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おそらく俺が見落としているか忘れているだけなのだが久々にタイトル画面で「字幕翻訳:戸田奈津子」の文字を見た気がして、戸田奈津子といえば言葉選びのセンスの古さがよくネットでネタにされるものだからちょっと身構えて本編に入ったんですけど、なんか、結論から言うと、すごいネタにされますけど、あぁやっぱこの人ベテランだわって思ったね。
いや古いんだよ、ダイアン・レインが息子の妻に要望を伝える時の台詞の字幕が「ズバリ言うわね」とかさ。原語でなんつってんのか知りませんけど「ズバリ」って今の映画の字幕でそう出ないよね。あと「嫁」表記。「実はウチの息子の嫁が…」みたいな字幕が頻繁に出るんですけど、このへん今はわりとセンシティブだから変なところで作品にケチが付かないように「義理の娘」とかにすると思うんですよね。それから「なのよ」「だわ」の女言葉とかも古い。若い女性客をメインターゲットにしてるような最近の映画だと時流に沿って女性キャラの女言葉を採用しないことが多くなりました。
だから全体的に古いなーって思うんですけど、ところがドッコイこっちまで感化されてワードセンスが古くなってしまっているが、これがねすごい自然に頭に入ってくる。それはナゼかというと翻訳小説調の字幕になっているからで、これ想像ですけどおそらくこの映画の字幕って意訳も多くてそこまで原語に忠実じゃない。誤訳も何カ所かあるような気配もある。でも字幕がちゃんと物語になってるから「翻訳」っていう感じがしなくて、「ズバリ言うわね」と字幕で出ればそれはダイアン・レインがそう言っているように見えるっていうか、字幕が声として聞こえるんですよね。
それも善し悪しで意訳の多い物語的な字幕よりも翻訳の正確性を重視する字幕の方がいいよっていう人もまぁいると思うし専門用語とかスラングの多い映画だと俺もそっちのがいいと思うんですけど、この映画って時代設定が1963年らしいのでかなり古い話で、しかも1963年の時点で既に時代に取り残されてる田舎の人たちの話だから、どれぐらい古いかって人捜しをする時には町の馬具店とか保安官事務所に「○○家の人間はこの町にいるかしら?」って聞きに行く!
…ある? まぁでも人間をチェーンソーで捌いて家具とか作る人もいるアメリカの田舎ともなればこれぐらいあるか…。ここまで古い人たちが出てくる映画なら字幕を現代風にしてしまうと違和感が出てしまうっていうわけで、戸田奈津子のセンスの古さと翻訳小説調が作品の世界観と見事に調和、これはまぁ珍しい例なのかもしれませんがともかく結果として非常によい、戸田奈津子の名人芸を感じる字幕になっていたのでした。
さて映画の内容ですがダイアン・レインとケヴィン・コスナーの夫婦がテレビもねぇラジオもねぇ的な文明から隔絶されたモンタナの辺境牧場で平和に暮らしておったところ理不尽にして突然の息子事故死。嘆き悲しむ二人であったが息子の嫁と孫はまぁ無事だったからほんじゃあまぁこれからは元嫁と孫を遠巻きに見守ってその幸せを糧にひっそり余生を過ごしましょか、大丈夫介護しろなんて言わんからあんたはあんたで再婚して幸せになってくださいな、あんたの幸せが私らの幸せだからねってことでどこの馬の骨とも知れん男との再婚祝福。
よかったよかった、これでよかったんだ…だがそんなおり、ダイアン・レインは偶然にも嫁の再婚相手が彼女と孫に暴力を振るっている光景を目撃する。これいかんだろう。っていうかそもそもあの男なんなん? 憤懣やるかたないダイアン・レインはとりあえず嫁とその再婚相手に話を聞くべく二人プラス孫の住むアパートに向かうがそこで目にしたのは既に空室となった一家の部屋、そして耳にしたのは人々が言葉少なに目を伏して語る「ウィーボーイ家」の噂であった…。
