“映画界の救世主!”なんてハデな煽り文句がポスターやら公式サイトに踊るグザヴィエ・ドランの新作『Mommy/マミー』(以下『マミー』)を観てきた。
『マミー』つってもミイラ映画じゃないらしく(白々しい!)、お母さんの映画。
こーゆーハナシである。
養育不可と判断した子供を親が無条件に保護施設に入所させるコトのできる、架空のカナダ。主人公の男子高校生は大好きなママと仲睦まじく暮らしていた。
だが、やがて彼の問題行動が目に余るようになり、ママは我が子の将来を考えて施設への入所を考え始める…。
これアスペクト比が面白くて、スタンダードより小さい縦横1:1の正方形の画面。とても狭いので、登場人物をミドル・ショットで撮ろうもんなら、それだけでもう画面がいっぱいになる。
誰か(ドラン本人?)がコレをインスタグラム・サイズとか呼んでるらしいが、そーゆー感じで人物が映ればポートレート、風景が映れば絵葉書みたいになる。
映像の切り取り方がとてもキレイで、1カット1カットがとても絵になってるのだ。
何枚かスマホの待ち受けにしたかったぐらい。
実はもっとアートっぽい映画を勝手に想像してたが、テンポの良いチャカチャカした編集はなんだかダニー・ボイルみたい。画面をオブジェクトと激しいセリフの応酬が常に満たすんで、ある意味マイケル・ベイのアクション映画みたいでもある(アクションとか無いが)。
抑揚が無いとも言えるが、このあたりどう判断するかは人によりけりだろか。でもそーゆー演出のオカゲで、二時間飽きないのは間違いない。
…いやイイのだが、ぶっちゃけとても不安でイヤな映画である。見た目、映像のキレイな感動作っぽく見えるが、もし近い映画を挙げろと言われたら真っ先に『愛のメモリー』(1976)と『オールドボーイ』(2003)を挙げる。
観た人なら分かると思うが、この二作はかなり倫理的に危ういエグめの映画である。でもエグめなのに、どっちもとても感動する。バッドエンドっぽいのに限りなくハッピーエンドなアンビバレントな映画なのだ。
翻って『マミー』はどうかっつーと、もう一片たりともエグさ無し。そして超ハッピーエンドなのだが、その意味するところを考えると『愛のメモリー』や『オールドボーイ』とは別の意味で相当キツイもんがある。
ある意味、サイコホラー的。そして地獄みたいな映画である。
(※以下、バシバシとネタバレする)
さてインスタグラムの特徴的な『マミー』だが、似たような手法で叙情派にして前衛派の映画監督・木下恵介が、画面を楕円形に切り取ったコトがあった。
『野菊の如き君なりき』(1966)とゆー映画だったが、回想シーンを楕円の中に収めるコトで、なんだか昔の写真を見てるような気になってジーンとくるのだった。
木下恵介は原恵一による伝記映画『はじまりのみち』(2013)でも描かれたように、「母」にとても拘る映画監督だった。
ドランもまた「母」に拘る人らしいが、『マミー』のインスタグラム・サイズは木下恵介の楕円みたいに幸せを感じさせてくれない。どころか、狭くて窮屈で息苦しくなってくる。
インスタグラムの狭い世界に、主人公もママも、そしてその女友達も閉じ込められんである。果たして、ナゼそんなイヤなコトになったのか?
その前に再び木下恵介なのだが、この人の映画はホント「母」がよく出てきて、その子供との関わりも大体同じである。
『陸軍』(1944)とか『日本の悲劇』(1953)とか『楢山節考』(1958)とか『笛吹川』(1960)とかそんな感じだが、時代遅れの母と時代に飲み込まれる子、あるいは子を愛する母と母を拒絶して自立しようとする子、なのだ。
ほんで、この人はあくまで子を失った(失いつつある)母のやるせない心情に寄り添いながら、子離れを避けようの無い悲劇として描く。
あの回想の楕円がどこまでも幸せなのは、まだ母と子に亀裂が入る前の、厳しい現実が侵入してくる以前の調和のとれた世界を思わせるからなんである。
もちろん、んなもんは想像の中にしか存在しないが、だからこそ人を惹きつけてやまないのかもしんない。
母と子の一体化、というと究極的には母と胎児の関係になる。母にとっちゃ文字通り自分の一部としての子、子にとっちゃ自分を守ってくれて欲しいものは無条件で与えてくれる母、ってな関係。
母親がどの程度その関係に幸せを感じるかは知らんが、子にとっちゃ理想的な環境には違いない。だって、辛いコトなんてなにもないんだから。
『マミー』のインスタグラムが思わせるのはこーゆー世界だ。何不自由ない母胎の中で戯れる母と子と、母の女友達。彼(彼女)らはお互いを映し合う鏡で、誰かが傷つけばみんなが傷つく。誰かが幸せになれば、みんな幸せになる。
三人で一人、一人で三人の世界。一体化する母と子。父親や男はいない。現実は無い。邪魔者はいない。存在しない。
『マミー』は基本的に母と子と女友達しか出てこない映画で、たまに他の人間が出てきても三人の関係を邪魔する悪いヤツか、単なる怖い人としか描かれない。
その悪いヤツのほとんどが野卑な男ってのは、ゲイであるドランの、なにかイヤな思い出が反映されてんのかもしんない。
バーのカラオケで女々しく歌う主人公に、周りのクソ男どもはツバと罵声と嘲笑を浴びせかける。母を奪おうとする男も醜悪に描かれたりするが、とにかく、男どもは敵である。
主人公にとっての現実はそんな世界だ。誰も自分を理解しないで、自分を受け入れない世界。自分の弱さを認めてくれない世界。そんな世界では生きられない。
そうして、主人公は母と子と女友達の狭い世界に閉じこもる。ママとキスして、姉妹みたいに戯れて…。
『マミー』はグっとくる場面がとてもたくさんある映画だったりするが、主人公が女友達を母と子の密室に招き入れた場面にはとくにグっときた。
イヤな世界から解放された主人公がグーっと両手を広げると、なんと画面の左右が広がって、インスタグラムがヴィスタ・サイズだかになるのだ!
