《推定睡眠時間:0分》
内戦中アイルランドの田舎島で一人のオッサンが突然それまで中のよかった年下オッサンに絶縁を切り出す不条理喜劇と映画サイトのあらすじ欄とかには書いてあるし日本版予告編もそんな感じだったのだが不条理という感じが俺にはしなかったのはこういうオッサンている。最近は一人現場なのでそんな人と出会うこともなくなったが前にやってたオフィス清掃には油絵を描くオッサンというのがいた。
オフィス清掃のバイトとかパートなんて職にあぶれた何のスキルも職歴もない中高年の受け皿だから芸術だなんだという高尚な文化とは縁遠い。その職場でオッサンのアート話がわかるのは超教養人の俺ぐらいで、この映画の中でも作曲活動に目覚めてしまったオッサンが島を訪れた音大生に「ようやく音楽の話のできる人間がこの島に!」とガッツリ食らいつくシーンがあるが、その清掃オッサンもオフィス清掃とかいう芸術不毛地帯に突如として舞い降りたアート人種の俺に色んな現代アート本をここぞとばかりに押しつけてくれたものだった。
オッサンがいつアートに目覚めたのかはそういえば訊いたことがなかったが、アートで食いっぱぐれてオフィス清掃に入ったわけではないらしい。平凡な仕事をして平凡に起業に失敗し平凡に食いつないで気付けば60過ぎかそこらに達してる。結婚はもちろん上手くいかず結構前に離婚済み。俺の経験上、清掃バイト・パートのオッサンの離婚率・独身率は異常に高い。「俺たちの世代はいつも団塊の世代が前に立ちはだかってるんだよ」と、どんな会話の流れでの発言かは覚えていないが、ポツリとこぼした一言が謎に印象的だ。
このまま何も為せずに虚しく一人で死んでいくのだろうか…などとそのオッサンが言ったわけではないのだが、オッサンともなるとやはり若者よりは死を現実的な自分の問題として理解するから死が怖い。それでも何かを持っていれば死への恐れは誤魔化せる。家族でも友達でも推しアイドルでもテレビゲームでもまぁなんでもいいだろうが、俺の知る範囲では油絵オッサンにそのようなものはなかったし、稼ぎだってたかが知れてるからこれから持つのも難しい。これは想像だが、そんな時に唯一オッサンが持てるものがアートだったんじゃないだろうか。絵を描くのは絵具と筆があればできるし、美術館に行くのだってそう高い金がかかるわけでもない。シニア料金だってあるし。
ところでそのオッサンは人当たりの悪い方ではなかったのでアートのアの字もないオフィス清掃中高年たちの毒にも薬にもならないどうでもいい話も苦ではないらしかったが、俺は飲み会なんかに行ったりすると帰り道でめちゃくちゃ気分が沈むことがある。飲み会でする話って基本的に内容なんかないじゃないですか、その場が盛り上がればなんでもいいわけだから。そういうのもまぁ楽しいは楽しい。楽しいは楽しいが、店を出て一人になるとガックリ思うわけですよ。あぁこの二三時間、本当に無駄使いしたなぁ。飲み会に行かずに家に帰っていればその時間で映画を観ることだってできたし公募シナリオを書くことだってできたし本を読むことだってできた、まぁ実際には『スプラトゥーン3』とかをやってるうちに5時間ぐらい経過しているわけだが、あくまでも仮定の話で言えばその時間で自分のタメになることが、『ときめきメモリアル』だったらステータスの上がる行動が取れた。飲み会は楽しいがその場で楽しいだけで後には何も残らない。
『イニシェリン島の精霊』が俺にはまったく腑に落ちる話で不条理劇には見えなかったっていうのはそういうことなんですよね。毎日パブで馬鹿話をする仲だったコリン・ファレルをブレンダン・グリーソンはある日突然拒絶して、その理由を「お前と馬鹿話をしてる時間があるなら作曲をしたい」と説明する。「お前の話は退屈だ」。そうでしょう、そうでしょうな。舞台は1923年のアイルランド田舎島、電話もネットもない時代の上に田舎島だから本も新聞もたまにしか入ってこない。新しい情報がなけりゃパブに行ったところで毎日同じ話がぐるぐる回るだけだ。情報がなさすぎてファレルはあるとき2時間も馬の糞の話をグリーソンにしていたという。「違う! ロバの糞だ!」どっちだっていいよ!
