《推定ながら見時間:45分》
タイトルの由来はドナルド・トランプとヒラリー・クリントンを悪魔合体させたような合衆国大統領(メリル・ストリープ)が政府の非現実的な対地球破壊彗星政策の誤りを指摘して彗星を正しく恐怖するよう訴える科学者グループとそのシンパに対抗すべく「見上げるな!」と保守層の支持者を煽る場面にあるのだが、それで連想したのが『遊星よりの物体X』のラストで、地球侵略を目論む悪い宇宙人がまた来るかも知れないからっていうんで登場人物の一人が「空を監視しろ、見続けろ(watch the skies everywhere keep looking)」って言う。
『遊星よりの物体X』は1951年の映画でこの台詞はソ連を念頭に置いたプロパガンダ的な意図をもった台詞だとされているが、それにしても面白いのはこうして見たときの見事なまでの対称性で、『遊星よりの物体X』では科学者が主張していた異星人の「平和利用」を『ドント・ルック・アップ』ではトンチキ大統領と太いパイプを持つ悪徳シリコンバレー社長(マーク・ライランス)が主張する。平和利用なんかできないからさっさと核撃って軌道変えろ、ルックアップ! は主人公ら科学者サイドとそれを支持するリベラル勢力の台詞だ。
偏執的なタカ派の右翼を象徴するものだった台詞はリベラルの「科学的な」台詞になって、大統領支持の保守層が彗星接近に技術革新と新時代の到来という左翼的なユートピアを見る一方、本来であればそんなユートピア幻想を担うべき未来志向のリベラル層は破局への怯えから宗教へと回帰する。なんという皮肉! でもこの皮肉はあんま世間には伝わってないんだろうなという気もしなくもないというかいやむしろかなりするかなり相当めちゃくちゃするのでそれがこの映画の観察眼の鋭さと正しさを証明しているとも言えるし、そのことでガックリと肩を落としてしまう。
これが正しい科学者たちが正しくないバカ連中のせいで追い込まれて地球が滅亡の危機に瀕する映画に見えるとしたら、その見え方こそがこの映画に描かれた不毛なのだ。「空を見ろ」も「空を見るな」もどっちもその言葉が必要な場面はある。彗星衝突が怖くなって仕事も遊びも日常の雑事も全部放り捨ててSNSで四六時中彗星情報収集をするようになった人にはそれ以上「空を見るな」とアドバイスをした方がいいし、逆に彗星なんてなーんも怖くないと言い張って今までと何も変わらぬ日常を送っている人がいたらその人にはもう少し「空を見ろ」と言った方がいいでしょそりゃ。
「空を見ろ」も「空を見るな」も使う場面によっては正しい言葉なのに、あたかも正しい言葉はどちらか一方でしかあり得ないかのように内と外を分けて考える二者択一の主観的思考の蔓延は、社会に深刻な認識の分断をもたらす。そこでは目にする全てが善悪のどちらかに分類されて、そんな偏った情報環境にあっては危機に際して誰も適切に行動することはできないし、危機を客観的に見ることさえもできないだろう。
とまぁそんな映画だものだから観ている間ずっとム・カ・ツ・ク・ッ! って感じでしたよ俺は! だって主人公の科学者二人、レオナルド・ディカプリオとジェニファー・ローレンスがさぁ? まぁジェニファー・ローレンスの方はちょっとだけ溜飲が下がる感じではありますけど基本的には二人とも「私たちは正しいのに!」ってポジションから動かないんですよ。科学者として正しいことを言ってりゃ常に正しいってそんなわけないだろ。そんなものはカギカッコ付きの正しさでしかないんだから地球滅亡の危機が迫っていると知っているのならかなぐり捨てなければいけない。
具体的に言えば、地球滅亡の危機という事実を合衆国大統領がどうやっても真面目に受け止めようとしないのであれば、この科学者には人類に対する脅威としてそんな大統領は比喩でもなんでもなく容赦なくぶっ殺す倫理的な義務がある。どうでしょう、これは極論に感じられますでしょうか? おそらくそうでしょうねだって俺も極論だと思うもんだけど! それはそもそもこの映画の絶対に彗星衝突を真面目に受け止めてくれない合衆国大統領という設定が極論だからです。
現実的にはあらゆるチャンネルを使って説得と交渉が進められるだろうし、これは現代アメリカを皮肉った諷刺喜劇なのでアメリカ以外に彗星の軌道を逸らす権限と能力を持つ国はないかのように扱われてますけど、仮に彗星衝突の危機が迫れば中国とかロシアみたいな覇権主義の国を筆頭に各国が競って自国の影響力を高めるための軌道逸らし作戦に乗り出すので、科学者は大統領暗殺なんかしないでも単にそっちと協力すればいいし、その覇権争いの中で結局はアメリカも悠長なことは言ってられずに軌道逸らし作戦を強行せざるを得なくなる。
