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最近はこういう視点の女性偉人伝記映画が流行っているようでメアリー・シェリーを描いた『メアリーの総て』やカール・マルクスの娘エリノア・マルクスを描いた『ミス・マルクス』も同傾向だったと思うが、既に評価の確立されている歴史上の人物を大文字の歴史から切り離し実は彼女たちも現代に生きる私たちと同じような凡庸にして切実な家庭内の悩みを抱え抑圧に晒されながら生きていたんですよ、とやって観客のお涙を誘うわけである。
どうせ俺のブログだしウダウダと誰かに気を使って文章を迂回させても仕方が無い。単刀直入に書いてしまうがぼくそういうの嫌いですしちょっと厚かましいんじゃないかなあって思います。きわめて簡潔にその理由を述べよう。日本での知名度が低いエリノア・マルクスは少し事情が違うのだが(※ここでちょっと脱線してでも触れておきたいのだが原題が”隠れた人々”の意を持つNASAの黒人女性計算手を題材にした伝記映画『ドリーム』の主人公はキャサリン・ジョンソンだが、同名の原作ノンフィクションがその書名で示している”隠れた人々”とは、アメリカでは既に広く知られたキャサリン・ジョンソンの栄光の影に隠れた数多の黒人女性計算手のことであり、したがって原作の大部分はキャサリン・ジョンソン以外・以前の人々のドキュメントである。この点がキャサリン・ジョンソンの名前が広く知られているとは言いがたい日本では誤解されているようで気にくわない)ごめん脱線してたら全然簡潔じゃなくなりましたが、つまり、要は、なんかね、立派な人の立派さを毀損してるように感じるんだよ。
だって『メアリーの総て』ではメアリー・シェリーの代表作『フランケンシュタイン』の文学的価値なんて一言もと言って良いくらい触れられてませんし、名作誕生の影には苦悩ありと言ったところで、その苦悩は別に自伝や研修書に書かれた事実を基にしたもの「ではない」映画監督と脚本家の創作なんですよ? 『ミス・マルクス』だってエリノア・マルクスの功績もそこそこにいかに彼女が家族に苦しめられていたかということばかりをこちらももっぱら作り手の想像力でもって描く。
で、『スペンサー』も離婚&王室離脱の決意前の三日間を描くものだからという言い訳はできますけど後年ダイアナの名声を高めることになる慈善活動なんかその萌芽すら描かれない。ここでのダイアナは単なるわれわれと同じ凡庸な悩める人で立派な人ではないんです。
そんな意見をいちいち相手にしないでもいいとは思うがこの映画を観てまるでダイアナが意図せずして王室に囲われた悲劇の人であるかのように語る人がいる。実のところめっちゃいる。けれども考えてみれば当然の話だが、チャールズ不倫王の本性は結婚してみなくてはわからなかったとしても、王室に入ったらどんな束縛を受けるかなんてある程度はわかるじゃないですか。結婚当時19歳の年齢では想像とそのリアリティに限界はあるとしても、ともかく想像することはできるのだし、結婚前から既にメディアを賑わせていた貴族出身のダイアナは少なくとも王室とぜんぜん縁の無いわれら一般大衆よりは王室に入るということが何を意味するか知っていたはずじゃないですか。
それでもダイアナはチャールズと結婚して、二人の子供をもうけて、この映画の中では語られなかったように思うが(その部分だけ寝てたかもしれないのでこのへんあやしい)自分の意志で自分を救うために不倫をしたわけで、王室離脱後のワールドワイドな慈善活動や派手な、といっていい恋愛模様を考慮すれば、実際のダイアナはこの映画で描かれるよりも遙かに多くの主体的判断をしてきたアクティブかつポジティブかつ勇気ある人だと思われるのに、それをあたかも自分の意志では何もできなかった悲劇の人であるかのように扱いしてしまったらさ…なんかそれってダイアナに表面上は寄り添ってるようで逆にダイアナを貶めてない? って俺思うんですよね。作り手も観客も。
最近こういうの流行ってるようですねぇなどと皮肉を言ってみせたのは本当ね最近の実話ものって歴史上の人物の「事実」の部分には興味ないんだよ。また話が『スペンサー』から逸れますけど『最後の決闘裁判』だって映画の陰の主役といえるマルグリット・ド・カルージュの主観で描かれる第三章は前の二章と異なり記録に沿ったものではなく、そのすべてが脚本家の創作なんですよ。そりゃ歴史はいつだって勝者によって書かれるものですから必然的に物事の光の部分ばかり書かれることになる。歴史には書かれなかった陰の部分をその想像力でもって救出するのだって芸術家のひとつの役割には違いない。でもその行為には常に実在の人物の存在を芸術家の一存で書き換えてしまう危うさだってあるじゃないですか。そうしたことに無頓着すぎると思うんですよ、最近の伝記映画の作り手は。
ついでだからもうひと文句書くけれども『最後の決闘裁判』で完全に脚本家の想像に委ねられた第三章を執筆したのはNetflixドラマ『オレンジ・イズ・ニューブラック』の女性脚本家ニコール・ホロフセナーだが、これは他の二人の男性脚本家、ベン・アフレックとマット・デイモンの判断でそうなったとどこかのインタビューに書いてあった(俺の記憶が壊れていなければ)。『スペンサー』の脚本家は『イースタン・プロミス』などの硬派な作品で知られるスティーヴン・ナイトでこちらも名前からわかるように男性ですよ。『ドリーム』はアリソン・シュローダーと監督セオドア・メルフィの共同脚本。
俺これ男の側のある種の言い訳じゃないかって思うね。ぼくたちはちゃんと女性の生きづらさを理解して寄り添って彼女たちに手を差し伸べたいと思ってるんですよ~的な。その結果が事実の軽視と立派さの毀損なら逆に女を舐めてるだろそんなの。あのね女の作り手とか観客の側もそんな紳士気取りの安い男どもに易々とついて行くんじゃねぇよって思いますよ。少なくともスティーヴン・ナイトはどう考えてもダイアナより立派な人ではないんだから。ダイアナより立派ではない人がダイアナを可哀相な人として描くことに疑問を持てよ少しは。そんなんだからダメなんだよどいつもこいつも…俺は誰と戦っているんだ!
