《推定睡眠時間:0分》
辛すぎるだろ。何が辛いって宇野祥平演じる議長が辛いよ。オウムをモデルにしたと思しきカルト教団の孤島プログラム(これはおそらくオウムが炭疽菌散布計画に際して行った石垣島セミナーが元ネタ)として三人の男女が孤島で半自給自足生活を送ってて、そのメンバーが議長の宇野祥平、副議長の北村優衣、オペレーターの磯村勇斗なんですけど、もうさ、もうさ、もうだって…わかるじゃん! 北村優衣と磯村勇斗は若い男女でしかも美男美女だから仲良くなって宇野祥平が蚊帳の外に置かれるのはわかるじゃん! 最初からわかるじゃんだって目が違うもの絶対に目が違うもの北村優衣が磯村勇斗を見る目と宇野祥平を見る目が絶対に違うもの!
凹むわこんなもん! だって俺確実に議長じゃないですか! じゃないですかと言われても読んでる人は困るだろうがおそらく信者歴が一番長くしたがって信仰も一番深くぶっちゃけちょっとの戒律破りならまぁいっかと許してしまうラフ信者の若者2人よりも信者の在り方としては正しいにも関わらずむしろその融通の利かない正しさによって若者2人から疎まれかといって四六時中完璧に正しい信者であることもできないから煩悩に悩みしかしそのことを議長のポジションゆえ若者2人に相談することもできずいつしか爆発してしまうこの弱さ! 愚かさ! 醜さ! 滑稽さ! 切実さ! わかるか! これがセックスだのペッティングだの愛情表現だのを四六時中している発情人間のお前らにわかるというのか!!!!!
北村優衣と磯村勇斗のネットリしたセックスシーンを見ながら俺は興奮するというよりも打ちひしがれたよ! だって俺はこんな風にセックスをすることはできないから! 風俗があるだろという声もあるだろう! だが違う! 違うのだ! 確かに風俗は俺も行きたいが行ったところでこの悲しみが癒やされることはないだろう! それは異性でも同性でもひとまずどちらでもいいが、誰かから心から求められてのセックスではないからだ! あなたが欲しいとそう思われて! あなたと一つになりたいとそう思われて! この身体をあなたに捧げるから、あなたもその身体をわたしに捧げて欲しいとそう思われて! そんなロマンチックなセックスが現実の世の中にいったいどれほど存在するだろうかとは俺だってさすがに思うが、北村優衣と磯村勇斗が孤島でやっていたセックスというのはこれなのである! 一度でいい! 人生で一度でいいからそんな素晴らしいセックスをしてみたい…いやむしろ! それ以外のセックスなどいらない! だが俺は所詮議長なのだ…性的な魅力もなく知性の輝きもなくいつも周囲から浮いていてそう俺は議長なのだ…助けてくれ!
まったく救いがない映画だよな。この議長はさ、俗世間でも使えない人間だったに決まってるんだよ。使えない人間だから居場所を求めて宗教に入ったのに(※想像)そこでも結局はハブられる。元オウム信者の早坂武禮が書いた『オウムはなぜ暴走したか。――内側からみた光と闇の2200日』っていう回顧録があってさ、この早坂って人は元ジャーナリストだからそこそこ頭のキレる人なのね。だからそれ読むと意識の低い信者とか知的障害を持つ信者に対する蔑視とまでは言わないけれども冷たい眼差しっていうのが文の端々から窺える。結局宗教というのはどんなに平等に見えても能力や性格の異なる人間たちの形作る組織であって、どんなに俗世間からかけ離れているように見えてもその構造はさして俗世間と変わらない。使えるやつは使えるし使えないやつは使えない。人気のあるやつは人気があるしハブられるやつはハブられる。何も変わりゃしないんだ。これが切なくならずにおられるか。議長の超空回りっぷりには切なくなりながらも大いに笑わせられるけどさ。
