《推定睡眠時間:20分》
こんなもんは所詮俺自身しか読まない感想であってPVと見えるものは実は管理者のみなさんが俺がヴァーチャル動物園の見世物であることに気付かないよう偽装したフェイクであり時折寄せられるコメントなども「PVだけだとリアリティが足りないかも知れない…」と判断した管理者の中の心やさしき知恵者がヴァーチャル動物園の管理棟から読んでる人を装ってコメントしているのであって俺がこうして書いているブログは実は広大なるインターネットになどは一歩も出ることなくサブミットを押すと即ヴァーチャル動物園の管理棟サーバーに転送され生態解説文付きでヴァーチャル動物園にのみ公開され電子生命体と化したバーチャル新人類の子供たちが引率の先生を時にうんざりさせながらもワイワイキャッキャと楽しく「古い人類ってこんな動きするんだね~」なんて言いながら眺めていることは知っているのだが、まぁ知っているとしてもなんか気を使う! なんか気を使うよ~この映画の感想書くの~めっちゃ好きな人とかいるもんな~。
でもほら思っちゃったものは仕方がないっていうのあるじゃないですか。うんもう分かるよねそんなに感心しなかったよ。いや別につまんないとかじゃないしよく出来てると思いますけどそれだけだよ。それで終わり。何作続くか知りませんけどあとどうせ二本ぐらいは続編やると思いますからそれが公開されたら観に行きますし観に行ってよく出来てるな~ってその時も思うでしょうけどだからそれだけなんだよ。限りなくそれしかないよ俺には。原作読んでないしそもそもスペースオペラに基本的に興味がない俺には。
好きな人には非常に申し訳ないけれども『スターウォーズ』とかも含めて大したものだと思ってないもん。要するに宇宙で王位継承がどうとか覇権争いがどうとか決闘がどうとかそんな感じの中世のファンタジー世界みたいのがやりたいんでしょ。そもそも中世のファンタジーも興味ないからね。どうでもいいんだよ剣とか鎧とかなんとか家とかなになにの領土とか策謀がどうとかそんな汗臭いの。それで美形の昔なつかし少女漫画みたいな主人公がいてさ。悩める美青年が銀河を巻き込んだ戦いに身を投じる中で自分の使命とか愛とかを知り…いいよ知らないでゲームでもやってりゃいいじゃん。家でスマブラやってろよ。
スペースオペラを観るといつも思うことだがお前らの世界ゲームの概念が発達してなさすぎ。そんなんだからね檻に閉じ込められてストレスの溜まったサルみたいに殺し合いばっかしてるんですよ。戦いが遊戯なんだってことでしょ。そういう雄の世界つまらないんですよ。ゲームはゲーム、殺しは殺し、自己実現は自己実現で恋愛は恋愛、せっかく全部別のこととして発展してきた現代なんだからわざわざまた全部一緒くたにして戦いこそ人生の全てなりみたいな野蛮な騎士道精神に回帰しなくてもいいのに。
そんなに騎士道精神が好きなら自衛隊入りゃいいじゃん。自衛隊入ったら騎士道精神っぽいの身につきますしスペースオペラより面白い戦闘訓練できますから。スロッビング・グリッスルのジェネシス・P・オリッジはステージで爆弾を投げたいと語った山塚アイにそれなら軍隊に入れとあまりにも常識人すぎて逆に衝撃的なアドバイスをしたと言うからねああああああああああ!!!!! は、話が逸れすぎてヴァーチャル動物園の飼育員さんにヴァーチャル電撃棒折檻を受けてしまった! 野蛮なり! 野蛮なり! シーザー! 共に立ち上がろう!