ダイアナの心象風景が現実と混淆する『スペンサー』ではダイアナが二人の女と想像の中で対話し、融合し、分かち合い、それによって自らを癒やす。あーあまたそのパターンですか最近別の映画でも観たよほら話題の『秘密の森の、その先で』っていうやつね、フランス映画界の俊英セリーヌ・シアマの新作。そちらでは母と娘の空想的な一体化が現実の乗り越えと個体化の過程として描かれていたわけだからいくぶん精神分析的な構造があり単純なファンタジーには決して堕していなかったが、『スペンサー』にそんな深みはない。ここで描かれるのはすべての女は本来的に一つであるという甘くも退行的な全体主義的誘惑である。
そんなわけないじゃん男も女も関係なく一人一人みんな違うよ人間は。女たちの連帯と言えば聞こえはいいがこんなものはダイアナの毀損に留まらず女という性別そのものの毀損である。未分化の状態とは生物において未成熟を意味するからだ。外見が違うだけで女の中身はみんな同じだからみんなわかり合える癒やし合える…なんてそんなのね、女は死ぬまでずっと幼児から成長できない劣った存在ですと言っているに等しいでしょうが(余談ながらこういう人を舐めた伝記映画の対極に位置するのがジュリー・テイモアの秀作『グロリアス 世界を動かした女たち』であった)
自分を知的でリベラルなフェミニストの善人だと思い込んでいるインターネットの男性評論家風情どもは女に叩かれたくない一心で(としか俺の目には見えないがそんな自覚は一切ないだろう)そんな空想的な「女の世界」、つまり全ての女が連帯して一つになる世界の存在を無批判的に肯定するが、それが女のイジメはえげつないの言説によって表象される女性蔑視的な、そしてやはり空想的な「女の世界」の裏返しに過ぎないことは言うまでもない、と思いたいが気付かぬふりをしている不届きな輩が多すぎるので俺ぐらいはちゃんと言っておいた方がいいだろう。男は女がわからないし男は男がわからないし女は男がわからないし女は女がわからない。当たり前のことではないか。その悲しさをしっかり一人一人が受け止めるのが男女平等というものだ。
主張が激しすぎてちっとも『スペンサー』の感想になっていない気がしたのでかなり強引に映画の話に戻すが、たぶんダイアナという人はこんな遅れた女性観の中に留まっている人ではなかっただろう。それを確かめる術はないが確かめる術がないという現実の中にダイアナの圧倒的な他者性は埋め込まれている。われわれは誰一人ダイアナに近づくことはできない。理解することもできなければ共感することもできない。結構じゃあないですか。それで何が悪いんですか? こんな人もいたんだなぁとリスペクトすればいいじゃないですか。常々思うのだが最近の人たちはリベラルだろうが保守だろうが共感ばかり求めすぎていて人をリスペクトしなさすぎである。貴様ら他人をもっとリスペクトしろ。ほらまたそうやって映画の感想から逸れる!
えー、『スペンサー』でございますが、キューブリック映画風の冷たい美しさを持った撮影ですとか神経に障る(それもまたキューブリック映画、とりわけ『シャイニング』的である)劇伴がよくできていて、ダイアナを演じたクリステン・スチュワートもいささかコケティッシュみが強い気はするが見事ななりきり芝居、展開に抑揚がないので俺はたくさん寝ましたけれどもクセが強いってことは映画として悪いことではないですからイイんじゃないでしょーか。ただしそれとは別に、これやこれと同種の伝記映画なんかに対してはもっと苦言があってもよかろう、と思うのである。
【ママー!これ買ってー!】
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ダイアナがどんな人物だったのか知ろうにもダイアナの映画とか本とかはたくさんありすぎてどれを見たらいいのかわからない。こういう時はとりあえず小学館の学習漫画だ!