それにしても原題『LET HIM GO』も映画の内容からすれば含蓄のあるタイトルとはいえ字面はえらい地味でフックがないが、邦題『すべてが変わった日』はそれに輪を掛けてフックがなくこんなタイトルで客が来るのかよと映画が売れようが売れまいが一切関係ないはずの俺がなぜか心配してしまう。もっとはっきり現代(60年代設定だが…)西部劇だってことを打ち出した方がよかったんじゃないか。『荒野の○○』とかなんかそういう感じで。惹句を見ればサイコスリラーの文字が躍っており西部劇に縁の無い客を呼び込もうとしてのことなのだろうとは想像できるが、これをサイコスリラーと呼ぶのはさすがに苦しい。アメリカ中西部での家と家の対決を描いた紛うことなき西部劇である。
多くを語らない映画なのでこちらもあまり多くを語るのは止めておくとしてとりま良かった点だけ並べるとこれは空気が本当に素晴らしい映画でダイアローグの無言の間であるとかなんでもないアメリカ田舎の風景、あるいはそのちょっとした日常からのズレの帯びる緊張感に胃がキリキリしっぱなし。とくに『ファイナル・プラン』での好演も記憶に当たらしいジェフリー・ドノヴァンがね~何役かは言わないですけどジェフリー・ドノヴァンのちょっとチャーミングなところもあるのがまたタチの悪いキモコワウザさが! こいつの出てくるシーンの厭さと反面の可笑しさときたらですよ。
西部劇と書けば悪い奴と良い奴の戦いをイメージする人もいるかもしれませんがそれはどちらかといえばマカロニ・ウエスタン的なイメージで、アメリカン・ウエスタンの現代風にアレンジされた王道を突っ走るこの映画は決してそのような善悪二元論の構造は取らない。対決はあっても勝敗はない、正義はあっても善意はない、誰もが己の生活を守ることに精一杯でその中で生活を守るための衝突が生じるという映画なのだ。アメリカン・ウエスタンはアクションを描くジャンルである以前に西部の生活を描くジャンルなのであった。
だからこの映画では出てくる全員に言い分があってそれぞれの立場での正義があるんですけど、それがそれぞれの抱える事情や出来事の核心をあえてボカして描く巧みな脚本と相まって、何が起こるかわからない、何が正しいのかわからないっていう不安感が雪だるま式に膨れ上がっていく。馬を駆る姿が実にサマになりまくる(だって『ポストマン』だからね!)ケヴィン・コスナーは序盤こそ理想のパパ的ヒーローのように見えるが段々とそうではないかもしれないと思えてくる、気丈で気高く情に厚い西部劇的「西部の女」を今どきこんな超説得力で演じられる人おるんや的なダイアン・レインの判断や行動を観てるこっちとしては絶対に間違いのないものだと確信したくなるが物語が進むにつれて段々と確信してよいものか自信がなくなってくる。
時代設定は1963年と書いたが実は劇中ではそれも明確にはされておらず(されたらごめん見逃してたわ)、町へ行くと言っても時間の止まった中西部の田舎町だからまぁこういう田舎も現代にまだ残っているのかも、とか、あるいは逆に百貨店のシーンに出てくるレジスターを見ればいやこれいつの時代だよ戦前? っていうぐらい古く見えて、観客が依って立つ正しさもあやふやなら見ている光景もまた明瞭なようで不明瞭、つまるところ独立独歩の精神でアメリカ西部に生きるとはこういう足場の定まらない不安に常に苛まれ続けることなのではないだろうか?
…という意図が作り手にあるかどうかは不明だが、ともあれそのようにも見えるということで、西部劇の本質にぐっと迫った結果なんかノワールで不穏である種のおとぎ話みたいになったのが『すべてが変わった日』という映画ではないかと思う。生々流転の世界の中で変わらないのは地平線まで続く荒野と彼方にそびえる山脈だけだ。度々挿入されるあの雄大な自然風景は中西部人の心象風景でもあるのだろうと思う。
【ママー!これ買ってー!】
みんな駄作駄作いうから観てなかったんですがこないだ観たら全然面白いSF西部劇じゃねぇかよなんなんだよこの駄作扱い! ケヴィン・コスナーも含めて求む再評価!