ほらだからこんなしょうもない方向に話が逸れてしまうぐらい言うことがない映画なんだよ。つまりウェルメイドに作られているので観ている間は面白いけどその後で自分が観たものについて思考を回すような映画じゃない。やたらIMAXで観ろIMAXで観ろの声が溢れてますけどそれって結局そういうことなんじゃないですかね。観ている間しか価値が実感できない種類の映画だって本当はみんな頭の片隅で気付いてるからその体験を最大化しようとするんじゃないですか。そりゃ超でけぇスクリーンの方が思考を麻痺させて気持ちよくなれますからね。ははは、この映画自体がスパイスのようなものだよ。
スパイスというのは砂の惑星の先住民が使ってる天然ドラッグらしいです。なんか吸うと覚醒してパワーアップするらしいよ。ニューエイジだよね~。いや、これは嫌味ではなくてさ、だってあんなもんネイティブ・アメリカンの幻覚剤イニシエーションと砂漠の民(ざっくり)は西洋の限界を突破する叡智を持つ! 的なイメージを合成したヒッピーとかニューエイジャーの安いオリエンタリズムの産物でしかないじゃないですか。
『指輪物語』とか『ダンジョン&ドラゴンズ』はその反近代的な世界観が近代の延長線上にある現代に否を唱えるヒッピーにウケたんで流行って、それと同じ懐古的なモチーフを『デューン』みたいなのは見た目だけ現代っぽく宇宙で反復して、結局それを喜んで消費するのもヒッピーの進化形のニューエイジャーだからまったく進歩というものがない。『デューン』がニューエイジ・アイテムであることは『デューン』の最初の映画化を手掛けたデヴィッド・リンチがニューエイジの王道と言える超越瞑想の実践者でありかつ啓蒙活動も行っている人物であり、当初の監督候補だったアレハンドロ・ホドロフスキーがタロットや禅なんかのニューエイジ基礎教養をしっかり押さえて作品に組み込み、神秘主義的にアレンジされたサイコドラマ療法の治療家の肩書きも持つこちらも典型的なニューエイジャーであることを挙げれば内容に踏み込まずとも充分に理解できることなのではないだろうか。踏み込めばもちろんもっとニューエイジなのである。超能力開発とか。
その意味ではこのドゥニ・ヴィルヌーヴ版『デューン』にはちょっと面白い仕込みがあり、少なくとも二箇所、多少こじつけっぽく見れば三箇所ほど『地獄の黙示録』のオマージュシーンがあるのだが、『地獄の黙示録』といえばジョセフ・コンラッドの『闇の奥』のプロットを借用した映画であり、これらは西洋の限界に直面した西洋人がざっくり非西洋的な文化、もしくは西洋化される以前の文化として把握される未開社会に身を投じてそれを乗り越えようとするロマン主義的心性で共通する。
代々ニューエイジャーが監督を務める『デューン』だが(その原作に影響を受けて制作された『風の谷のナウシカ』の宮崎駿だってある意味そうである。プロト『ナウシカ』ともプロト『もののけ姫』とも言える宮崎駿の漫画『シュナの旅』にはUFOが出てきますし、ニューエイジといえばUFOもまた主要な要素ですし)ヴィルヌーヴも西洋的な時間概念が設定する限界を表意文字のモチーフを通して突破しようとする『メッセージ』を監督しているわけだから、具体的なニューエイジのモチーフこそ持たなくても西洋の世界観に対する疑義・抗議というニューエイジ的な志向性はあると見え、だからこそ『地獄の黙示録』のオマージュを導入したと考えるのはそう突飛なことでもないだろう。
ところで宇宙版『地獄の黙示録』と呼ばれたアメリカのSF映画『アド・アストラ』がちょっとだけ話題になったのはほんの二三年前のことである。『アド・アストラ』とヴィルヌーヴ版『デューン』はセットのデザイン思想に通じるものがあって興味深いが、お前までもが『地獄の黙示録』かっ! と心の中でツッコミが不可避だったのは『地獄の黙示録』を象徴するシーンである『ワルキューレの騎行』の軍用ヘリ隊列飛行+濁った川から頭がにゅーに加えてコンラッドなる人物が登場する『キングコング 髑髏島の巨神』であり、オリジナルの『キングコング』もまた『闇の奥』影響組であったことからこれは逆孫引き(?)のようなものだが、えーと、あのね、お前ら『地獄の黙示録』からいい加減に離れろよ!
