細田流キラキラ映画『竜とそばかすの姫』感想文(多少のネタバレはある)

《推定睡眠時間:0分》

おそらく思春期に同学年の友達が一人程度しかおらずそれも一ヶ月に一回遊ぶか遊ばないかぐらいでしかなかった(だいたいは一人でゲームするか映画見てた)ことが関係しているのだが自分がそういうものをほとんど持っていないので世代のクリエイターみたいなのがよくわからず庵野秀明がどーしたこーしたでその一挙手一投足に沸いたり沈んだりする「俺たちの」的な盛り上がりとかを見るとアホなんじゃないかと白けてしまったりするのだが、『デジモン』やら『ワンピース』やらの世代的映画で名を上げた元ジブリ関係の(?)クリエイターらしい細田守も俺の目には「俺たちの」監督に見えてしまうので別につまらない映画を作るわけではないとしてもそんな大した映画監督じゃないんだから新作が公開されたぐらいで盛り上がる意味がわからないというのが正直なところである。

とまずはこんな場末ブログをわざわざ読んでくれている人にわだかまりの冷や水をぶっかけてああこれは合わないなと思った人には帰ってもらったところでその細田の新作『竜とそばかすの姫』の感想なんですが面白かったですよびっくり、俺細田の映画でこんな面白いと感じたことないですよ三本ぐらいしか観てないですけど。インターネット世界の風景描写がすごいんだよなIMAXで見たら映えるんだろうな~っていうね。これはですねコンセプト・アートにカートゥーン・サルーンのトム・ムーアが名を連ねていることが関係してるんだろなとか思うんですが色んなスタイルやイメージを一目見ただけでは到底把握できないぐらい重ねるんです。

電脳空間ならこれでしょみたいな感じで(たぶん)プリント基板のモチーフがまさしく基板としてあってそれが日本画的であったり屏風絵的であったり漆器や染物的であったり、それでまたそこからイメージが派生してドットパターンが宙を満たしていたりみたいな感じで次々と変奏・変換されていくんですけど、そこになんていうか時間的な前後関係や価値の優劣がなくて、物語の水準であるとか要請ともほとんど無関係に全部ひとつの画面に収まってしまうというポストモダン様式。でも混沌としてはいないんですよね。混交とか融合ではなくてレイヤーの思想で絵が作られていて、同じモチーフの異なる見え方とか異なる見え方から発生する異なるイメージを重ねることでインターネットの世界っていうかSNSの世界が表現されているから画面にポリフォニックな統一感があるんです。

その背景にタッチの異なる電脳アバターがぎしぎしとひしめているのでこれはもうサイバーがパンクしてますよ。この場合のパンクはロックの方のパンクじゃなくてタイヤのパンクの方のパンクで多すぎる情報に視聴覚機能パンク。右を見たらいいのか左を見たらいいのかわからなくなってしまうわけですがその混乱脳を電脳歌姫のお歌が満たしてなんかよくわからんけど泣かされる映画ということでいやぁよくできてますよねぇ。ドラッグ教授ティモシー・リアリーが書いてた洗脳技法を思い出しましたよ、はっはっは。そういうことを書くんじゃないよ。

ストーリー説明とか要ります? いらないよねストーリーとか知りたい真面目な人は公式サイト見るもんね。そっちの方が確実に正しいので知りたい人はそうしてくれ。ストーリー面の俺の感想。これはあれだよなキラキラ映画と同じだよな。だって橋めっちゃ出てくるからね。言われてピンと来ない人もめちゃくちゃいると思うんだがキラキラ映画といえば橋なんですよ。地方ロケもののキラキラ映画はもう絶対に橋を出す。橋の行ったり来たりで感情の起伏を表現したりドラマにリズムを付けたり使い方は色々あるがとにかく橋、もう橋で撮らなければ始まらないというぐらいに地方ロケもののキラキラ映画は橋を出す…意味が分からない人は地方キラキラ映画を三本ぐらい観ればわかるからとりあえず観てくれ。ちなみに首都圏ロケのキラキラ映画だと橋の代わりにアウトレットモールとか観覧車が出てくるので要注意だ。なんだか格差を感じるね。

