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2022年のハロウィンは悲劇に見舞われた、と書かれるところでは書かれるのだろうが悲劇とは韓国ソウルは梨泰院で起こったハロウィン詰めかけ客の将棋倒し事故で、これは死者150人超というなかなか大規模なものだったらしい。その報を目にしたときに俺は案外(?)なにも感じないのだった。人が人を殺すのは一人でもわりあい理不尽感があるが事故ならば、それも特定の誰かに重い責任があったりしない偶発的な自己ならばそれはもう人生そういうものだからと諦めもつくというもの。遺族とか事故で死なずに済んでも重い後遺症が残った人なんかにしたらそんなことは当然ないだろうが、これはあくまでも俺の感想であって、俺の中で梨泰院の将棋倒しは悲劇だとしても大した悲劇ではないのである。
ところが日本のツイッターを見ると少なくともこの事故に言及する人はわりあい深刻な悲劇としてこれを捉えているっぽい。人によっては知人友人家族親戚が巻き込まれたなんてこともあるだろうからそれはまぁわかるのだが、どうもとくに縁はないけど報道を見てこれは深刻な悲劇だと感じた人もそこそこいたみたいで、針が落ちただけでもショックを受ける人がいるツイッターみたいなセンシティブ空間ならおかしなことではないのだが、少し他人の死に対して敏感すぎるというかナイーブすぎるような気もしないでもない。
そういう空間にしっくり馴染んでいる人たちにはこの『アフター・ヤン』も好意的に受け止められるのかもしれない。いや、っていうか、ツイッター的な感覚はもはやテクノロジー先進国では一般化してしまっているので、ツイッターの中だろうが外だろうがこういう映画は良い映画ということになるんだろうと思う。
『アフター・ヤン』は今やすっかりブランド化したアメリカの映画会社A24が贈るSFヒューマンドラマ。テクノなるセンスのない名称のアンドロイドっていうか機能的にはパーソナルアシスタント内臓のスマホに人間の手足を付けたみたいな感じなのだが、それが普及した近未来のある中流家庭を舞台に、中古テクノが壊れちゃったことで生じる家庭内のさざ波を静謐なタッチで描き出す。
監督はモダニズム建築巡り映画『コロンバス』で脚光を浴びた小津主義者コゴナダが務め音楽は坂本龍一…ってこう名前を並べるだけで「その布陣でSFやるの!?」感がすごいですけれどもそこらへんは実験挑戦バッチ来いなA24らしい人選よね。案の定いわゆるSF然とした映画にはならずまあアンドロイドも普通に人間が演じているし未来ガジェットとかもほとんど出てこないしだいたいセンス・オブ・ワンダーがないのでSF物語としてはそんな面白くないのだが、破損アンドロイドのメモリーからその来歴を辿る過程には『ブレードランナー』オマージュも見え、SF映画としてはちょっと唸らされるところはあった。視点が変わるたびにスクリーンサイズを変えるみたいな実験的な演出もあるし。
で、冒頭の話に戻ると、どうも現代の先進国社会は死に過剰な意味や意義を求めるきらいがある。少なくとも現代の科学力の中では人間はほかのだいたいの生物と同じようにいつか必ず死ぬしかないのだから、まぁ人間そういうものだよねで大抵の死は軽くスルーしてしまえばいいと思うのだが、これができないし、社会的にも推奨されない。死はどんな死でも等しく大きな出来事で、大きな出来事であるからにはそこから有意義に見える何かを取り出さずにはいられない。
安倍元首相の銃殺事件にしたって人生がうまくいかなかった(そんな連中は宗教に関係なくいくらでもいるだろう)男が半ば自暴自棄になって首相経験者を撃った、というただそれだけのことなのに、日本社会全体がやれ民主主義への挑戦だとかやれ政治と宗教の問題だとか宗教二世の救済をとか右から左からと大騒ぎしているのはまったく正気とは思えない…というのは明確に脱線なので早々に本線に戻るが、死は意味もなくただ死でしかないという当たり前のことですら受け入れがたいというのがどうやら先進国の現代人なのである。