いくらなんでも安易ですよ。『デューン』は帝国主義と植民地(植民してないけど)のお話で主人公は植民地の原住民を搾取したら可哀想だろって原住民の側に付くからじゃあ『地獄の黙示録』のイメージで行くかみたいな、お前らにとっての非西洋世界は全部『地獄の黙示録』とコンラッドなのかよっていうさぁ、そういうのあるってぇ。そういうのあるし、でそこに定番ニューエイジ要素の数々がリンチとかホドロフスキーみたいな人を選ぶ臭みが出ないように、たとえばパワースポットぐらいにニューエイジ臭が希釈されて加わるわけでしょー。
それはね正直なところ俺としては頭の良いバカな西洋人が作ったいつものオリエンタル・ファンタジーってしか思えないですよ。その優等生っぷりにイラっとくるぐらいで。だって「ぼくニューエイジなんか知らないですよー」って顔してバリバリにニューエイジの映画なんだもんな。そんな映画は真面目に見てもしょうがないだろ。そりゃ映像はキレイですけど映像がキレイだったらなんなんですかね。キレイな映像と美男美女の俳優(ティモシー・シャラメとゼンデイヤ)がいりゃあ内容なんかどうだっていいってんならフィッション誌でも見てりゃいいだろ。ハンス・ジマーの音楽だって中近東音楽をベースに女声スキャット入れてみたいなそんなもんデッド・カン・ダンスじゃねぇか。それだったら予告編に入ってたピンク・フロイドの『Eclipse』をラストシーンにでも流した方が素直にヒッピー感が出てよかったよな。
その教義と出自からすれば幸福の科学のしょうもない布教映画だって根本的には『デューン』と違いがあるわけではないので金さえめちゃくちゃかけりゃあれだってこういう映画になるのです。逆に言えばこの映画はめちゃくちゃ金がかかった幸福映画以上のものではない。要するにいい加減。手を抜いてるって意味じゃなくて思考と思想がいい加減で、ニューエイジのステレオタイプをすごく丁寧にやることで満足しちゃってるんじゃないですかね。そんなことを言ったらスペースオペラなんて全部そんなもんかもしれませんけどだから俺はスペースオペラが嫌いなのであって、何をSF精神とするかは人によって違うだろうが、あくまで俺の感覚からすればこんなところにSF精神もセンス・オブ・ワンダーもねぇよって感じですよ。
でけぇ砂虫いたらすげーってそんなもんSF精神でもなんでもないし大体クジラのイメージでしょあれって。ほらクジラ超偉大論ってニューエイジの一分野だし。ロジャー・ゼラズニィだって宇宙版のでけぇクジラの話書いてますしね。クジラがでかくてすごいっていう印象のどこにSFがあるんだよ。そうじゃなくて、砂虫がいる世界のお話を書くとしたらその生態から物語を組み立てていくのがSFとしての面白さなんじゃないですかねこれは私見だけれども! このヴィルヌーヴ版『デューン』では砂虫は風景として存在するだけでSFっぽい絵を作る以上の機能は有していない。風景を徹底して作り込むことでそこからSF性とか思想が立ち上がってくるSF映画というのはあるし、ヴィルヌーヴがそのまさかの続編を監督したリドリー・スコットの『ブレードランナー』はその類いだが、『デューン』はそういう作りにはなってない。作り込まれた風景はどれもありふれたものだから。
そのリドリー・スコットの長編デビュー作『デュエリスト』はコンラッドが原作だが、リドスコの最新作『最後の決闘裁判』は実に陰々滅々とした史劇で、あたかも『デュエリスト』や『ブレードランナー』等々が帯びていた自作のロマン主義的傾向を自ら否定するかのようで興味深いものだった。リドスコは欧米映画界のコンラッド症候群に抗して一つの回答を出したのだから他の宇宙SF監督のみなさんもいい加減にコンラッド症候群を治療してもっと豊かに世界を思考してくれないですかね。コンラッドと『地獄の黙示録』にいつまでもしがみつくことのどこがニューエイジなんだっつーの。そんなもんオールドエイジだっつーの。
そういうのを客が見たがるから映画屋もそればっか作るんだけどさ。IMAXのでけぇ画面ででけぇ生物とかでけぇ建造物をでけぇ音量で見せたら観客は泣いて喜ぶんだから楽な商売じゃないですか。俺はよく思うのだが映画館というのは無神論者にとっての教会の代替物なんじゃないだろうか。パイプオルガン聞いて賛美歌歌ってフレスコ画でも眺めりゃなんとなくその壮大なる宗教世界に入り込んだような気になって感じやすい人ならそこに崇高さや法悦を感じるかもしれない。映画館でスペクタクル大作を体験することだってこれと同じようなものなんじゃないですかね。
『デューン』の上映時間の長さはその意味で必要とされたのかもしれず、とにかく遅々として物語が進まないわけだが、観客個人の思考を捨てさせ作品世界に取り込むためにはこの長さとこの速度で、ついでに言えばこの風景の大きさで世界を見せなければならなかったし、そうやって信者を獲得しつつ何本もの続編に繋げれば商売としては大成功なのだから販売戦略としても正しいのだ。結構なことです。どうせニューエイジの映画なのだから、その映画体験が疑似的な宗教体験であっても悪いことはないだろう。
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手厳しいですね!しかし、おっしゃることは正しいと思います。大英帝国の英雄譚、超能天気な『アラビアのロレンス』なんでしょうね。
個人的には終盤に行くにしたがって、手に汗握るドキドキハラハラでした。残り30分くらいで、この時間でまだこの展開だと時間足りないぞ?と心配になり、残り10分くらいで、終わらすつもりないな、監督は正気か?と驚愕。もしかして監督はリンチ版の逆張り、つまり最初にお姫様がダーッと説明の逆、ラストに残りのストーリーをお姫様がダーッと説明して終わり?と思って、ドキドキしていたのですが、パート2にフツーに続くというね・・・。そういえばパート1とかタイトルにあったが、バージョン1みたいな意味かと勘違いしてました。
リンチ版がお姫様の語りで始まったのと対照的に今作は砂漠の姫から始まっており、このDUNEは権力者たちに都合よく編纂された歴史にはしない!と監督が宣言しているのではないかと。パート2はやってくれるのではと期待しています。原作では主人公はお姫様と結婚、皇帝になるらしいのですが、新DUNEでは砂漠に帰るとかね。
ところで、地獄の黙示録のオマージュってどこなんですか?
