《推定睡眠時間:3分》
予告編を見てヘテロ恋愛万々歳のキラキラ映画界にもついにゲイのキャラクターがメインで登場するようになったんだな~となにやら感慨深いものがあったわけですが観てびっくりキラキラ映画のゲイ一発目(その言い方はなんだ!)にして超本格派! 映画が始まって5分ぐらいで主人公の神尾楓珠と今井翼のかなりエロいベッドシーンになる勃つ! もう一人の主人公・山田杏奈が好んで読んでるBL漫画にもがっつりエロシーンが載っている勃つ! ちなみに神尾楓珠と山田杏奈のベッドシーンも挿入までは行かないがかなりエロい勃つ!
うーむこれは。ご立派な映画だ。キラキラ界ではBL腐女子をネタにした映画として『私がモテてどうすんだ』が既にあるがそこではBLといってもそのポルノ性はやんわり回避されていたわけだが、ここでのBLはザ・ポルノである。キラキラ映画の恋愛といえばセックスは見せないプラトニック路線のくせに壁ドンや交際前の寝顔キスなどの性犯罪的シチュエーションが横行する偽善的な嘘恋愛なわけだが、この映画ではちゃんと交際したらセックスをするしセックスを見せる。高校生はセックスがしたい。なんと誠実なキラキラ映画なんだ! っていうか非キラキラのメジャー邦画でもこれぐらい誠実に同性愛のテーマを描いたものとかそうないだろ!
それはキラキラ映画じゃないからだよという冷静極まる意見を持つ諸君もいるだろうがいやこれはキラキラ映画なんですよ。最初の方の登校シーンを観てご覧なさいな並木道を通ってるでしょう。キラキラ映画といえば序盤の登校シーンで主人公たちが並木道を通るのは定番だ。しかしこの映画の並木道は一般的なキラキラ映画が紅葉時もしくは開花時の桜並木をロケ地・ロケ時期に選びがちなのに対して新緑の並木道である。キラキラ映画にはまた主演のアイドルなどに浴衣を着せてみんなで地元の祭りに行くという大人の事情を感じさせるシーンもほぼ例外なく入っているものだが、この映画でも浴衣で縁日に行くシーンがある。ただしその縁日はスーパー銭湯に併設されたアミューズメント施設でありホンモノの祭りではない。
このような一般的なキラキラ映画との微妙な差異は他にも色々と見られ、作り手にどこまでその意図があったかはわからないが、俺としてはこれをキラキラ映画の定番シチュエーションや展開をあえて逆手に取ってキラキラ批評を展開した、言うならばポスト・キラキラ映画として受け取った。キラキラにあってキラキラに非ず、キラキラに非ずしてしかしやはりキラキラであるというこの二重性。冒頭のベッドシーンに「おっ!」ってなるのもキラキラ映画でそれはやらないだろとこっちが油断しているからであって、しかしそれ以外のシーンに目を向ければ典型的なキラキラ映画っぽく見えるというギャップが、ゲイ/ヘテロ、カミングアウト/非カミングアウト、性愛/恋愛、愛人/恋人などなど様々な二項対立の間で揺れ動く主人公くんの葛藤を強調し観客にも体感させるのである。
この二重性を別の角度から見れば地方を舞台とする保守系のキラキラ映画と都会を舞台とするリベラル系のキラキラ映画の重なりということにもなるだろう。保守系キラキラ映画は展開的にもキャラクター的にもヘテロ恋愛とその成就が絶対正義になるので同性愛者の居場所はない。リベラル系のキラキラ映画はもっと多様でヘテロ恋愛の成就も重要な要素ではあるがわりと物語のゴールが作品ごとに違ったりするし(海外留学とかそういうの)キャラクター設定も色々なので同性愛者が入る余地がある。都会のゲイと田舎のゲイの対比がこの映画では描かれるが、それは保守系キラキラ映画の批判でもあるだろう。そうした批判がリベラル系キラキラとはいえ外からではなくキラキラ映画の中から出てくることに、俺としては以前からキラキラ映画が現代の邦画で一番将来性のあるジャンルと言ってきたわけだが、やはりねキラキラ映画ジャンルのポテンシャルを改めて感じましたよね。まぁ、そんなことはいいか!