橋とあとこれは河川敷と電車も何度も出てきていたが河川敷と電車というのもキラキラ的ロケーションもしくは被写体であり…ストーリーの感想では早くもなくなってしまっているので軌道修正するが(いやでもマジでキラキラ映画はよく撮るんだよ電車、たぶん聖地化を狙って)そうそうだから何がキラキラ映画かっていうとこれは平たく言えば主人公の内気女子高生が歌で傷ついた男を癒やすお話なわけです。俺の中ではごちゃごちゃとあれこれのキラキラ映画と比較できているんですけれどもこれはあくまで勢いで書いてる備忘録的感想なのでその過程はもうすっ飛ばして結論だけ言うとそれってキラキラ映画の基本構造なんですよ。

タイトルだけ挙げますけれども『となりの怪物くん』とかさ、『青空エール』とかさ、『四月は君の嘘』とか『君の膵臓をたべたい』だって言ったらそうじゃないですか。その関係性を極限まで推し進めれば『ういらぶ。』になるし、歌っていう共通項に着目すれば『覆面系ノイズ』とかになるし。今映画館でやってる横浜系キラキラ映画(横浜はキラキラ映画の名産地なのだ)『ハニーレモンソーダ』とかはわかりやすいですけどキラキラ映画のストーリーって全部それで、基本的に主人公は自分に自信がない女子高生で、そいつが何かしらの心の傷(だいたい家庭の問題)によって自暴自棄になっていたり自分の殻にこもっていたりする男子と恋をして、その恋愛を通して男子の心の傷を癒やすと同時に自信と居場所を獲得する、これはもう全部そうなんです。一種のビルドゥングス・ロマンなんですよねキラキラ映画って。

だからストーリーに関してはぶっちゃけ良いとか悪いとかない。キラキラ映画の定番シーンとか定番記号の連発なのでいつものやつだな~としかならなくて、もちろん電脳世界を舞台にするとかは実写キラキラ映画ではできないのでこの映画っていうかアニメならではなんですけど、でもそこでやってることは結局(女子による)男の子の癒やしと居場所の獲得なので、それだったら舞台が見た目に派手なだけで内実は自分に自信が持てず声が出せない女子高生が匿名の歌手としてデビューして業界を席巻するっていうお話の『覆面系ノイズ』と変わんないじゃんってなるし、『美女と野獣』を下敷きにとかって言ったってそんなこと言ったら『心が叫びたがってるんだ。』だって(そういえばこれも声が出せない人の話だ)メルヘン下敷きにしてたじゃんみたいな、なんかそんな感じになる。

でもこの映画を数多のキラキラ映画から切り離すシナリオ面でのオリジナリティと言えそうなところはあって、キラキラ映画は子供たちの抱える問題は子供たちが恋愛と友情を通して勝手に解決するので親の役割は限りなく小さくて、基本的に学園とその周辺だけでストーリーが展開するから行政機関は存在すらしない(その極北がキラキラファンタジーの『いなくなれ、群青』)ですけど、『竜そば』では親の「行動」がストーリーの重要なファクターになっていて、行政機関は役に立たないものとして(多少無理のある展開のエクスキューズという側面もあるとしても)わざわざ描写されるわけです。

これは『サマーウォーズ』で田舎のババァが国の偉い奴を電話一本で動かしていたシーンとか『バケモノの子』でホームレス状態になった子供が渋谷をさまよっていても誰も声を掛けないっていうシーンと地続きなのかなって思いましたよね。親、っていうか母親の行動。それと行政不信。この二つの結節点に細田映画のシナリオというのはあって、それは『竜そば』で鮮明になったんじゃないですか。

母親から言うと、『竜そば』の主人公の母親は幼い頃に増水した川の中州に取り残された子供を助けるために川に飛び込んで、その行動によって彼女は死ぬんですけど、物語の終盤ではそうして出来た空白を埋めるようにご近所母親ーズ(学校の体育館を借りて合唱をやってる人たち)が主人公に加勢してくれるわけです。面白いのはその行動によってそれまで描かれていなかった母親ーズのキャラクターが急に浮上してくるところで、端的に言えばこの母親たちというのは子供を救うためにだけ存在する。なので主人公を救う段になって初めて生きた人物としてその背景が描かれるわけですが、このときに父親たちの影がどこにもない点は注目に値する。