画面の縦横比を演出に使うなんて、素晴らしく楽しい演出。もし木下恵介が生きてたら羨ましがったろう。
ってなワケで画面も世界も急に広がる。このあたりの開放感は中々他の映画で味わえるもんじゃないと思うが、しかしすぐさま画面はまたインスタグラムに。
ストーリー上では主人公の問題行動が原因で多額の現金が入用になったせいだが、要するに想像的な密室世界に厳しい現実が侵入してきたワケである。
結局のところ、解放は見かけだけの解放だったのだ。現実と戦わない限り、本当の解放はない。でも戦えない。戦う強さを持ってない。
現実に刃を向ける代わりに、主人公は自分の手首を切るのだった。
どうにもインスタグラムの世界が息苦しいのはそのせいだ。1カット1カットが絵になると書いたが、そこで主人公ら三人はどこまでも美しく、ナルシスティックに切り取られる。
そん中じゃ三人が鏡合わせ状態なんでまさに自分に惚れたナルシスだったりするが、現実から、他者から隔離された世界でしかナルシシズムなんて成立しない。
どうしても現実を切り離す必要があった。自分と、自分と同一視される二人の仲間の世界で幸せを享受するに、画面の両端に映り込む他者を切り捨てるしかなかった。自分たち以外を見ないようにする必要があった。
だから、インスタグラムは監獄なのだ。自分から入った監獄だ。そりゃ、息苦しいワケである。
池に映った自分の姿に惚れたナルシスは、彼を抱こうとして自ら池に身を投げた。で、彼は溺死した。
そのバリエーションで、江戸川乱歩の『鏡地獄』ってな短編がある。コイツは鏡に憑かれた男が内部が鏡張りの球体を作って、んでそこに閉じこもるってハナシ。男が最後にどうなるかといえば発狂するのだった。
話を『マミー』に戻せば、どうも母親は直観的に気付いてた。いつまでも息子と一緒に狭い世界にこもってたら、この子はダメになる!ってコトに(当たり前である)。ナルシスの鏡を割って、息子を現実の世界に出さなきゃいけない。
母親が主人公を施設に入れる決断をするあたりが映画のクライマックスだ。その前にある耽美的な白昼夢のシーンがとてもキレイだったコトは一応書いとく。
そん中で、主人公は母の懐を飛び出して結婚、子宝に恵まれて幸せに暮らすのだ(それが必ずしも幸せかは知らないが)
子供を自立させんのが母なる証明なら、なにがあろうとどこまでも愛し続けんのも母なる証明である。ポン・ジュノの『母なる証明』(2009)はマジでケッ作なのだが、この映画では母なる証明は狂気の証明だ。
『マミー』と同じく自立できない息子と母子の密室の中で生きる母は、息子にかけられた殺人の容疑を晴らすべく奔走する。サスペンスだが、映画の力点は事件の真相には置かれてない。母の深い愛の暴走と、そして母と子の間の埋めようのない断絶が、この映画を衝撃的な作品にしてる。
外の世界に背を向けて、『マミー』の主人公は三位一体の楽園に安住しようとする。母はしかし主人公に手を焼いていて、ときに激しく衝突する。楽園は楽園ではないし、母は子と一体ではない。ましてや女友達なんて他人である。
主人公はそれに気付かないが、母は知っていた。知っていたが、主人公を愛するあまり知らないフリをしてたのだ。
苦痛をこらえて、それでも母は子を自立させようとする。鏡地獄の外に出して、子を施設に入れる。「養育不可と判断した子供を親が無条件に保護施設に入所させるコトのできる、架空のカナダ」という設定はココで生きてくるが、しかし考えてみりゃ、子を自立させるだけのハナシに別段こんな設定はいらないだろう。
この設定は作中で「スキャンダラスな法律」と説明される。母子ともに苦痛を伴う子の自立は「スキャンダラスな法律」のせいで無理やり行われるワケで、家族における必然は、こうして社会的な悲劇に転化する。
現実の社会のせいで幸せな母子の密室が破られた!とゆーことで、インスタグラムと同様、「スキャンダラスな法律」の設定は母子の密室の理想化するために要請されたんじゃないだろうか。