毎日毎日つまらない話をしているうちにグリーソンはふと思ったんじゃないだろうか。俺はこのまま一人で死ぬのか。グリーソンには犬の他に家族はいないし島で唯一のアート趣味を理解してくれる友人知人もいない。あるいは、漠然と芽生えた死への恐怖を紛らわすためにアート趣味を始めたのか。グリーソンが高尚なアート趣味者のようでいて実際は大した知識もない下手の横好きでしかないことはファレルの妹ケリー・コンドンとの会話で示される。「モーツァルトは18世紀の作曲家だよ!」。わかる、わかるナァ。俺もデリダっていうのはねとかデリダを一冊も読んだことがないのに得々と上から目線で人に解説して基本的な知識の誤りを指摘されそうな気がするもん。気がするだけで実際にそういうエピソードがあるわけではないのだが。
タイトルは邦題だと「精霊」だが原題は”THE BANSHEES OF INISHERIN”で『イニシェリン島のバンシー』となるが、このバンシーというのは悪魔ゲー『真・女神転生』でもお馴染みのアイルランド・スコットランドに伝わる妖精のこと、バンシーがいかなる存在かは劇中でグリーソンが説明してくれるが、その叫び声を聞いた者や近親者は近いうちに死んでしまうという一種の死神である。グリーソンはファレルとの交際を絶って作り上げた曲を”THE BANSHEES OF INISHERIN”と名付ける。彼はバンシーの叫びを聞いてしまったのだ。「まだ絶望感はあるのか?」とグリーソンが告解する神父は言う。
これはもちろん比喩だがその音はグリーソンの心の中にのみ響くわけではなくおそらく実在する。海の向こうのアイルランド本島から聞こえてくる内戦の音である。この映画を観ていて不思議に思ったのは環境音がやけに少ない。だいたいいつも曇天の荒涼としたアイルランド田舎島なら普通一歩でも外に出れば風の音がびゅーびゅーといい草の揺れる音がざぁざぁというのが聞こえるはずだし、映像を見る限りでは海も凪いではいないので岸壁に当たって砕け散る波の音だってざばざば聞こえるはずである。ところがほとんど聞き取れないレベルにまで環境音を下げてある。島を歩いていたファレルが風や草や波よりも遙かに遠くにあるアイルランド本島からの銃撃音や爆発音を聞くシーンがあるにも関わらず。
「またなんだか派手にやってるな。どことどこが戦ってるんだか知らないが」内戦の音を聞いたファレルはしかし大して気にも留めず、そして以後、ファレルの耳は捉えているはずの内戦の音は彼の意識にも観客の耳にも届くことがなくなってしまう。もしこうした不格好な音作りが作り手の意図するところであれば、その意図とはファレルの聞く音世界を再現することだったんじゃないだろうか。ファレルの耳には自然の奏でる豊かな音は少しも届かないし、戦争の音は意味を成さないノイズでしかない。ファレルはぶっちゃけアホだからである。
けれども海沿いの家に住むグリーソンには違ったはずだ。彼の耳は自然の音をしっかりと受け取っているだろうし、自然の音が聞き取れるなら戦争の音はもっと明確に聞こえるだろう。戦争の音、それこそが死を予告するバンシーの叫び。だからグリーソンは自曲の題名を告げた時のファレルの返答を聞いてひそかに絶望するのだ。「イニシェリン島にバンシーなんていないぞ」あぁ、このバカには聞こえていない。あのおそろしい死の叫びが聞こえていない…こいつだけじゃなくてこの島の全員に。
こう書けばファレルがどうしようもない人のように思えてしまうが、良い人だけどこいつと話してても全然『ときめきメモリアル』だったらステータスが上がらないなと思わせるファレルが、しかし実は『ときめきメモリアル』において攻略の鍵を握るのはステータスの変動する会話は何もしてくれない友好度データという名の親友である好雄であるのと同じように、バンシーの叫びに囚われたグリーソンにある意味で救いの手を差し伸べる唯一の人物だった、というツイストがこの映画をアカデミーなんたら賞のノミネートだかなんだか知らんがとにかく有名な感じの映画賞の俎上に押し上げたたぶんゆえんである。