A24の映画には死を扱ったものが多いがその死に対する態度はいかに作風が異なる作品でもほとんど共通しているように見える点がおもしろく、どの映画でもとにかく他人の死はもうもう人生の一大事、それに直面した人間(多くは主人公)は激しく動揺し人生とはなんぞやとなにやらひとり禅問答に入ってしまうのがA24映画である。A24が規模はともかくディズニーやワーナーといった大スタジオにも決して引けを取らないブランド力を帯びているのはその作品に見られるこうした死への態度が先進国の人々の心の隙間にうまく入り込んだからじゃないだろうか。
『アフター・ヤン』はその意味で究極のA24映画とさえ言えるかもしれない。もうね、無駄に重くて感傷的。動くスマホが壊れたわけでしょ? いいよ新しいの買えばいいじゃん。ってか買わなくてもいいよ、なんか中国人の養子に中国文化を教えるために買ってきたらしいけど、その中国文化を教えるっていうのも別にいらないんじゃない? 子供成長して自分で自分のルーツを知りたくなったら自然と中国文化にも関心向くでしょ。アメリカは人にアイデンティファイとアイデンティティ政治への参与求める圧力が非常に強い国だから、死への態度に加えてそうしたところもこの映画は現代アメリカのツヤツヤの写し鏡になっているんだろう。アイルランド系白人夫、アフリカ系黒人妻、中国人養子女児とかいう人種のサラダボウルな人工的家族構成もアメリカのひとつの理想が反映されたものと見ることはたやすい。
結局これはなんなんだろうか。東洋の茶が印象的な小道具として使われるように西海岸ニューエイジ趣味と東海岸の進歩主義の両面にアピールする勝手のいいリラクゼーションアイテムでしかないんだろうか? 答えの見え透いた白々しい問いを自分で発するんじゃないよとすいません自分で反省しましたが、たぶんそうだと思います。西海岸ニューエイジャーと東海岸進歩主義者の共通点は無駄な繊細さである。人が一人死ぬことさえ絶対に見過ごせないというような現実から遊離した感覚がある。その感覚は果たしてどこまで通じるものだろうか。少なくとも俺には通じていないが、A24ファンでもちょっとこれはと距離を置く人もいるかもしれない。
世の中の大抵の人の人生は身近な他人の死で溢れていていちいち人が死ぬたびにその死にどんな意味があるのかなどと答えのない答えを探ったりすることはない。それはそうだだって人間の人生ってそんなものじゃないですか。俺はそれは健全な感覚だと思っているし、あまねく死に強い関心を持ちそこになんらかの意味を、できれば有意義な意味を求めようとする態度こそ病的だと感じる。動くスマホが壊れたぐらいで一時間半の上映時間中ずっと悲しみムードに包まれスマホの持ち主がその死を咀嚼することができない『アフター・ヤン』にはそういえば葬式の場面が出てこない。それが悪かったんじゃないだろうか? 葬式をやれば大抵の死はもう終わったこととして人生を過ぎ去ってくれる。
宗教的な儀式には長い伝統が裏付けるそれなりの効用がある。それを非科学的で無駄なものとしてすべて捨て去ってしまった近未来人が死に対処できず右往左往する物語として『アフター・ヤン』を捉えるなら、これは一種のディストピアSFとして観ることさえ可能だ。主人公一家の前では理想の中国人として振る舞いなにか変わった行動と見えることをすれば家族からそのことの意味はなんですかと執拗に問われる生前のヤンを見れば、信じるよすがを失って(だからあの家族は養子に中国人のアイデンティティを持たせようと躍起になっているのではあるまいか)意味なき生の中でいまにも窒息しそうな家族のいささか滑稽な姿と、プログラムされていない「意味」の押しつけで徐々に窒息していくヤンの姿もおぼろげに見えてくる。
坂本龍一のやさしく感傷的な音楽が観客と登場人物に寄り添い、聞いていると眠くなってくるつつましいささやき声の会話が親密なムードを演出するこの映画の底には、美しい理想がすっかり取り払ってしまった、意味なき生と死をひょうひょうと生きそれを意味もなく肯定してしまえる、堕落した庶民の救いを求める声にならない叫びがある。
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これを観てこの監督にSF撮らせようって思った人はすごいよ。