《推定睡眠時間:15分》
良い映画だと思うんですけどぶっちゃけ俺にはよくわからんかったというのが正直なところですげぇめっちゃ子供たちが外で遊ぶ。誰もスマホとか触りすらしない。2011年製作の映画ということで2011年かぁ、2011年ならまぁフランスのキッズはマイスマホなんか持ってないかもしれないなぁ…とそこは理解できるがいやでも家にゲームぐらいはあるだろ。なんかみんなで遊べる系の…桃鉄とか…いやフランスだから桃鉄はないかもしれないが何かしらはあるだろっていうかあれよ。なんでこのキッズたちは野外遊び以外の遊びをしないんだよ。
主人公と主人公をちょっと好きになった女の子だけはドールハウスとかで遊んでましたけどそこも物理オモチャなんだ!? 別に物理オモチャ悪くないけどう~んなんでこう、なんでこうデジタルオモチャが影も形もないのか…団地とはいえどの家もそこまで貧乏そうにも見えないし…っていうか2011年ならある程度貧乏でもゲーム機ぐらい買えるだろと思うし…。わかった、わかりました、そこも譲歩します譲歩しますけれどもテレビはあるよね!? みんなでアニメとか見たりしない? それもちょっとだけそういうシーンがあったような気もするが子供の遊びが全編に渡って描かれるこの映画の中でのテレビ遊びの比重は超軽い。親も外で遊んできなとか言うし室内遊びの軽視が甚だしい映画である。
そういうのが諸悪の根源なんじゃないかと思ったよね。主人公の自称ミカエルくんだいたい8歳は身体的性が女子で心は男子っていうか男子に憧れてるトランスジェンダーっぽい人で彼は男の子たちとサッカーとか水泳とかの外遊びをしながら男の野蛮な作法というものを身につけていきます。立ちションしたりとかやたら上半身裸になるとかそういうやつ。性器以外は外見的に男子と際立った違いはないのでミカエルくんは近所の男子どもに男子として認知されるのですが多少困ったことになってくるのが数少ない同年代女子にも男子として認知されてしまいしかもちょっと相思相愛的になってしまい…本人たちはそうでもないがフランスの保守的な親たちは動揺したりするのでした。そのことを知った野蛮男子たちももちろん動揺。
その波乱、家でゲームしてたら別に起こらなかったんじゃないかな。波乱が悪いという映画ではなくて波乱も含めて子供の成長なんだという風な前向きな捉え方をしている映画ではあるが、ミカエルくんが外遊びで身につける男の作法とかあれ外遊びでしか生じない男女の分断なわけじゃないですか。そりゃ別に家でみんなで桃鉄やっててもそこで室内遊びの男の作法が生まれる可能性もあるにはあるでしょうけど、身体的な性差に根ざしたたとえば立ちションとかの男作法、もしくは女作法っていうのは生じないですよね普通は。
外遊びの男作法は身体的な性に基づく男作法で、室内遊びの男作法は社会的な性に基づく男作法で、後者の方は身体的な性が男でも女でも等しく身につけることができるわけだから、そこに男女で本質的な差異はないし、逆に室内遊びの女作法を男子が身につけることだって全然あるわけだから、外遊びに比べて室内遊びはまったく男女平等(に近い)と言えます。ということはだね、身体的な性というのは外遊びをしている時にだけ問題になって、室内遊びをしている時はぶっちゃけ誰もそんなの気にしないんじゃないですかね。
だって今まで男友達だと思ってた奴と一緒に桃鉄やってたらいきなり俺じつは身体的には女なんだよねとか告白されたとして、言われた方は瞬間的に「え?」ってなるかもしれないですけど、それゲームの進行には関係ない話なわけだから、まぁそれはそれとしてとりあえず出雲の物件買い占めとくかとか金あるうちにメカボンビー買っといた方がいいかなぁ…とか、そういう感じになるじゃん。お前とは一緒に遊べねぇとかならないですよね?
