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テイラー・シェリダンという監督はとにかくずっと領土と境界線についてのお話ばかり撮っていて、普段は自分たちの領土の中で自足してる部族的な繋がりの集団が何かの事件をきっかけに領土維持のため境界線を越えてしまい、アウェーの領土で自分たちとは異なるルールを持つ部族的集団との生きるか死ぬかの戦闘に入るみたいな、そういうプロットが非常に多い。
西部劇的でもあり戦争映画的でもあるわけですが、たぶんこれはアメリカの基本ってそういうことだよねみたいなのが言いたいんでしょね。各州の独立性が強くて生活様式とか価値観が州を跨いだだけでガラリと変わってしまったりするし、その中は更に様々な民族集団とか宗教集団とか職業集団のグループに分かれたりしていて、一応アメリカっていうブランドと自由の旗の下にみんな共存はしてるんですけどそれぞれのグループが相互理解に達することは基本的になくて、だからこそ各々のグループが自由に自分たちのやりたいことをやれるんですけど、でもその自由の代償として常に一触即発の緊張感も帯びていて、みたいな。
『モンタナの目撃者』も絶対にわかり合えないグループとグループの死闘が描かれるわけですがそのわかり合えなさがものすごく、どうやらその土地の人間ではないらしい謎の二人組がなんか誰かの家入ってったなーなにするんだろーと呑気に構えていたらいきなり爆破! それから二人はまだ別の誰かを探して車に乗り込むわけですが初手が爆破の人たちなのでこんなの絶対に交渉とか無理だろとドン引き。実際無理なのでこの人たちはのどかな山道を情け容赦なくバトルフィールドに変えてしまいそこを通りかかったターゲット+哀れな邪魔者の方々をダダダダダッとプロ仕草プロ仕様の自動小銃で撃ちまくったりするのであった。
主人公のアンジェリーナ・ジョリーは森林消防隊のリーダー的な人であるから普段は森林火災の消火で平和に領土を守っているのだったがこんなわけわからん傍若無人二人組の土足で爆破&銃撃に巻き込まれては武器を手に取って戦うしかない。といってもあくまで専守防衛で交戦は逃げ道を失った時に限られるのだが、それにしても自分らの領土を荒らされたら通常戦闘員とは見なされない人でも勇猛果敢に敵に向かっていくあたり、セルフディフェンスを国家の礎とする(と考える人が多い)アメリカらしさを超強く感じるところである。ゆーてアンジーなら戦えるやろとかついつい思ってしまうわけではあるが、アンジー以外にもパっと見であんま戦えなさそうな人たちもこの映画ではゼロ怯みで外道二人組に牙をむくので結構びっくりする(そしてアガる)
観ながら思い出したのは90年代に流行したテロリスト的犯罪集団が自然災害などに乗じて悪さをする『ダイ・ハード』+ディザスターの映画群の一本『ファイアー・ストーム』で、これは森林消防隊の主人公が火災の裏で極悪人の脱獄を目論む悪い奴らを成敗していく映画だったのだが、面白いのはこういう90年代以降の『ダイ・ハード』系アクション(『モンタナの目撃者』はそこまでジャンル映画に寄せてはいないが)っぽいお話を展開しつつもその主役は『ダイ・ハード』的タフガイとかではなく、前回の山火事の消火作業の際に救えたかもしない命を救えなかったことで深いメンタルダメージを負って自殺願望を抱く、人知れず泣いてばかりの女性森林消防隊員という点だった。
原作準拠だとしてもやっぱ昨今のフェミニズム運動を受けてのことなんでしょうねなのだが鬼畜クソ男性を強い女主人公が景気よくぶっ殺す痛快なお話ではなく、むしろこの主人公は争いを可能な限り避けようとするわけで、それを演じるのがバトルウーマンのアンジーという配役の妙にテイラー・シェリダンの狙いが見える。敵をぶっ殺したいわけではないのです。こっちはただ静かに平和に生きたいだけ。その意味では『ダイ・ハード』系アクションのアンチテーゼのようなところもあり、アンジーが鬼畜クソ男性とついにバトるシーンも暴力を行使する快楽よりも痛みが勝る。
いつぞやの山火事に巻き込まれた家族を救えなかった自分に罰を与えるようにアンジーは鬼畜クソ男性に捨て身の攻撃を仕掛けるわけで、自傷行為として暴力を描くことで(鬼畜クソ男性二人組もその暴力によって逆に自分を追い詰めていくのである)アメリカの介入主義と暴力的なヒロイズムを批判しているのだと思えば、米軍のアフガニスタン撤退が後を濁しまくっている今観ることに意義がある映画と言えるかもしれない。
そうした暴力批判のメッセージを伝えるために逆説的だが鬼畜クソ男性二人組はやたらめったら狼藉を働いており、毎回毎回殺気立っているテイラー・シェリダン映画の中でもこの殺気は群を抜く、突発的な銃撃と即物的な暴力のおそろしさは過去最高なのではないかというレベルでめちゃくちゃ嬉しくなってしまった。暴力よくないですねという映画を観て暴力に喜ぶのだからお前は何を観ているんだという感じだが、でもまぁそんなこと言ったらこの映画のメッセージだってわりと両義的ですからね。女も男も子供も大人も関係なくみんなで領土を守ろう! っていうセルフディフェンスの称揚は男女平等という点ではリベラル的だが、その平等が領土を脅かす明確な「敵」を設定することでしか達成され得ないと考える点で保守的であり、リベラルと保守を分かつアメリカ政治の大きな争点の一つである銃規制の問題に関してもこの映画の立ち位置はかなり微妙である。
別にそれが悪いと言っているのではなく、というよりもむしろ、その微妙さ、曖昧さ、多義性、二律背反、善悪の鏡像関係と、それらの中に注意深く埋め込まれた善悪の反転をぎりぎりのところで食い止めようとする暴力ではない小さな抵抗(たとえば傷の治療や炎のやり過ごしなど)の痕跡こそが、超面白い暴力の数々よりも実はこの映画の見所なのかもしれないと思ったりする。そこに銃を積んだ警察車両とカメラを積んだテレビ局の中継車両がある。『ダイ・ハード』のマクレーンはテレビレポーターをぶん殴って警察車両に戻ったが、あなただったらどちらを選びますかと『モンタナの目撃者』は暴力と非暴力のせめぎ合いを通して観客に問いかけるのである。
【ママー!これ買ってー!】
まそうは言っても『ファイアーストーム』みたいな野蛮な映画もやっぱ観たくなってしまう。『モンタナの目撃者』は山火事はあくまで物語の背景という感じであまり本筋に絡まないのですがこっちは山火事を使ったアクションがふんだん、ラスボスのやっつけ方とかたぶん類例がないのでその物珍しさもあって『ダイ・ハード』の亜流としてはかなり面白い方だった。音楽もかっこいい(「Putting Out Fire」のタイミング!)