《推定読了時間:一週間くらい》
蓮實重彦って映画好きな人がやたら言及しますけど俺は今まで一冊もその本を呼んだことはなくて、正確に言えばおそらく高校時代に近所の図書館で『映画狂人』シリーズの一冊を2ページ立ち読みしたことしかない。蓮實重彦とは何者か。映画好きとしてこのまま知らないままでよいのか。と、大袈裟な理由があるわけでもなくツイッターで蓮實重彦面白いよ的なことを言われたのでちょうど新刊が出たらしいしということでついに初蓮實重彦してみたのがこれ『ショットとは何か』。
第一印象。ずいぶん読みやすい。俺の蓮實重彦イメージはフランス現代思想周辺の人っていう感じだったので難しいこと書いてんだろうなと思ってたんですけど、この本はインタビュー形式でかつ蓮實重彦の映画原体験から話を始めてるので難しいことない。この映画原体験つーのが面白いんだよな。もう戦後も戦後の話だから単純にへーそんな時代もあったんですねってぐいぐい読んじゃう。蓮實家の経済力は知らないですけど(中学生の分際で映画館に行きまくってたというからそこそこ金あったんでしょうが)戦後の窮乏の時代を生きた人の映画観と今の人の映画観ってやっぱ違うじゃないですか。英米映画が入ってこない時代を経てGHQ統治下で一気にアメリカ映画が入ってきた時期に浴びるようにアメリカ映画を観てた人の感覚なんて今からだとなかなか想像できないよね。蓮實重彦は社会情勢とかについてはほとんど語らないわけですけど。
でそういう人の視点からユニバーサルは当時はB級映画ばかり撮る会社と見なされていたのに今は大手扱いでちゃんちゃらおかしい…なんて言われると返せる言葉もなくて笑っちゃう。だって映画観まくってるもんね。そりゃあねずけずけ悪口言う権利もありますよ。こっちはそっすねそっすよねーって笑うだけ。豊富な映画知識に裏打ちされた毒舌が頂点を極めるのはドゥルーズの映画論『シネマ』批判のくだりで、その理論の穴…お前はこう言うがこんな映画もあるしあんな映画もあるんだからそんなの理論に合わせて作為的に批評対象の映画を選んでるだけじゃないか的なものですけど、それをしつこく展開しつつ折に触れてはドゥルーズは女性差別的だしヨーロッパ中心主義だと毒を盛る。
ここも笑っちゃったな。だってなんか可笑しいじゃない、蓮實重彦の口から「女性差別的」なんて。絶対普段から女性の権利がどうとかそんなの考えてないよ蓮實重彦。どう考えても『シネマ』を書いたドゥルーズを叩くためだけに持ち出してるんだよそんなの。その証拠に本の後半で蓮實重彦が語る女性観っていうか映画の中の女性の魅力なんてまったく古くさいもの。
そんな風に口さがない蓮實重彦ですけど、でも面白いから嫌な感じにならないんですよね。それは本人も自覚してる言ってる気配があって、蓮實重彦の毒舌ってわりと読者のツッコミ待ちみたいなところがある。古典映画の知識に関しては隙がないですけどぶっちゃけその理屈とか論理って思いつきとか飛躍が多い。それをあえて見せている感じがあるから、なんか憎めなさが出るんですよ。最近の映画監督を評価するときにもなんとなく俺はちゃんと時代に着いていってるぜ感みたいのを出そうとしてるようで可愛らしいっつーかね。
って感じで「語り」に関しては面白く読めるんですけど、蓮實重彦のあえて言えば映画理論というのものに関してはそんなに面白くは読めない。蓮實重彦の言いたいことって要はこういうことなんですよね。世の中には超たくさんの映画があってその全部を観た人はいないから、「これがすぐれた映画」っていうような普遍的な法則とか、「この時代の映画はこんな感じ」っていう一般的傾向を打ち立てることはできない。そういうことを書く「映画理論」は破綻してて無意味。…身も蓋もなくない!? このへんフランス現代思想をバックボーンに持つ人らしいラディカルさとも言えますけどそんなさぁ…それを言っちゃあおしめぇよじゃないですか。
理論の無効を宣言して蓮實重彦が何を語るかというと、それがタイトルになっているように映画の「ショット」。ショットとショットの連鎖を目に焼き付けなさいということですけど、俺は率直に言ってその論理展開に少なからずガッカリした。蓮實重彦はもっぱら映画の映像だけを観て物語は観るな…とまでは言わずともあくまでも観るべきはショットという立場ですけど俺は物語を結構重視する派というのもあって、映画理論を打ち立てるのは不可能だからただひたすら画面だけを見よ、なんていうのはどうしても退行に見えてしまう。それでも断固として破綻する宿命の理論を映画を観まくってる人なら立てようとすべきなんじゃないかと思うわけですよね俺は。それが映画批評なんじゃないのという感じで。
蓮實重彦の映画批評っていうのは偶像崇拝に近くて、映画の理論化と不可分な自己を捨てて映画の、ことにショットに対する耽溺と陶酔を読者に求める。映画館で映画を観るときは孤独を感じるべきとか良いことも言ってるんですけど、その孤独って自己と映画の距離から生まれる孤独じゃなくて、自己を捨てて映画と一体化することで他の観客から切り離される孤独なんです。そんな孤独は思い込みの中でしかありえないんじゃないかなって俺は思うんですよ。本当の意味で映画を観る孤独というのはどんなに映画と一体化しようとしても決して一体化できない現実的な悲しさの中にあるんじゃないか。そしてその孤独を受け入れたときに映画を物語として観る視点や画面の裏側を見る視点が生まれるじゃないか。とすれば蓮實重彦の言う孤独やショット主義というのは母胎回帰願望の変奏でしかなくて、それはいくら甘い香りを放とうとも、さして価値のあるものではないんじゃないか…。
っていう感じかなぁ、俺の『ショットとは何か』感想。まぁ蓮實重彦入門書としてはいいんじゃないですか。映画本としてはあんまり面白い内容じゃないと思いますけど毒舌はわりと笑えて面白い、ポストモダン的な映画批評として新鮮に映る人もいるでしょうきっと。今更ポストモダンと言ったところで…と個人的には思いますけれども、逆に言えば今時こんな堂々とポストモダン的な美学を貫ける人もいないでしょうから、そういう意味ではやはり得がたい人なんでしょう、蓮實重彦という人は。
2022/8/10 追記:
なぜ蓮實重彦はショットに拘るのだろうと考えていて思いついたのが、ショットというのは二時間程度で生まれて死ぬ映画の中の決して死なない永遠の一瞬であり、かつて見たあのすばらしい映画を殺したくない…という思いから、じゃあどうやって映画を生かし続けられるかと考えて出てきたのがショット主義なんじゃないだろうか。蓮實重彦はアニメを映画と認めないと公言するが、アニメというのはそもそもが静止画の連続であり、実写映画と違って生きたものを記録しない代わりに生きていないものに命を吹き込みフィルムに永遠の生を与える技術である。それは蓮實重彦のショット主義と本質的には同じなのではないかと思うのだが、むしろ同じであればこそ、蓮實重彦はそれを忌避するのかもしれない。なんとなれば、アニメを映画と認めてしまえば、自らのショット主義が死者蘇生の術であることを認めることになるわけで、映画の死体を直視せざるを得なくなるのだから。
【ママー!これ買ってー!】
表紙になっているのは『殺し屋ネルソン』という映画の場面写真らしい。蓮實重彦の語りぶりからするとずいぶん面白そうな映画に思えるが実際はどうなんだろうか。