だから実際にはあり得ない話なんですけど、この映画は視点を主人公の科学者二人に固定することで、なんとなくあり得そうな話というムードを醸し出す。あり得ない極論を現実的に見せるには主観を採用すればいい。陰謀論を深く信じ込む人は客観よりも主観の信憑性を高く見る、ということを考えればそのことはよくわかりますよね。さぁここにこの映画の仕掛けがあるぞ! あの科学者の主人公二人はヒーローでも正義の人でもなんでもなくただの一介の職業人に過ぎないし、二人は自らの行動を職業倫理に則って決める、あるいは行動を振り返って正しいか正しくないか判断する。
これが客観的な事実だが、そんな事実を主観で糊塗してしまう意地悪なこの映画を見る人は、少なくとも感情的には主人公二人が「客観的に」正しいことをしていると考えたくなるだろうし、主人公二人の言うことを理解しない周囲の人間を非難したくなるだろう。俺の感じたム・カ・ツ・ク・ッ! も半分はこういう仕掛けにアッサリとハマってしまったからだ。あの大統領とかシリコンバレーのバカとかム・カ・ツ・ク・ッ!
でも客観的に見れば、主人公二人は自らの職業倫理と責務を超える、人間として人々のために正しいことをしようという客観的な倫理的行動は取っていない。だから実はあの二人はトンチキ大統領やシリコンバレーのバカやワイドショーのクソ司会どもと全然変わらないのだ。みんな自分の任された仕事をちゃんとこなそうとしているだけで悪いことをしようというつもりはない。それどころか良いことをしているとさえ思っているように見えるし、実際それは周囲の人にとっても良いことには違いない。ただしそのお仕事のサークルの中でだけ。
主観的な思考は自分に与えられた具体的な仕事よりも大きな人間としてやるべき仕事を構想することはできない。俺こそ客観だといって主観と客観を混同した主観的な誇大妄想に突き動かされるような人間も困るが、客観をまったく欠いてしまった人間もそれはそれで困るというか、そういう人間しか社会に存在しない場合に何が起こるかは極端なシミュレートではあるがこの映画を観ればわかる。…はずだが、主観誘導のテクニックが巧妙なので見過ごしてしまう人もいるというのが、この映画のなかなかおそろしいところ。
俺ごときが言うまでもなく科学が主観と客観(推論と検証)の弁証法によって発展してきた学問分野であることは誰もが知るところで、従って事実の安定した科学というのはあり得ないし、政治的に中立の科学というのも存在しない。科学者が言っているからそれは事実だろうと考えるなら、それは非科学的な迷信的考えと言うほかないわけで、その観点に立った時にこの映画が『遊星よりの物体X』のヒステリックなプロパガンダ文句を真逆の思想的立場から反復することが意味を持つのではないかと思う。
世の中にはある事物について人の主観の数だけカギカッコ付きの事実があるなんて当たり前で、そんなものは宇宙人がいるかいないかを職場とか学校とかで片っ端から色んな人に聞いてみればわかる。みんなそれぞれの経験や知識から異なる答えを持っているわけで、でもそれだと収拾がつかなくなってしまうので、宇宙人がいるかいないかを客観的に決めようと思えばみんなで話し合ってそれぞれの主観を汲みつつも誰か一人の主観だけを過当に評価することなく、また荒唐無稽だからとアホっぽい主観を排除することなく、とりあえず全員が一応は納得できる仮定的事実を作るしかない。
そのためのテーブルにつくことを、「空を見上げろ」派と「空を見上げるな」派が共に拒んでしまって、それを眺める観客までもがテーブルの必要性を忘れている状況を、陰鬱な笑いで吹き飛ば…そうにもまぁ吹き飛ばないという中途半端な、でも中途半端であるからこそその問題がリアルに迫ってくる、そんな痛い諷刺映画が『ドント・ルック・アップ』なのだ。まぁ俺の主観ではね!
※あとこれ面白いんですけど2時間半とか長いのでこんぐらいの話なら100分でやれやとか思う。
【ママー!これ買ってー!】
こういう古典映画をちゃんと観てないと作品の意図(かもしれない)がわからなくなってしまうこともあるので教養としてやはり古典映画は観ておくべき。客観とは教養なのだ。