父の虚飾を剥げ映画『ライトハウス』感想文(途中からネタバレあり)

《推定睡眠時間:0分》

これではないのだが少し前になんかの映画評で「スタンダードサイズの画面が物語に神話性を与えている」みたいなことが書いてるのを読んで何を言っているのかわからずちょっと考え込んでしまった。どうしてスタンダードと神話が結びつくのだろうか。そこ別に接点なにひとつないですよね? スタンダードしか選択肢のなかった黎明期のヨーロッパ映画なんか大がかりなセット撮影の古典ものよりロケものの現代劇の方が多かったですし(要出典)、それに比べれば同時期のアメリカ映画は聖書に材を取った映画が多いイメージですけど(要出典!)そうだとしても神話の世界(聖書は神話枠ということで…)をフルスケールで映画監督が画面に焼き付けることができるようになったのはカラーとかシネスコが発明されて特撮技術も発達したもっと後の時代のことで、じゃあ絵画とかだとどうだろうというとこれはもっと関係ないというか、そもそも映画で言うスタンダードサイズの絵ってそんなある? 画題に関係なく俺ぜんぜんそのサイズの絵なんか見た記憶無い。

『ライトハウス』はスタンダード、モノクロ、35mmフィルム撮影というこだわり仕様で、そういえば最近のアメリカの作家主義映画は35mmはともかくスタンダードおよびモノクロで過去の世界をフォーマット面から再現しようとするものがそこそこある。『ライトハウス』も舞台は1880年代のアメリカの孤島だが、そういう内容の映画をそれっぽいフォーマット(しかしこの内容とスタンダード&モノクロ&35mmフィルムは何ら関連がないのだが)で撮るとなんとなくそれっぽい雰囲気が出るっぽいとぽいの嵐だがそんなようなことは確かにあるっぽいのかもしれない。アメリカは国としての神話がない国であるからそのいささか安易な擬古調の帯びる架構されたノスタルジーが「神話っぽさ」として誤解されるのではないか? などと思えばスタンダードサイズの画面が神話性を云々という話も腑に落ちるところではある。

実はこの映画は二回観ていて一回目は50分ぐらい寝た上に映写環境もあまり良くなく(この映画のフォーマットではこれはかなり致命的なことである)画面に映っているものがなんなのかはよくわからんがなんか『黄衣の王』みたいなゴシック小説風の映画? ぐらいな感じで観た後に謎だらけの変なアート映画の脳内フォルダに入ったのだったが、別の映画館でもう一回今度は寝ないで観てみればそこまで謎な感じでもなかったというか、睡眠鑑賞時にはさっきまで普通に仕事をしてたやつがちょっと眠って目を覚ましたら急に(急じゃない)どうかしていてエーッ! となったところもわりと丁寧にどうかする過程が描かれていたので、謎だらけの変なアート映画の脳内フォルダから無事サルベージされ別の脳内フォルダに移されたのでした。

で、二回観たらなんかそういう映画なんだと思ったな。色んな神話の引用とかモチーフが出てくるんですけど「神話」の映画じゃなくて「神話っぽさ」の映画で、本当は神話じゃないものをどう神話っぽく観客に感じさせるかみたいな、スタンダードでモノクロで35mmというのも神話的な威厳のようなものを作り出すための仕掛けで、なんでそんなことをやるかってその虚構性こそをテーマにしているからじゃないかと思った。

プロットはシンプルにも程があり若い灯台守(ロバート・パティンソン)とベテラン灯台守(ウィレム・デフォー)の二人が孤島の灯台に交代で赴任してきて二週間を共に過ごしている内にどんどんぶっ壊れていく、だけ。こう書けばわかりやすい映画に思えるが状況説明は少なく現実と妄想の垣根はなく引用とか暗喩とかアナロジーで画面が満たされているので実際観るとわりとかなり謎多き感じである。モノクロを一種のトリックとして使っているところもあり、具体的にどういうアレかというのは書きませんけれどもモノクロによる人の顔の判別しにくさを意図的にやってるので、そういうのもあって結構ナニコレーってなる。

でもこの監督ロバート・エガースの前作『ウィッチ』がオカルティックな題材を通してアメリカの家父長批判を展開したものであったように、『ライトハウス』もこれこれの謎々仕掛けはきっとめくらましのようなもので、その裏に隠れた象徴的な父と子のドラマを捉えるならさほどナニコレーでもないのでしょう。上のプロットはもっと短く書けるわけで、この映画はベテラン灯台守のウィレム・デフォーが父として灯火室を独占して、息子としての若い灯台守ロバート・パティンソンがそれを奪おうとするお話なのでした。そんな短くなってないか。

