《推定睡眠時間:15分》
なんか新『デューン』の日本版予告編がダサいとか映画の内容に寄り添ってないみたいな感じで燃えていない日はないツイッターの映画界隈が文句言ってましたけど内容の伝えられてなさっていうか意図的な伝えてなさでいえば同日公開の『キャンディマン』はもっとすごく、このいかにもティーン向けスラッシャーでござい的な予告編から一体誰が白人批評家にあんたの作品は薄っぺらい(大意)と言われた黒人現代美術家が生き馬の目を抜く現代美術界をサバイブすべく自分の表現を模索しているうちに黒人貧困層の都市伝説に浸食されていく…とかそんなシリアスな映画を予想できるのかと。
興行難しいよね、そういう映画ですって素直に打ち出したら面倒くさい映画マニアしか観に来ないしな。でもザクザクブシャアと人がたのしく死んでいく類いの映画ではないし人死にで観客を怖がらせる演出はおそらくあえてしていない反ジャンル映画の観すらあるので、単に血がたくさん出るこわい映画だと思って観に来た大抵の観客はなにこれってなるんじゃないだろうか。どっちを取ってもどっちかの痛みは避けられない中々売り方が難しそうな映画だ。
までもねそこが面白いところでその予想の斜め上っぷりというかあのオリジナルをそう解釈するか! みたいな、結構これはコンセプチュアルな映画で、現代美術界を一つの素材にしてますけど映画の作り自体もありふれた物事をどう斬新な角度から見せるか、オリジナルをどう加工して違う含みを持たせるか、とかそういう点に重きが置かれているんだよな。だからスーパーナチュラル要素ありのスラッシャー映画かと思ったのに全然違うじゃん! っていう反応があるとしたらそれはたぶん作り手の狙い通り。観客の意表を突いてナンボみたいなところありますからね現代アートとかいう謎の領域。
映像的にも影絵アニメを取り入れたり、ブルーのフラッシュによる白黒の攪拌がなされたり、ビルや団地を正面から捉えてその画一的な壁面構造をモンドリアン風の格子模様として映し出すことでSF的な感触さえある非人間的・非現実的な構図を積極的に作ったりと現代アート的な仕掛けが随所にあって(洗濯室の壁に穿たれた人間大の穴などは印象的)、あとオープニングクレジットがこれはすごくかっこよくて、都会のビル群を路上から垂直に見上げる形で捉えていくことで下層から見た世界の異様さと世界の反転の図式を提示したりする。
ここは同じミニマルなフレーズを延々繰り返すなんだか知らん弦楽器に不穏なコーラスが乗る現代音楽的な劇伴もかなり良かったので超久々にサントラが欲しくなってしまったが家に帰ってネットで検索すると物理メディアではなんとアナログレコードのみ! そんなところにも作り手のアート志向が感じられるがいやでもそこは…そこは多少妥協して作ってよCD…! 音楽ほんとう良かったですから…。
でお話の方はといえばなんとかという町の裕福ハウスに引っ越してきた主人公の黒人現代美術家の人はキュレーターかなんかの恋人のおかげで一応名のあるギャラリーのグループ展に作品置いてもらったり著名な批評家に観に来てもらえたりはしているがどうにも伸び悩んでおりここいらで何か創作力に活を入れたい、あと売れる作品作って不安定な立ち位置を脱却したい…これはさっきも書いたか。
それでそんな時にこの人はかつてこの町で起きた猟奇事件の話を聞く。これはキャンディマンの都市伝説ではなく別の事件なのだが、どうせ同じ町に住んでるならその事件をネタに一発描いてみるかということで取材を開始したところ町に古くから住んでいるクリーニング屋の黒人オッサンに出会う。そのオッサンが主人公に語ったのが鏡に向かって五回名前を呼ぶと蜂の群団を纏って現れる鉤爪の黒人殺人鬼キャンディマンの都市伝説で、それを聞いた主人公は「これぞ俺の求めていた表現!」と心の中で欣喜雀躍、何かに取り憑かれたように黒く潰れた人物の絵を描き始めるのでした。それにしてもおかしいな、このあいだ蜂に刺された右手が虫刺されにしてはひどく腫れすぎているというか、なんだかハニカム構造に変化してきているような…。
