《推定睡眠時間:0分》
なにを書こうかなって迷っちゃうね。まぁ色々あるよ。どうしよう。オチから書く? うそうそそういう野蛮はわたくしいたしません。いたしませんがでもこのオチって象徴的だったんだよな。なんの象徴ってクレヨンしんちゃんが「普通」になったことの象徴。それが原作というよりはテレビアニメ版で形成されたものだとしてもユニークで普通の子供とは明確に住む世界の違うスーパー幼稚園児だったしんちゃんはもういなくて、今のしんちゃんって標準よりも元気っていうだけの普通の幼稚園児なんですよね。
それはたとえばみさえだって同じ。みさえはスーパー幼稚園児のしんちゃんを暴力と恫喝で抑え込む豪腕スーパー主婦だったはずなのに今のみさえは暴力も恫喝も封印して元気な我が子を心配するやさしい普通の母親になっちゃった。ひろしはどうかというとひろしは昔から普通人のポジションにいて、それは出来はともかく食レポ漫画のスピンオフが作られたことからも分かりますけど、ひろしの普通ってスーパー幼稚園児とスーパー主婦の特別さを困惑の形で引き立ててときに観客と同じ普通人のポジションから観客の声を代弁するようにコメントをする、いわばスーパーな二人に対して普通で居続けることが普通じゃない、そういう特別な「普通」がひろしだった。だからしんちゃんとみさえが普通人になった今、ひろしの普通は単なる普通でしかない。普通の普通。ひまわりも無茶な暴れっぷりを見せなくなった。
特別でいることがある種の呪いであることは『クレヨンしんちゃん』がかつて親の選ぶ「子供に見せたくないアニメ」として悪名を轟かせていたことからもわかる。特別でいることは孤独なことだ。みんな自分と違う特別な人間よりも自分とよく似た普通の人間に親近感を抱く。でも今の『クレヨンしんちゃん』は孤独じゃない。あのアンケートはまだやっているのかどうか知らないが、今「子供に見せたくないアニメ」のアンケートを取っても『クレヨンしんちゃん』はきっとランクインしないだろうと思う。今や『クレヨンしんちゃん』は不動産屋のイメージキャラクターであり、平凡で幸せな家庭の象徴であり、つまり普通である。俺やあなたと同じようにしんちゃんたちは存在して、手を伸ばせば届く存在になった。
このかなしさがわかりますか。まあ今の映画クレしんを楽しめてる人にはわからないでしょうね。毎回毎回書いているような気もするが俺は最近の映画クレしんを観るとかなしくなるんだよ。このしんちゃんはもう俺が好きだったしんちゃんじゃないって再確認させられるから。それでもあのスーパーなしんちゃんの残滓を求めて結局は観に行っちゃうんだけどさ…なんだよこの感想!
だってしょうがないじゃないですか本当にかなしみがあるんだから! いや一応先に言っとくけど今回のしんちゃんはどちらかと言えばわちゃわちゃ系でたのしい映画なんですよだってまぁ忍者ネタだしね! 忍法でかすかべ防衛隊もどうぶつに大変身するし今回ゲストのハライチの物ボケ漫才にマサオくんが「前座のくせに長いな~」とか愚痴をこぼすあたり笑っちゃうよねあはは! 忍者アクションは案外少ないとはいえアクションシーンの出来はそう悪くない(ただし良くもない)、おなら忍法を駆使する刺客なんてクレしんらしくてイイっすよね~!
はぁ。なのになんでこんなにかなしい気分になるんだろうかといえばほらだからやっぱりさ「普通」志向なんだよ、特別であるよりも平凡がいいねっていう普通志向が全編を覆っててそれが特別を否定して平凡を称揚するラストシーンに繋がるわけです。誤解無きように言っておけば映画クレしんはずっと平凡を称揚する映画シリーズだった。ただしその平凡は特別な冒険や戦いを通して「やっぱり我が家が一番だな」ってな感じで弁証法的に浮かび上がるものであって、かつての映画クレしんの平凡称揚はだから感動的だったのだが、今の映画クレしんにはこんなダイナミズムはない。だから平凡称揚に感動はなくて、代わりにあるのは安易で退屈な共感だけだ。
あまり観念的なことばかり書くのもお子様アニメの感想としてどうかと思うのでかなり手短に具体的な内容について書くと、まぁわちゃわちゃしてて楽しいですけど平凡ならざるもの・状況の魅力がないからドラマは予定調和を感じさせて盛り上がらないし、アクションと笑いと泣かせと社会的な問題提起まで盛り込んだ結果どれも中途半端でなんだか薄っぺらくなってしまった。社会的な問題提起とは家父長制批判と女性の解放です。それ自体は賛同しますけど映画クレしんに持ち込まれると正直、反感はある、だってそんなもん女性客を呼びたいって意図が見え透いているからね。実際映画館には女性二人組の客とかは結構いたから興行戦略としては間違っていないのかもしれないが、見え透いた興行戦略はよほど面白いものでなければ(たとえばウィリアム・キャッスルのギミック上映とかさ)あまり気持ちのいいものではないだろう。
もう俺みたいな面倒臭いやつは客のうちにカウントされてないんだろうな。『新婚旅行ハリケーン』を観たときにはどうしようもない映画だなと思ったものだが、あれでさえ今の映画クレしんとしてはむしろ正解なわけで、あれを楽しめる健全で愛にあふれた「普通の」ファミリー層に向けて今の映画クレしんは作られているんだろう。『オトナ帝国の逆襲』の素晴らしさは原恵一という作家の個人的な記憶の奥の奥までもぐったところで現れた痛烈にして独創的な社会批判にあると俺は思っているが、たとえばAmazonレビューを見れば家族愛に泣く家族愛に泣く家族愛に…とそればかりだから、制作側が映画クレしんの今の観客は家族愛を求めていると判断するのは当然のことだ。
ギャグでもユーモアでもない。アナキズムでもナンセンスでもない。アクションでも冒険でもない。平凡と泣きと、家族愛と政治的正しさと、そして特別ではなく普通であることを今の観客は映画クレしんに求めてる。だからこれはそういう映画だ。だから俺はかなしくなるんだよ…!
【ママー!これ買ってー!】
いいさいいさ、なにも俺の好きな昔の映画クレしんがこの世から無くなったわけじゃない。老害は死なずただ過去の名作しんちゃん映画を繰り返し一人で観るのみだ。うう…かなしい!