《推定睡眠時間:0分》
泣きそうになってしまった。キラキラ映画の新作は欠かさずに観る俺ではあるが基本的に冷やかし半分なわけで笑いこそすれ泣くことなどないのだが、監督が三木孝浩に脚本が月川翔のキラキラ映画マイスタードリームタッグ、加えて『明け方の若者たち』の松本花奈を共同脚本に迎えた最強布陣の力は伊達ではなく、泣くまでとはいかなくとも主人公・福本莉子の悲劇的な運命に確かに泣きそうになってしまったのであった。
さて俺が泣きそうになるほどのキラキラ映画とはどんなお話か。福本莉子が目を覚ますと壁にこんな貼り紙が貼ってあるのが目に入る。「私はいついつ交通事故に遭って記憶障害になりました。眠るとその日の記憶を忘れてしまいます。ノートPCの日記を読んで下さい」がーん、とショックを受けるよりも困惑する福本莉子。それはそうですよねいきなりそんなこと言われてもすぐには脳が咀嚼できない、しかも日記によれば事故に遭ったのは3年前、自分ではまったく記憶にないが3年間も毎日こんな風に目が覚めてこんな風に困惑していたらしい。
しかしその日の福本莉子は少し違った。3年間毎朝同じように状況を説明してきた両親に彼女はこう告げる。「私、昨日のこと覚えてる」。果たして病院に向かうと脳機能の回復が見られたのであった。なんたる奇跡! 生きていればいいこともあるものだ! といっても本人的には3年間はなかったことになっているわけだからとくに回復の実感などはないのだった。そんなこんなでいつもと同じように友人の古川琴音とカッフェに出かけた福本莉子の脳裏にちょっとした疑問が浮かぶ。最近絵を描くことにハマっていたらしい彼女のスケッチブックには同じ男性のスケッチが何枚も残されている。これはいったい誰だろう? 古川琴音は図書館で見かけた人と説明するが、実はその男性・道枝駿佑と福本莉子はもう少し深い仲にあったのだった…。
以上が映画始まって10分ぐらいの出来事だが巧いっすよね、ストーリーテリングが。冒頭からいきなりの記憶障害、しかもすぐ回復の静かにして怒濤の展開。その状況をポカーンと眺める福本莉子の視点に合わせて大袈裟な演出などはせず淡々と映画は進んでいく。いきながら空白の3年間の謎とスケッチブックの男の謎を提示する。キラキラ映画であるからして2人が恋仲であろうことは容易に想像ができるとしても、なぜ古川琴音は図書館の人などと言ったのか。そうしたことがあくまでもさり気なく描かれるわけで、謎を謎として強調しないことで先の展開を予想させず驚きを生むミステリー調のキラキラ映画となっているのだ。
でここまでは福本莉子の視点で物語が進んでいくんですがそこから時は遡って3年前、今度は道枝駿佑の視点で物語が進んでいって、やがて古川琴音の視点にバトンタッチした後に現在の福本莉子の視点へと戻ってくる。空白の3年間の謎を福本莉子を中心とした複数の人物の視点から解き明かしていくこの脚本の面白さ。前向性健忘症を男女の「すれ違い」として組み込んでエモに転換していくのもまったく巧み。原作ものなので原作が良いとも言えるが、道枝駿佑の父親・萩原聖人のエピソードがやや消化不良だったりする点を除けば見事なアダプテーションで、これはそのうち韓国映画かアメリカ映画でリメイクされるんじゃないかとさえ思わせる。
従来のキラキラ映画にはないものを、世界に持って行けるキラキラ映画を…という意気込みが松本花奈の脚本起用からすれば作り手には強くあったんじゃないだろうか。それが窺えるのは道枝駿佑のキャラ設定で、この人は性格的にも見た目的にもいわゆるイケメン的な感じではないんですよね。なにわ男子のジャニタレだからそりゃファンにとってはアイドルだろうけど一般的に見れば(俺の目がどの程度一般感覚と一致するかはわからないが)わりと冴えない男の子で、キラキラ的にオラついてもいないし性欲でギラついてもいない。でも人に優しく料理が趣味で海デートに行くとお弁当作ってきてくれる。
三木孝浩や月川翔のキラキラ映画には弱いイケメンがよく出てくるとはいえ、そういう男の子がいいよねっていうのはキラキラ映画ではかなり珍しいんじゃないだろうか。キラキラ映画といえばヒロイン女子が眠った隙にイケメン男子が唇を奪いに行く強制わいせつがお馴染みだが、なんと道枝駿佑は福本莉子が隣で眠っても無許可キッスを狙わない! 当たり前だろと思われるかもしれないが現実社会の当たり前が通用しないのがキラキラ映画の世界なのだ。
キラキラ映画には恋愛による人間的成長が欠かせないってわけでここでも恋愛を通した病気の回復が描かれることになるが、泣きそうになったのはそういうところで、恋愛のケア機能を可能な限り肯定的に描くところにジワっときてしまう。このケアという言葉は最近流行っているのかよく聞く気がするが俺が常々不満に思っているのはそうした場合にケア行為が単方向性のものとして語られがちなことで、ケアすることでケアされる側だけではなくケアする側もまた救われるんじゃないかというケア行為の双方向性の視点がどうも世の中には欠けている。
でもこの映画は違いますから。この映画っていうかわりとキラキラ映画って全般的にそういう感じですけど、とりわけこの映画は、ケアすることはケアする相手にケアされることであり、ケアされることはケアされる相手をケアすることであるというケア行為の双方向性を描く。恋愛を通して救われたり成長したりするのは片方じゃなくて両方で、そこにどっちが偉いとかそういうのはないんだよって視点があるんですよね。
キラキラ映画のようなある意味でたいへん時代遅れな映画が主にヤング女子にウケている理由は(まぁ主要因はアイドル目当てだとしても)案外このへんにあるんじゃないだろうか。世の中が進歩という名の個人主義に引きずられすぎて生きづらくなっているところで個人主義を超える恋愛の可能性をキラキラ映画は堂々と提示してくれる。世の中は誰もが不完全なのだからお互いにいがみ合わずいたわって生きていく方がいいじゃないのという時代遅れなやさしさが、今の世では沁みるのだ。
※ただし道枝駿佑の同級生のメガネデブの扱いはだいぶ酷いのであれはねぇだろと思う。三木孝浩は『夏への扉』でもデブの扱いが酷かったがなにか恨みでもあるのだろうか。
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『今夜、世界からこの恋が消えても』とはテイストが近い月川翔監督作。タイトルは比喩ではなく実際に君がキラキラと光り輝きます。まさしくキラキラ映画。