いや~面白いキラキラ映画だったなこれは。すごいリアルな高校生活。台詞もいいしキャラクターもいいんだよ。いるな~ってやつの乱れ打ち。主人公二人がクラスの仲良し連中とトリプルデートで遊園地行ってさ、その仲良し連中の一人に無駄にイキってる彼女持ちの男子生徒がいるんですけど、そいつの背伸びしたガキ感がすげぇイイんですよね。クール系を気取るけどジェットコースター乗るとめっちゃ酔ってただ酔ってるとは思われたくないから無口になってずっと下向いてるみたいな。あとこういうのもある。クラス会議でちょっと紛糾して担当の男教師が一回目は平常ボイスで「他人の発言はさえぎるな~」ってちょっとおもしろおじさん的に言うんですけど、二回目は「他人の発言は遮るな!」って怒鳴る。いるじゃん。めっちゃいるよねこういうタイプの場の収め方をする男教師。
そういう細かいところがすごくよく出来ていて、俺はキラキラ映画の完成度を測る尺度として教室でモブ生徒がどれだけ生きた人間として描かれているかっていうモブスケールを採用してるんですけど、この映画はその点でもうパーフェクトだと思いましたよね。なんか、ずっと自分の席で将棋やってる坊主頭がいるんですよ。こいつの席は男の方の主人公の席の二個ぐらい斜め後ろだから教室のシーンではバンバン画面に入ってくる。でもこいつは物語の本筋とは一切関係ないし他の誰とも話さない。話さないんですけどこいつが唯一声を出すのがアウティングについてのディスカッションをクラスでやってるときで、担当教師にお前はどう思うって発言を振られて「いや、まぁ、色々あるなぁと…」ってぼーっとした感じで言ってクラスメートの笑いを誘う。
ここめちゃくちゃよかったよな。主人公二人の関係を巡るドラマとはまったく別にこいつにはこいつのたぶん恋愛とは何の縁もない、けどそれなりに楽しい将棋まみれの高校生活があって、そのことがほんのちょっとでも分かることで物語全体が救われたような感じすらある。本筋の部分は自分がゲイであることに悩んでいてなかなかその悩みを打ち明けられる相手がいない男子高校生と自分がBL好きであることをやはり打ち明ける友達がいない女子高校生の関係のドラマですけど、それで二人ともあれこれ悩んだり傷ついたりするわけですけど、でもそんなこととはまったく無関係に世界は回るっていうのを将棋坊主の存在は示す。本人がどう深刻に考えても考えなくても世界の方は変わんないんだよな。優れたキラキラ映画は変わらない世界と個人がどう対するかという課題を映画の核心に置いているものだが(そうか…?)、それを嫌味無くサラリとこの映画はやってのけていて素晴らしいなと思ったよ。
俺が俺の感覚で素晴らしいと判断するキラキラ映画は世間的な評価はそんなでもなかったりするが、これも賛否両論がけっこうくっきりと分かれそうで、おそらくその場合の論点は何一つ解決しないストーリーと、様々な要素が一点に収束していかずむしろ放散していく構成になるっぽい。前半は男子主人公目線で物語が進んで後半は女子主人公目線がわりと入ってくる(等分ではない)っていう視点の変化とかが面白いんですけど、これ起承転結にキレイに収まる映画ではぜんぜん無いんですよね。なんでそうなるかというと、最初の方に「摩擦係数は0とするって問題文があるけど、現実の摩擦って0にはできないじゃん」みたいな台詞がある。
これはゲイをカミングアウトしてないゲイの主人公の心情でもあり、挿入の、とくに男男の挿入に伴う刺激と反発と痛みと快楽と解放と閉塞を喚起させる多義的で暗喩的な台詞でもあるんですけど、問題の答えを出すために問題の方を単純化して摩擦係数0にしちゃったら問題を解決するって意味じゃ本末転倒じゃんっていう台詞なわけです。ツルっと滑るようには物事進まないよねっていう、それにその摩擦から色んな関係とか反応とか対話とか理解が生まれるよねっていう、だからこの映画は答えを出す映画じゃなくて色んな摩擦から生まれるものの豊かさを描く映画になってて、起承転結にならない。起承転結にしないことで時に痛みや苦しみや怒り悲しみを伴う人間関係や感情の摩擦の中で生きることを肯定してるんですよね。今は保守はもとよりリベラルな(日本の)言論人すら摩擦を恐れるような時代だから、そこにはなんでもかんでも丸く収めようとしてかえってイビツになりがちな日本社会に対するストレートな批判もある。
ストーリー的なところは別に俺が書かなくても映画見ればわかるわけだからみんな見てくれって感じで俺がこの映画を観て思ったのはだいたいそういうこと。ま俺としてはですね性的指向というのは単にパラメータだと思っているのである日は男とヤリたくなりある日は女とヤリたくなりみたいな感じがむしろ人間の常態であってその偏り方が人によって違う、状況によって違うとかそういう変動し続けるものだと思ってるので、映画の中盤ぐらいで展開されるゲイを黙って結婚して子供を作るかゲイをカミングアウトして子供は作らずに生きるかみたいな二項対立は性的指向っていうパラメータを本質主義へ還元することで生じる素朴な錯誤だと思ってますけど(それで悩む人も実際いるのだろうが)、それは俺の考えで、それとは別にこれはイイ映画。シナリオから演技から音声・音響まで、思ったよりだいぶ丁寧に作り込まれたイイ映画だった。
明日から使える映画決め台詞もありますしね。今井翼がスーパー銭湯で言い放つ「クソノンケが!」、使っていきましょう。
【ママー!これ買ってー!】
BL題材のガキ向けキラキラ映画。でもポップでキュートでたのしいので良し。