これ映画の感想か? いやまぁでもう~ん俺にとってはそういう映画だったからなぁ。もうずっとなんで家で遊ばねぇんだなんでお前らは動物園の飼育動物みたいに外で走り回ってばかりいるんだとそればかり考えてしまってですね…なんかちょっと嫌だったのはさ、この映画っていうかこの監督は遊びっていうものに対する感性がものすごく乏しい気がするんですよね。それで、この監督は同性愛とかジェンダーの揺れを主題にした映画をよく撮る人ですけど、その乏しい遊び感性の中でセックスとジェンダーを捉えているからそれが息苦しい感じで問題として前景化する。
十全に開かれた遊びの空間でセックスとジェンダーなんかどうでもいいもので、俺はゲームをやるときには主人公の性別が選べれば女キャラにして名前を天カス奉行とか人類愛ひろしとかにして一人でニヤニヤしてそのネーミングのどこが面白いんだよってその後で冷静に恥ずかしくなりますけど、それぐらいゲーム空間でセックスとジェンダーとかは問題にならないもので…これは何もデジタルゲームに限った話ではなくて遊び一般の話なんじゃないですかね。
コミュニケーションのツールとして遊びを利用する場合にはセックスとかジェンダーはコミュニケーションを阻害する問題として浮上する可能性がありますけど、遊びを遊ぶことを目的とする場合にはそんなに問題にならないっていうか問題にする理由がないわけじゃないですか。だってお前気持ち悪いから仲間外れなーとか言って遊び仲間を減らしてしまったら遊べなくなっちゃうので。遊びを遊ぶときにはむしろ(排外性を帯びた)コミュニケーションは邪魔なんですよね。
だからこの映画を観ている間はずっともっと遊べばいいのになぁって思ってたし、なんでこの監督はっていうか、フランスの映画監督はって感じですけど、遊びのない世界に登場人物を閉じ込めて苦しい恋愛とかばかりさせているんだろうなぁとか思ったよ。恋愛を含めた人間同士のコミュニケーションだけが人間の生きる目的じゃないんだからそんなの脇に置いて自由に遊べばいいじゃないねぇ。子供には遊ぶ時間があるんだからさぁ。
好きな本を読んで好きなゲームをやって好きな映画を観て好きな絵を描いて好きな音楽を聴いて…たのしいことなんか対人コミュニケーション以外にも人生たくさんあるよな。そのたのしいことを通じて他の人と繋がれたらそれはそれでいいことだし、発想をコミュニケーション至上主義から遊び至上主義に転換するだけでこの映画の主人公を取り巻く問題なんか全部雲散霧消してしまうと思うんですが…とかなんかそういう映画だったね、あくまで俺にとっては!
【ママー!これ買ってー!】
遊び遊びと書いていて思い出したんですけどこの監督セリーヌ・シアマが脚本を手掛けたクレイアニメ感動作『僕の名前はズッキーニ』もそういえば子供たちが主人公の映画なのに全然テレビゲームとかやってなかったなー。もういいよSwitchやりゃいいじゃんSwitch、みんなでSwitchやりゃ喧嘩も起きず平和だからSwitch買ってやって? スマブラやろう?
こんにちは。
〝遊び〟っていう切り口からすると、私は、ミカエルん家の知育玩具的なオモチャに心奪われました。ピカピカで理想的で外の〝遊び〟とは少し隔絶されているような。外の遊びも眩しすぎて正視できなかったんですが。
でも、やはり、こちとら『燃ゆる女ー』の監督作だ、って前提で観に行ってますから、母親の「男の子ごっこはいいけどそれはダメ」という言葉に(私自身が)傷ついてしまって5年生からこんな自分を抱えていくのかと思うと暗澹たる気持ちになりました。
救いは、この映画のあと無性に食べたくなってマドレーヌ買っちゃったことでしょうかね…
ミカエル家の知育オモチャは見てなかった…そこ眠ってたかもしれません。あの両親はミカエルを品行方正な「普通の子供」に育てたくて、それでミカエルは反発してたのかもしんないすね。ニンテンドーDSとか買ってあげればいいのにって思いますけどそういうのは不健全な遊びだっていう両親なんでしょう。
確かに、監督の思い出話だとしても、年齢的には、登場人物がテレビゲームやっててもおかしくないですよね。
にしても、実は主人公は○だったとは・・・中盤当たりでマッパになるシーンで、子供とはいえジョンソン(『ビッグ・リボウスキ』的呼称)など見たくねぇ、とスクリーンを直視しなかったら大どんでん返しでした。
この映画は大人の世界に一歩踏み出す、と言う部分に比重があり、LGBT的葛藤はほとんどなかったように思えました。妹の撮り方に力が入っていて、その辺に監督の性的志向をほのかに感じました。『ベーゼ・モア』のヴィルジニ・デパント監督もそうなんですよね。フランスはその辺がすごく自由なんでしょうかね・・・
スクリーンを直視しなかったら『ぼくのエリ』の日本版と同じような誤解が生じそうな映画ですよね。
仰るようにセックスとジェンダーの食い違いから生まれる葛藤の話ではなくて性自認によるアイデンティティの確立が主題になっている映画で、それもあって身体というものをかなり客体的に扱って絵画のように撮ってるように思いました。身体は精神が所有し自由に使っていいもの、という感じで。ある意味すごいマッチョな思想なんですよね。そのへんフランスの精神風土なのかなって気がします。