大して観てないくせして野蛮に書いてやるが、こーゆーのは木下恵介がやったことなんである。しばしば軍国主義として表現される男らしさが、木下映画の中で最大の敵だったコトは言うまでもない。
しかし…。
木下恵介はそれでも子を自立させた。で、『マミー』のラストはこうだった。施設に入った主人公が脱走。音楽が高鳴って、苦痛からの解放に主人公は歓喜する。そして母子の合一を暗示して、映画は終わる。
…そりゃ、美しいよ?感動的だよ?音楽もいいし。でも、これじゃなんも解決してなくない?想像的な母子の密室に回帰するだけで、なんも変わってないじゃん。
問題は現実の側にあるんじゃなくて、自分の側にある。主人公はそれに最後まで気付かない。自分がどれだけ母親に苦痛を与えていたか、自分がいかに母親と違う人間であるか、少しも気付きゃしない。母親の中にいる他者を直視できない。
だから、現実と、現実の側にいる他者と接するコトが出来ない。それが主人公を苦境に追い込んだのに。
『愛のメモリー』とか『オールドボーイ』でも近親相姦的な親子の合一が美しく描かれるが、前提として近親相姦はイケナイこと、とゆーのがあり、それを乗り越えて近親相姦に走るからスゴかった。
そーゆー前提は『マミー』には微塵たりともなく、ココでは単純にママとボクが一緒になるのはスバラシイこと、として捉えられる。
なので、そういう意味じゃ『マミー』のラストは『愛のメモリー』や『オールドボーイ』以上にキケンでスキャンダラスなんである。
極めて大胆、挑発的。ドランは今25歳の若手監督だが、ある程度歳食って現実の厳しさに触れたヤツなら、こんな映画は出来ないと思う。その意味じゃスゴイ。
スゴイが…しかし考えれば考えるほど、やっぱイヤな映画である。主人公が辿る道は、ラストの幸福感に反して暗いモノしか想像できないからだ。
老いた子供は誰も入ってこない母子の密室の中で生きる。母の死と共に彼は死ぬだろう。現実の死と戦うすべを、彼はついぞ知らなかったのだ。
それはそれで、彼にとっては幸せかもしれない。愛のメモリーとともに美しく死ぬ。そしてようやく母と一体化できるんだから。
【ママー!これ買ってー!】
ある種、『マミー』を現実の、他者の目から描いたのが『母なる証明』って言える。これはこれでイヤ~な気分になる映画だったりするが、人間、イヤな現実に目を向けるコトは必要である。
↓配信/ソフト
映画マミーを他の映画と関連させて画面の息苦しさとラストの悲劇を見ているのが興味深いです。ラストにトリュフォー監督の(大人は判ってくれない)を見るか(カッコーの巣の上で)を見るかで違ってくるが、カナダという社会に生きる姿が反映しているのかも知れない。
コメントありがとうございます~。
ラストは、俺は「大人は判ってくれない」の影響かなと思いました。
なんというか全体的に生々しい質感のロケ撮影がなされており、そのあたり共通する気がしたので。
カナダ映画って往々にして閉塞感の強い、フランスやアメリカというよりは北欧映画のトーンに近い気がするんですが、そのあたり寒い気候や大国の間で独特のアイデンティティを育んできたカナダ社会のなにかを反映してるのかな、と思います。
今更見たのですが、ラストシーン、解放されるところなのに、画面が「インスタグラム・サイズ」から広がらなかったので、これはハッピーエンドではないのだと思ってました。。。普通にハッピーエンドにされるより、この映画ならではの手法で描いた、良いバッドエンドだなと解釈しておりました。
言われて気付きました!確かに広がってなかったですね画面…ハッピーなバッドエンドか…。
これ面白かったのはすごい両義性のあるところで、抑圧からの解放をエモーショナルに描く一方でそれが幸せに直結するとは限らないと即座に否定してしまったりするじゃないですか。
だからあのオチもハッピーにもバッドにも取れるけれどどっちなのか判断できなくて心がざわつくっていう、そういうものなのかなぁって今は思ってます。