なんで二人ともそんな灯火室ほしいんすかね。それはこの二人が失敗した男だからで、それぐらいしか人に威張れるところがないからです。灯火室持ってても別に威張れないだろと思うがそれすらもないよりはあった方がマシと考えてしまうほどの何もなさ。せ、切ない…。なんか売春宿とかで武勇伝語ったりしたいんですよこの人たちは。俺もひとかどの男なんだぜって感じで。みなさんもそういうのありませんかね底辺バイトの現場とかで。いやそんな作業誰でもできるからっていうのをこれは俺じゃないとダメなんだって感じで絶対に他人に渡そうとしない人、それでその誰でもできる仕事をやってるだけなのにやたら偉そうにこっちに指示を出してくる人。俺はですねそういうの…もうめちゃくちゃ、めちゃくちゃあるね!

だからなんか二回目観たら怖いっていうかウィレム・デフォーにちょっと泣けたよ。こういう人おるなーって。むかしバイト先の先輩と喧嘩になって「俺は会社辞めてここでバイトやってんだぞ!」ってマウント目的で言われたことを思い出しました。取れないだろそれで、マウント。

もしかしたらここから多少ネタバレになるかもしれないので霧笛を鳴らしておきます。ブォー! ブォー! これ霧笛か?

さてウィレム・デフォーは父の威厳を失った父であり続けたい人なので灯火室を独占することでなんとか父の立場に留まろうとします。もうそのためには平気でロバート・パティンソンに嘘とかつくしあと押井守もびっくりの引用台詞連発で「俺は知ってるけどね」をめちゃくちゃアピールしてきます。自分を海神になぞらえたりしてやりたい放題。バカだなぁ単なる無能なのに。いや無能と言ってはいけないこの人も必死です。マウントを諦めればいいだけなのにとか思わなくもないですが歳も歳ですしそれ以外の生き方とか今更できんのだろう。

しかしそんな過剰父アピールが裏目に出てしまう。ロバート・パティンソンもまた職歴とか技能とか趣味とかが何もない人だったのでせめて灯台守の醍醐味っぽい灯火番ぐらいやらせろコラとか要求するわけですがウィレム・デフォーは熟練の口八丁手八丁で灯火室を全力死守。ちょっとした不幸な事情からそれがあまりにうまくいってしまったのでパティンソンは単なる能なしのデフォーをガチで恐れつつ憎悪をたぎらせ狂気と正気を行ったり来たりするようになってしまう。

まさかそこまで本気に強い父扱いされるとは思ってなかったっぽいのでデフォーびっくりである。だが俺は偉い父だぞとアピールする術は心得ていても父の役割を果たす能力自体はないデフォーである。その場しのぎの半ば思いつきでお前殺人やれよみたいなことを弟子に言ったら弟子が本当にやっちゃって内心めっちゃ焦りつつも状況をコントロールしてるのはあくまで俺だと虚勢を張りまくって最終的に最悪の巻き添え被害を出して自爆した麻原彰晃のように、デフォーもどんどん狂いを増していくパティンソンを止めることができず父の虚勢を張り続けることしかできないのであった。

「二人の灯台守が狂っていく」とあらすじを書く人もいるがそれは違う。ここで狂っていくのはパティンソンだけでデフォーは最後まで正気なのである。だが正気状態でこの人が出来ることは父マウンティングだけなのでその無能が現実との乖離と人間関係の崩壊を生むのである。それは『ウィッチ』に出てくる父が父マウンティングしかできなかった結果として家を崩壊させるのと同じことなのだ。

パティンソンはデフォーに本物の強い父を見出す。だからそのポジションを奪い取れば自分も安泰と信じてしまう。しかし反面で「…ぶっちゃけたかが灯台守じゃない?」とも思ったりする。彼は若い分だけデフォーよりも少しだけ現実が見えている人間である。少しだけ、というのが不幸で、「デフォーは強い父」というイメージと「デフォーは単なる無能なバカ」という両極端のイメージの板挟みとなって、そのダブルバインドがパティンソンの精神を壊してしまうのである。強い父のデフォーの立場を手に入れれば安泰だ、でもデフォーの立場を手に入れるとはデフォーのようになるということだ、そしてデフォーは本当は単なる無能なバカだ…じゃあ俺も本当は単なる無能なバカなのか?