細田の前作『未来のミライ』でも母親が仕事で家を空けてしまうことが明確には描かれないものの主人公の男の子の不安と苛立ちの一因になっていて、なんすかねぇ、この母親憎悪と反面の母性信仰というか。父親は基本的に役に立たないものとして描写されていて(2021/2/21追記:というより、何もしなくてもそこに居るだけでいい存在として描かれているように見える。亭主関白的というか)、その代わり母親に親の役割の全て背負わせるんですよね、細田映画って。それが女子ビルドゥングス・ロマンとしてのキラキラ映画のフォーマットに乗ると良い感じに気持ち悪さが出てくる。

つまり、主人公は自分の感じている不安や不満を男の子の「母親」として行動することで解消して、そこに居場所を見出すわけですが、その居場所というのはあのご近所母親ーズのポジション以外になく、というのも母親の代理行動を通じて主人公の母親-主人公女子-ご近所母親ーズが円環を形作っているからそうなる。主人公がアバターを脱ぎ捨てる瞬間、彼女は無名の女子高生から母親になるのであって、ご近所母親ーズがそうであるようにその行動によって彼女にキャラクターが付与される=アバターに頼る必要はなくなる、という図式なわけで、要するに女の子はみんな地方で男の子の母親になれそれが唯一の幸せだという細田の呪詛(もしくは願望)が地方系キラキラ映画のフォーマットを得て盤石になっているわけですねぇ。

鶏が先か卵が先かみたいな話ですけどなんでそこまで母親に期待するんだろうっていうとおそらくそれと相補的に行政不信とか政治不信の形で表れるアナキズム的なマインドがあって、キラキラ映画にあってはそもそも警察その他の行政機関が出てくるような大事件は起きないのでそういうものはストーリーに入り込む余地がないわけですけれども、『竜そば』とかだと介入の必要な程度の事件は一応起こるのであくまで否定的な形で行政機関が出てくる。

そのときに、その行政機関の立地場所がひとつのポイントになっていて、この映画は舞台がどっかの田舎と東京とネット世界の三つに分かれているわけですけれども、「役に立たない行政機関」は東京にあって、行政機関がないのでそれを代理する「スポンサー付きの自警団」はネット世界にあって、で主人公の住んでるどっかの田舎には行政機関も自警団もない代わりに例のご近所母親ーズがいるわけです。行政機関は介入する能力がないから否定される、一方スポンサー付き自警団は過剰に介入するから否定されて、ご近所母親ーズだけは全面肯定される。

早い話が母親たちが守る田舎マジ最高、行政邪魔東京くたばれ大企業とソーシャルジャスティスウォリアー消えろ、母親の庇護のもと田舎で規制のないなんでもありのネットやってるの超たのしい。まぁそんな風に読める。これはきわめてオルトライト的な世界観だなぁと思いますよ。もとよりキラキラ映画というのは保守的な価値観に守られているジャンルなわけですけれども、実写で撮られるキラキラ映画は地理的な制約があるので地に足の付いた郷土保守になっていて、そこにティーン層を引きつけるための流行り物が投入されたりすることで逆説的に新しいモノや表現や俳優の受け皿になっている側面があるわけです(現代日本のメジャー映画で最も映像表現の実験が行われているジャンルはキラキラ映画だと断言してもいい)

ところが『竜そば』みたいなアニメだと地理的な制約がないので保守のコンセプトだけが厨二…いや宙に浮いて先鋭化してしまって、『美女と野獣』を下敷きにしているというのは象徴的だと思うんですけど、キラキラ映画の郷土保守が先鋭化と抽象化の末に一回転してある種の空想的な復古主義、国家のシステムを否定するという点でアナキズム的でありつつ女の自由を制限しようとする点でモラル保守でもあるオルトライトに退行してしまう。先端テクノロジーによって築かれた世界規模のSNSを舞台にしているのにものっそい狭い範囲の話に収まってしまう煮え切らなさは細田にそうした思想があるからなんではないだろうか。

この映画のオルトライト性を考えるときに面白いのはSNS世界と郷土世界の二つのリアリティレベルを対置することで現実ではない理想化された郷土をバーチャルに対するリアルとして再設定しているところにあって、なにもそうした構造を取る映画はこれだけでは当然ないですけれども、細田映画にあってはその構造がこの人の保守マインドと合致して特別な意味合いを帯びる。母親たちだけに守られた細田的理想の郷土はそうして映画の中で現実化されるというわけで、これが『竜そば』がキラキラ映画的でありつつも決定的にキラキラ映画とは異なるところ。キラキラ映画は子供たちの解決できる範囲の問題を子供たちが親の力を借りずに解決しようとするジャンルなので。