もっとも、それはそう感じさせるだけの迫真性がこの映画に備わっているということなので全然良いことである。日本映画はなぜカルト宗教を描くのがあんなに下手なのかと日頃から文句を言っている流行りの宗教二世(統一じゃないよ)の俺だが、この映画のカルト宗教描写はややカリカチュアの度合いが強いとしても、カルトの狭義や実践ではなく組織論に着目したことである程度のリアリティを獲得しているし、組織と対立する形で生々しくも美しいセックスを差し挟むことでカルト宗教もの映画として決して表面的なおもしろおかしさに終始しない強度がある。北村優衣の左乳房が右乳房よりも膨れ上がった左右非対称な裸体も見世物的エロよりも地母神的な神々しさを帯びるのだ。ありがとう北村優衣。
ただ、だからこそ気になってしまうものもあって、それはやはり古さなのだった。原作者は『RED』の山本直樹なので劇中のカルト教団ニコニコ人生センターにはオウムの他に連合赤軍のイメージも含まれているだろうしジム・ジョーンズの人民寺院もモデルのひとつになっている。そのキメラを現代性を考慮することなく提示することの古さもあるし、「人間結局セックスでしょ?」的な価値観は、これはピンク映画出身の城定秀夫の哲学だろうが、俺やっぱ古いと思うんですよね。だって俺セックスしてーしてーと書きましたけど一ヶ月ぐらいオナニーも夢精もしないでとくに気にならないとか普通にあるもん。性欲って案外抑えられるんですよ、それを誘発するものさえ絶てば。
カルトはやめた方がいいと思うけど俺は伝統宗教のようなものは人間のモラルの根拠としてやはり必要だろうと思っているので、そういう視点からすると「結局はセックス」的な価値観で宗教が一刀両断されてしまうのはいささか安易に思える。夢と現実の混淆が描かれるクライマックスの後のエピローグも作品のテーマをいたずらに広げて蛇足に感じられるし、この映画は組織論として宗教を描くことには成功していても、宗教そのものを描くことにはあまり成功していないんじゃないだろうか。
…議長っぽいでしょ? この批判の角度。うう…それを考えたらまた辛くなってきた…『ビリーバーズ』、面白いけどツライ映画です!
【ママー!これ買ってー!】
頭目を失って壊れていく学生ゲリラの話。言うほど鬼畜でもないし大宴会でもないが残酷なポエムとして面白い。
わかります!私は以前カップルを眺めていて、彼氏と向き合った女の子の心底うれしそうな笑顔を見て、あれ?それ、オレ知らない。見たことない。と気づいてしまい、ボクが知らないものはどうしてそんなに素敵なの?ねえ、素敵なものはなんでみんなが知ってて僕だけ知らないの?わからない、教えてよ、ママー!!!ハァハァ・・・
ていうか、内容はほとんど原作と同じでしたね。また、エンタメ映画として正しいアップデートの手腕が素晴らしいなと思いました。風呂もろくに入ってないのに、みんな清潔な見た目、若い女性のキレイなハダカ、美しい孤島の景色などなど。とにかくリアリティなどの妙なこだわりはせずに、楽しく観賞できるように気遣っていると感じました。
と、そうなると監督の作家性と言うのは一体どういうところにあるのかな?とふと気になったりもします。城定監督って、柳下毅一郎からの評価高いですよね?作家性が見えないのがいいのでしょうか?教えてよ、ママー!!!
城定監督はやっぱり低予算早撮りの娯楽映画職人っていうところと、限られた状況下での人間の在り方を、その悲しさや滑稽さ、または愛おしさを、ある意味江戸っ子的なタッチというか、落語みたいに描き出すところが柳下さんの心の琴線に触れるところなんじゃないですか。ピンク映画とかエロVシネとかの方が城定監督の作家性は見えるかもしれません(ママより)
おお~なるほど、大納得しました!ありがとうございます!
二、三本しか見てないくせに語るのは厚かましいですが、監督の映画では三角関係が題材になってるとか、ほとんどほんのりハッピーな終わり方、などの理由が的確なお答えで完璧に説明されてしまいました。
すごいや!僕のママは世界一のママだよ!
いや俺も3本かそこらしか監督作見てないですけど笑