《推定睡眠時間:15分》
この監督ロバート・エガースの前作『ライトハウス』は神話と名の付くものならギリシア神話だろうが北欧神話だろうがええい構わぬクトゥルー神話だって神話は神話! と節操なくパッチワークしたような映画で、ここには何か神話を持たない国というか民族であるアメリカ人の神話を渇望する心理、神話の中で自分の惨めな生を意味づけたいというような切実な願望が反映されているのかなと思ったりしたものだから、この『ノースマン』を観て俺としては大いに腑に落ちたのだった。
アメリカの右翼って北方に憧れるじゃないですか。それも陽性の右翼とかじゃなくてわりと陰性のオタクっぽい人、オタクっぽくて心身ともに打たれ弱いのに、というかだからこそ健康体の右翼よりもマッチョ志向だったりする人が。まぁ日本のオタクにもそういう人たくさんいますからなんとなくわかるよね。オタク右翼カルチャーの中で北方というのは男性的なパワーを象徴するもののようになっていて、メタル、ヴァイキング、長髪、北欧神話…とかまぁなんかそのへんが好んで用いられる。貧弱な身体を持つオカルト好きなマッチョ志向者だったヒトラーも北方に強い憧れとシンパシーを持っていたし、ナチスといえばよくアーリア人という言葉がすぐ浮かぶでしょうけど、その具体的イメージとしてナチスが抱いていたのはスカンジナビア半島の人々を指す北方人種(今日ではこの言葉は非科学的なので使われていない)の金髪碧眼だった。
だからこの『ノースマン』っていう映画、これは9世紀末のスカンジナビア地域を舞台に『ハムレット』を中心としてまたしても北欧神話やらギリシア神話やら民話やらをパッチワークにした風の映画なんですけど、出世作の『ウィッチ』ではアメリカ人の恐怖の根源には何があるのかということが描かれていたし、『ライトハウス』はアメリカ人の神話待望がいささか喜劇的に描かれていたものだから、俺はこれオタク右翼男性たちの北方幻想を批評的に取り上げた映画なんだと思った。
そうですかそんなに北方が好きですか、じゃあ私が9世紀末のスカンジナビアにみなさまを連れて行ってあげましょう…というわけでそこに広がるのは男らしさの地獄絵図、肉と肉がぶつかり合い臭さと臭さを競い合い女を犯せば一等賞、男たちは冷酷無比な獣となって一滴でも多くの返り血を浴びようとせっせと村々を略奪して人々を虐殺し使えそうな人間は奴隷として売り飛ばします。現代のオタク右翼なんかこの男らしさ万能社会に異世界転生したらあまりの恐ろしさにまだ何もされていないのに自ら奴隷待遇を懇願するものの奴隷として使えるだけの体力とかなさそうだからみたいな理由で男ウォリアーたちに首をかっ切られる。
最近「有害な男らしさ」なる言葉を一部のラディカルな人たちが好んで使っているが、もうねそんなもんじゃないですから。漢漢漢が燃えると『よっしゃあ漢唄(おとこうた)』を熱唱する漢・角田信朗もこれにはびっくり。男らしさを競い男らしさのためなら国をも滅ぼすというのがまぁあくまでもこの映画の中でのことではあるが9世紀スカンジナビアというかわりとヨーロッパ全域というかたぶんもっと広く世界中です。有害どころではなく破滅的な男らしさ。
というわけでこの映画はいわゆる貴種流離譚、王様ウィレム・デフォーの血を引く少年が父を殺され自分も殺されそうになったので舟を出してセルフ島流し、そこで残酷ウォリアーとして名を挙げながら復讐の機会を伺うわけですがー、その物語にヒロイックな色彩はほとんどない。この男世界で行われているのは単なる犯し犯され殺し殺され奴隷にし奴隷にされる野蛮な争いでしかなく、そこにはただ利害があるだけで正義などどこにもないとこの映画は観客を突き放す。このへん一般的な娯楽史劇とは趣を異にするところで、そういうのって観客が共感できるヒーローが主人公になったりするじゃないですか。でもこの映画にヒーローはいない。だからカタルシスもないし爽快感もない。あるのは破壊の暗い快楽と容赦の無い残酷行為の持つ後ろめたい興奮、主人公が幻視する神話世界のもたらすあやうい酩酊感。なんとまぁ悪趣味な映画だこと!
とはいえ風刺家エガースの映画がそれだけで終わるはずもなく、北方幻想を荒々しく打ち砕いた荒野に現代へと繋がる理性の萌芽を見せるあたり、なかなか真面目な映画です。これ何かって神話の時代の終わりと人間の時代の始まりの間にあった(かもしれない)出来事を抽出した物語なんですよね。人々が神話と繋がりその生を神話の中で肯定していた野蛮時代から人間と人間が個人として繋がりその関係性の中で生を肯定する人間時代へ。それはナチスに対する勝利という「神話」へと社会精神が退行しその神話によって侵略行為を正当化している某ロシアの現在の姿を見ればなかなかに重く響くテーマである。
なにもロシアのウクライナ侵略を受けて作られた映画ではないにしろ、社会が自民族優越の神話を求めた結果として強権政治が横行しつつあるのがイヤになっちゃう今の世界というものだし、世の中のそうした流れを批判する意図は少なからずこの映画には込められているんじゃないだろうか。序盤、略奪から帰還したウィレム・デフォー王を人々が「再分配の王!」とかなんとか歓喜の声で迎えるのもそのような面から理解できるように思える。その後植民地主義の時代を超えて現代まで続く他国の侵略・略奪とは煎じ詰めれば軍備費になけなしの金を吸い取られる貧しい社会に軍隊が略奪した富を行き渡らせる婉曲的な再分配政策に他ならないことをこの何気ない台詞は示している(かもしれない)わけである。
してみると、男らしさとは貧しさによって作られ求められるものだと言えるのかもしれない。神話の時代から人間の時代への移行は同時に社会が豊かになっていく過程でもあった。今、もし、世界規模で神話の時代への退行現象と、それに伴って男らしさを希求する社会心理が生じているのだとすれば、それは社会が貧しくなったこと、格差が固定し貧民が貧民のままでいることの結果なのかもしれない…と、さすがにそこまではこの映画およびロバート・エガースも話を進めることはないが、単に史劇の映画と言うに留まらずそれを通して現代社会の歪みを照射する思慮深さがこの映画にはある。長回しで切り取られる略奪シーンの面白さ、垢と汚物にまみれた美術の素晴らしさ、天翔るヴァルキリーや冥府の門の幻惑的な美しさ。21世紀の史劇映画ベストテンを作りならこれは必ず入れたい傑作だね。
※太鼓や口琴など古楽器や民族楽器で構成された劇伴もよかった。
※※ウィレム・デフォー王とか書いてますが王はイーサン・ホークでした。
【ママー!これ買ってー!】
シェイクスピア屈指の残酷戯曲を舞台演出家のジュリー・テイモアが映画化。史劇なのにセットだけ現代のイギリスとかになったりする奇抜な演出とグロドロ人間模様がたのしい。
デフォーは道化役で王はイーサン・ホークですよ
文末に訂正ありましたね
いやお恥ずかしい…王様最初の方にしか出なくて照明なんかも暗いから顔忘れちゃって、たしか主人公が洞窟みたいなとこでイニシエーションを受けるシーンにデフォーの顔面アップが浮かび上がるショットがあったと思うんですが、それが後半の回想シーンで出てきたので、これ王様だっけ…みたいになってしまって