俺ごときが言うまでもないかもしれないが細田守はイメージを幾重にも重ね合わせる寓話的な手法を武器とする人で、『竜そば』はその点でアニメーションとして非常に充実していたと思う。キラキラ映画のフォーマットを偶然にか意図的にかは知らないがともかく得たことでシナリオも安定した基盤の上にエモーショナルなイマジネーションの飛躍があって面白かった。俺の趣味ではないが歌も別に悪くないし…なのでとくに文句のつけようがないぐらい完成された映画なのだが、この映画が完成されているのは作者の思想とシナリオのフォーマットが一致しているからだと見えるので、完成されている分だけ思想も前面にせり出してくる。

そこを見逃してしまうとおそらく支離滅裂な、とは言わないまでもとっちらかって中途半端な映画に映ってしまうだろうし、逆にその思想を無意識的にキャッチして肌に合わなければ映画全体になにやら受け入れがたいものを感じるんじゃないかとも思えて、こんなによくできた万人向けの映画なのに案外絶賛一色で染まっていなかったりするのはそのへんに根があるんだろうとか、まぁなんかそんなことを考えましたよ俺は、キラキラ映画ファンとして。としてということもないが…。

※終盤に出てくる主人公の「走り」に違和感を感じる人もいるかもしれないがあれはたぶんキラキラ映画と同じ理屈でやってるだけで、キラキラ映画といえば愛する人のもとへと向かう主人公の全力疾走が95%ぐらいの確率で物語のクライマックスなのである。同じことは新海誠の『天気の子』にも言えるので俺はあれもキラキラ映画だと思ってる。

※※これも鶏が先か卵が先かなのだが細田の田舎賛美は母親が生活圏の外に出て行かない環境だからというのも一因としてあるんじゃないだろうか。都会の母親は子供の知らない場所に働きに出てしまうので。

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駄菓子みたいなキラキラ映画だがアホっぽくて面白い。

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通りすガリンペイロ
通りすガリンペイロ
2021年7月30日 10:59 AM

見た結果、監督っておネエなのかな? と疑ってしまいました。
全体に女性っぽい世界観(みんなに褒められること重視)、受動的主人公を甘やかすストーリー、永井豪的マッチョかつバイオレントな男がいない・・・。
ただちょっと違和感は、キャラにはっきりとヒエラルキーがあること。視覚的にも、サイバースペースではメインキャラは人型、サブ、モブはフリーキーなマペット型です。
昔の幼女向けアニメで『プリパラ』というのがあって、こちらも自己実現目的のサイバースペースが舞台のアニメですが、こちらは老若男女みな平等にアイドルとして扱われるユートピアとして描写されていました。同調圧力で悩む女性的な世界観は『プリパラ』のが近いと思います。
そう考えてみれば、この映画は女装したオジサンのようなものかもしれませんね。まあそれ以前に、大人が見るもんじゃねーな、とも思いました。目に見えてる地雷踏んだ私が愚かでした(苦笑)

booby
booby
2021年7月31日 2:39 PM

私が見てる間中気になったのは、世間のいうネグレクトの問題とは別に、ヴィジュアル面はともかく、内実としてのネット描写がお粗末すぎて、細田守は実はネット書くの下手なんじゃ?という事でした。パーソナリティがそのまま外見に現れ、カスタマイズも出来ないアバター、などと言うルッキズムの権化のような仮想空間に50億も人が集まるものか?と言う最初の疑問から始まって、竜の正体の容疑者がたった3人とか、何かが起きた時の人々のリプライの幅の狭さ(物語進行上の修飾語としてしか利用・機能していない)、竜の正体が電車(劇中では深夜バスでしたけど)で行ける距離にいるのかよ等々、挙げればきりがないですが、とにかくえっれぇ狭い世界なんだな、と再確認することだらけ。これだったら「日本で流行ってる仮想空間」位の方が収まりがよかったでは…まぁ、ネットと言うよりマスの把握や抽出の仕方が雑な人なのかもしれませんが。