印象的な場面数多のこの映画の中でもとりわけ印象的だったのは孤島に上陸したパティンソンが灯台宿舎の寝室に入る場面で、その部屋は中央に柱が通っており、カメラは柱を画面の中心に据えて部屋を断面図のようにフィックスで切り取る。シンメトリーのこの部屋は柱を挟んで左右壁際にデフォーとパティンソンのベッドが置かれている。で、パティンソンが誰もいないかに思われたその部屋に一人で入ってベッドに腰を下ろすと、あたかもその分身ででもあるかのように柱の陰からデフォーが姿を現す。彼は最初からこの部屋にいたのだがカメラの角度で見えなかったというわけで、デフォーとパティンソンのアナロジカルで危うい関係性がここで既に表れているのであった。

デフォーが父マウンティング目的のためだけにパティンソンに課す終わりのない単純重労働はまるでシーシュポスのようです(階段の上まで運ばせた油を無駄に元の場所に戻させたりする)。海鳥にはらわたを食われ続ける姿は人類に火を与えたプロメテウスの刑罰だ。パティンソンが霧笛から連想する人魚の奇声はセイレーンのようなもの。この不吉な霧笛はまた海神トリトンを気取るデフォーの父マウンティングの一環としても利用される。トリトンはホラ貝を吹いて潮をコントロールするからである。

だからなんなのだろう? ギリシア神話の引用があったところで深い意味なんかあるんすかね? だって別にアメリカの1880年代の灯台守とギリシア神話関係ないでしょう。でも、そういうのをやるとなんかスゴイ風っぽくは見える。深い話っぽくも見える。俺はこの映画の作り手はそれをわかってあえて薄っぺら引用をやってるんだと思う。全然関係ない知識を引っ張ってきて俺はなんでも知っててすごいんだぞとマウントを取ろうとしたり、その知識で話を逸らして自分の有利な方向に持って行こうとする空虚で狡猾な「父」(セイレーンの歌をマスト縛りでガン無視するのはギリシア神話の英雄オデュッセウスである。デフォーが灯火室にしがみつくように!)の偶像をあざ笑って破壊しようとしてるんじゃないだろうか。オチもなんだか人を食った感じであるし。

そういえば『ウィッチ』の父が一家の長でいられたのも彼が家族の誰よりもキリスト教知識に富んでいると家族の中で考えられていたからであった。その無駄知識が家をぶっ壊すという点で『ウィッチ』と『ライトハウス』はどちらも父の機能不全を描いた地続きの物語なのかもしれない(『シャイニング』オマージュっぽい斧追いかけっこも父の機能不全の映画として、ということだろうか)。どこまで狙いなのかわからないオフビートなユーモアも含め、すばらしい戦略的ハッタリ(打破)映画である。

※ところでこの映画はスタンダードサイズの映像美をとてもよく褒められているらしい。それでちょっと思ったのだが、スタンダードサイズの映像美って意味よくわかんなくないすか? だってスタンダードで映画撮るって決めたら普通はスタンダードに合わせた絵作りをするじゃないですか。そしたら映像がキレイになるのは当たり前じゃないですか。シネスコで映画撮るときはシネスコに合わせた絵作りをしますよね? そしたらそれも映像がキレイになるのは当たり前だと思うんですよね。その場合あるのは単に「映像美」だけなので「スタンダードサイズの映像美」としてこれを他の画面サイズの映像美と区別する意味とかぶっちゃけ無いと思うんすよね。

だからこういうのも父マウンティング的めくらまし演出なんだと思います。あるキレイな映像を単に「映像美」と捉えてもらうより「スタンダードの映像美」として捉えてもらった方がなんか特別感あるじゃないですか、本当は特別なことなんか何もないのに。モノクロとかもそうですよね。モノクロでもカラーでもキレイな映像は単にキレイな映像なのにモノクロ画面のキレイを「モノクロの映像美」とか言ったりする。どんなに優れたカラー映像であっても「カラーの映像美」なんて少なくとも今の映画に対しては誰も言わないのに。で、そうやって自分を特別なものとして見せることを劇中でデフォーはずっとやってるわけです。

※※あと片目の潰れた死体が出てきてこれはどういう意味なんだろうと思ってたんですが、息子(的な)が「女」としての灯火室を独占する父(的な)を倒して父として「女」を手に入れようとする話と考えれば、あの片目の潰れた死体は主人公オイディプスが自ら目を潰すギリシア悲劇オイディプス王からの引用だったりするんだろうと腑に落ちた。なんでも監督本人はあの灯台を男根になぞらえて語っているらしいので、エディプス・コンプレックスからの連想かもしれない。父に抑圧された息子が父を倒すことで今度は自分があれほど嫌悪していた父になってしまう、悪しき父のらせん階段があの灯台なのだ。

【ママー!これ買ってー!】


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機能不全の父といえばこの映画のウィレム・デフォーも機能不全っぷりがすごかった。さすが『タクシードライバー』のポール・シュレイダー監督作、男の機能不全描写は迫真である。

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