていないからなんじゃないだろうか。結局のところ誰も「四人家族」と正面から向き合うことができなかったし、その対決も総括もできないのでなんとなく「四人家族」を続けながら密かな殺意を抱いて家族の外を夢見ることになる。キャラ薄弱の菅田やFukase(たけし風に首をひねる猟奇キャラ付けがなんとも痛々しい!)とは異なりキャラクターの立った小栗旬と中村獅童の両刑事の家族が描かれないことは示唆的だが、一時的に家族を忘れることでなんとか刑事キャラを演じられているだけとも言えるわけで、小栗旬が菅田将暉の漫画のハマるのもそこに家族から切り離され個として自立した刑事キャラを見い出したからなのではないだろうか。小栗は刑事キャラになりたいのである。
世田谷一家殺人事件がモチーフになっている映画であることは間違いないが、その劇中で実在の殺人事件をモデルにした漫画の倫理的な是非を問う(「殺人事件って終わらないんですよ」と小栗刑事)のだから安易な殺人鬼映画とは一線を画す。そこには観客の耳目を引くために実在の事件をサスペンス劇のモチーフにする作劇に対する批判も見ることができる。オリジナルな構想を放棄して現実の劣化コピーを紙やフィルムに焼き付ける行為の創作的空虚は、自己の確立できない菅田将暉とFukaseが抱えていたものと同質なのだ。
あとFukaseの殺人鬼演技はオタクっぽくて気持ち悪くてよかったです。漫画の中のFukaseは容姿的に美化されすぎだと思います。殺人鬼コスプレになんかハマらず萌えアニメとかにでもハマっておけばよかったのにネ!
【ママー!これ買ってー!】
「火星人いらっしゃい」みたいな舐めタイトルのラジオドラマを書いていた作家の下にファンを名乗る男が来訪。「先生、実もボクも火星人なんです!」えぇ…という、安部公房の深刻ギャグSF。
のっけからとんでもない褒め文句で死ぬかと思いました。
死体描写よかったですしキルカウントも13超えていて、そこは思わぬ拾いものでした。殺人行為(本番)を描けない分、死体描写(結果)に力が入っていくというのは、日本らしさに溢れているように感じました。
取っ組み合いの果てに暴力の転移が起こり、漫画家が嬉々として殺人鬼に刃物を突き立てようとする様は安直だなあと思ったものの、自己の確立の仕方が漫画か殺人かの違いであり容易に反転するというのは、なるほどなあと感想を読んで思う次第です。
Fukaseの部屋にダガーのぬいぐるみ(=自分のぬいぐるみ)もあったことが非常に現代的なキモオタ(推しをひたすら集める)と承認欲求(自分が物質化された)を満たしていて気持ち悪いなあと感じたのですが、こうして考えてみるとあれは模倣したい型なだけであって、模倣するために必要な手本だからこそ必要だったのだと、そんなふうに感じました。
とりとめもなく長々と失礼をいたしました。
>殺人行為(本番)を描けない分、死体描写(結果)に力が入っていくというのは、日本らしさに溢れている
ユルグ・ブットゲライトが日本で発売された「ネクロマンティック」のビデオを見て、あれは最後に主人公が射精しながら死ぬ場面がありますけど、日本版はそこで局部にモザイクが入っていたので「(あのチンは作り物だけど)モザイクが入ると本物っぽく見える!」と言ったというエピソードを思い出しました…笑
変に隠した方が直接見せるより残酷に見えたりエロティックに見えたりする、というのは日本らしい皮肉ですし、死体描写ばかり洗練されていくというのもなんだか枯山水のようで日本文化を感じるところです…
>現代的なキモオタ(推しをひたすら集める)と承認欲求(自分が物質化された)を満たしていて気持ち悪いなあと感じた
あれ気持ち悪かったっすねぇ。リアルなシリアルキラーっぽいかもとかも思いました。デニス・レイダーも黙っときゃ迷宮入だったのに事件から十年以上経って犯行声明文出したら捕まったので。自己顕示欲はあるんですけど自信はなくて、殺すと一時的に優越感に浸れるが家に帰って翌日の仕事のことを考えると自分が凡人だと嫌でも気付かされる…みたいな。凡人であることに耐えられない凡人がシリアルキラーなのかなとかあれ見て思いました。みなしビジュアル系みたいなセカオワのFukaseが凡人オタクシリアルキラーというのも絶妙でした。