ああ、そうか、『アラビアのロレンス』ですね! 確かに!ロレンスの「伝説」も英米のアドベンチャー系の大作映画をずっと束縛してるんですよね。イギリスがかつての栄光の残滓をロレンスと砂漠に見たがるのは心情的にわかるんですけど、なんでアメリカはそんなに砂漠に憧れるんだろう。ちょっと車飛ばせば国内に砂漠あるじゃんとか思うんですが笑
二部作で監督が描きたがっているのはおそらくニューエイジ的な意味での「女性性」と「男性性」の和合なんだと思います。ニューエイジの理論的支柱になってるユングは一人の人間の心の中に「男」と「女」が同居してて、それを統一するのが生きる目的なんだみたいなことを言いますよね。ユング的な「女性性」っていうのは(俺は原始的で差別的だと思うんですが)生と死を司る神秘的な母性のことなんで、この二部作ではそれをすべてを飲み込むと同時にすべてを再生する砂漠(サンドワーム)のイメージと重ねてて。
だから次作は砂漠の民か皇帝かの二者択一ではなく、その二元論的な闘争を通して登場人物が高次の自己に達するという…自分でも書いてて気持ち悪いですけど俺はあくまで監督の思考を想像してるだけですから!
『地獄の黙示録』のオマージュだろうと思われるところですが、ハルコネン男爵が薬湯からにゅーっと頭を突き出す場面、それからサウナでうなだれていた男爵が頭をさすりながら上げる場面が、おそらく『地獄の黙示録』の終盤の有名なシーンを元にしてるんだろうなと。
こんにちは。
私は、レト公爵が死ぬシーンで時計を見ました。「尺、足りるんか?」
先日、続編製作の正式発表がありましたね。2年後も私はこのフレスコ画を見に行くと思います。
『最後の決闘裁判』の方が長く感じて少し辛かったかな、私は…
『決闘裁判』の方は同じ場面を別角度から繰り返すので絵の変化が乏しいんですよね。どっちもしっかり寝てるので自分で自分の言うことが信用できませんが、俺は『決闘裁判』の方が短く感じて、『DUNE』は絵の変化は多いですけど場面場面をゆったりとしたペースで撮ってるので、贅沢な長さを感じました。
『決闘裁判』には甲冑萌えしましたが、『DUNE』は何だか、みんな歩いてばっかだなぁ、って思いました。はっはっは!
「DUNE」は衣装は素晴らしいんですけど宗教絵画とかファッション写真的な撮り方なので、そういう意味では「決闘裁判」の方が衣装をちゃんと動作に活かして使ってるんですよね。
二部作と知らずにうっかり見にいき、これどう収まるのかな、最後まで見ても『あー結構、観客に委ねる映画なんだんあ』と思って帰ってきてから、完結してないことを知りました。スコットランドのバグパイプ、コーランのような小さな本、アラブ的な衣装、中国人民服みたいなオリーブ色の制服、日本傘、チベットのホーミーみたいな歌唱法、すごくいろんな国に気を使った演出と、『ベニスに死す』のビヨルンアンデルセンの軍服きたルックスに随分寄せてきたなあ、と思うシャラメの美貌が印象に残りました。『メッセージ』でも見せた、大きくて重たいだろうものがゆっくりと宙にいるってのが絵になってて良かったですね。
小道具とか衣装・美術デザインは良い意味で統一感のない(部族や星の単位では統一されている)ポストモダン的寄せ集めという感じで見事でしたね。『ブレードランナー2049』の監督だけあるなと思いました。ちなみに俺も続編があるとは知らずに観に行きました。おそらく『パート1』とタイトルに明記すると集客に影響がありそうだからみたいな判断で(公開時の時点では一応続編ゴーサインがまだだったそうですし)単に『DUNE』なんでしょうけど、セコイなぁとはちょっと思ったり。