製作と共同脚本は『ゲット・アウト』『アス』のジョーダン・ピールということで社会風刺というか社会分析的な要素は相当に濃く、白人警官の日常的な人種差別を着想源として、コミュニティを破壊するジェントリフィケーション、それにより生じる新住民と旧住民の軋轢、時と共に固有名詞を失い抽象的な都市伝説として娯楽消費される過去の出来事、そうした都市伝説化を誰がなぜ求めどのように流布していくかということの考察、その効用、それらを表現する器としての現代美術の機能と功罪、「漂白された」ギャラリーを自分の居場所にしようとする中~富裕層の黒人男性のアイデンティティの揺らぎ、などが重層的に描かれる。こうなるともはや社会派映画っていうか社会学の映像講義だね。
ネタバレになるのであんま詳しくは言えないが原作者クライヴ・バーカーの世界から遠く離れたかのように見えるその社会学ワールドの帰結はしかしちゃんとバーカー的な都市の傍らや地下にある人智を超えた異世界への畏怖と憧憬であり、オリジナル版『キャンディマン』をポスト・ブラックスプロイテーション映画(※そんな概念があるのかどうかは知りません)としてその価値を別の角度から捉え直しつつオリジナルのキャンディマンことトニー・トッドを貧困層の黒人たちが生み出した異教の神としてリスペクトすることで、ここではバーカー的な異世界とアメリカの人種差別問題が見事に接続されているのだ。
どうだこの映画をこんな風に理解できる俺は映画に関してだけは頭が良いだろうと今たいへんなドヤ顔になっているわけだが、まぁでもあれだねこれはちょっと娯楽映画にしては真面目に頭が良すぎる作りで、最初の方でわりかしマヌケな殺され方をする白人の役名がクライヴだったりとか、こういうのは文字に起こすと共同で脚本を執筆したジョーダン・ピールの仕込んだジョークのような気もするのだが、この監督ニア・ダコスタはそれをユーモアとは解釈しないしブラックユーモアは作品に忍ばせないので映像社会学講義を見てる気分になってしまう。もしくは社会批判的なビデオアートとか。
だからテーマ的にもモチーフ的にも半地下どころではなくガチ地下に住むパラサイト家族のお話であったジョーダン・ピールの前作『アス』とは共通するところが多いこの『キャンディマン』ですけど、『アス』がそれをどこまで本気かわからないホラーなホラ話として真面目に不真面目にやっていたのに対してこちら『キャンディマン』は真面目一辺倒で、そういう意味ではちょっと面白みが無い。ちょっとっていうか本当はだいぶ無い。
でも先にも書きましたけどこの監督はたぶんホラー映画を素材にしてあえて非ホラー映画をアート的に作ろうとしたんだと思うので、そういうものとしては非常に高い完成度を持った映画であるし、そういうつもりで観ればとっても面白いのがこのリメイク版? リブート版? リイマジネーション? 続編? まぁなんだかわかりませんけど『キャンディマン』だったと思います。単純に映像と音楽すげぇイイしね。
※それと映画のオープニングに流れる配給会社とか製作会社のムービングロゴを加工して遊ぶやつ、よく遊ばれるのはコロンビア・ピクチャーズのロゴで、お馴染みの女神様がゾンビを殴り殺したり首が刎ねられたりとかなかなか派手な遊ばれ方をしてますけど、そこまで過激ではないもののロゴ遊びの多いユニバーサル配給の『キャンディマン』では全てのムービングロゴが鏡映しになっているという大胆な仕掛けがあって、そういうのも面白かった。
【ママー!これ買ってー!】
Candyman (Original Motion Picture Soundtrack)[MP3]
ストリーミングとかMP3版とかもあるにはあるがこのサントラはアートワークもかっこいいからCDで欲しいんだよなー。どうせCDで買っても回すのはPCに取り込む時だけだし記念品として買うならレコードの方がむしろ良いのかもしれないけどさー。