「今日は戦争の音が聞こえないな」ファレルとの会話の中でグリーソンはポツリとこぼす。ファレルの話はつまらないし何度も一人にしてくれっつってんのにこいつは超しつこくウザ絡みしてくる。正直しんどい。しかしファレルの相手をしている間だけはグリーソンの脳裏からバンシーの叫びが消えるのかもしれない。教養のないアホとの無駄話は確かに退屈だし『ときめきメモリアル』ならステータスが上がるものでは決してないかもしれないが、それは一時であれ死やら病やら貧困やらのシリアスな悩みを忘れさせてくれる、絶望せずに生きるために必要なことなのだ。
俺がこの映画を観ての第一印象はなんだか落語みたいな話だなぁというものだったが、それは何も登場するキャラクターがいちいち落語っぽいというだけのことではなかったんだろうな。上から目線で突き放してるようで実は庶民派っていうか凡人を讃えるようなお話になってるところが落語っぽい。とはいえ隠しきれないインテリ臭と毒気からすれば立川談志の世界観と案外近いものがあるんじゃないかと思ったりもするがどうでしょうか。これ落語に翻案しても面白そうだから立川一門の人お願いします。
っていう感じでね、『イニシェリン島の精霊』よかったです。身につまされながら笑っちゃう映画なんだよこれは。グリーソンを見てはわかるわかる、ファレルを見てもわかるわかる、こんな退屈でバカしかいない島でなんか生きていけるかとキレるコンドンを見てもわかるわかるで、わかる人らのわかる掛け合いに苦笑の連続。バリー・コーガン演じる近所の与太郎にはさすがにわかるわかるとはならないが、でもこういう人は確かにいる。いないと思ったらねあなた派遣バイト登録してカスみたいな単純労働の現場行ってみりゃいいんです。バリー・コーガンめっちゃおる。
監督マーティン・マクドナーの前作『スリー・ビルボード』が単純な答えを提示しない戯曲色の強いミステリーだったからかこれも謎めいた映画として受け取る人が結構多いようだが、まぁグリーソンみたいに「今度話かけたら自分の指切るからな」なんて言う人はそうそういないだろうとしても、なんのことはないこんなものは俺やあなたの身の回りによくある話。落語とか講談だって江戸時代のよくある話を誇張して描いてるわけですからそういう意味でも落語的だよね。凡人にしては感性が少しだけ鋭いオッサンと凡人にしては感性が少しだけ鈍いオッサンの喧嘩ならざる大げんか。そんなネタでこう面白く仕上がってるんだから立派な映画ですよこれは。
※それにしてもバリー・コーガンの与太郎芝居は最高。グリーソンにとってファレルがアホでつまらない人間であるようにファレルにとってコーガンはアホでつまらない人間で、ファレルがグリーソンを一方的に親友だと思い込んでいるようにコーガンもファレルを一方的に親友だと思い込んでいるというシビアなリアルさもグッとくる。
※※あとコリン・ファレルの鳩が豆鉄砲食らったような表情がツボ。
【ママー!これ買ってー!】
このまま何も為せずに一人で死んでいくのだろうか的な悩みを抱えた登場人物というのはマーティン・マクドナー監督作に毎回出てきて作家のテーマみたいなところがある。コーエン兄弟監督作を思わせる捻くれたブラックコメディの『セブン・サイコパス』もそれを念頭に置くと案外スッと頭に入ってきます。
ゲラゲラ笑いつつも身に覚えのありすぎるイタい映画でしたね。私は10代の頃は同好の志と楽しくやっとったのですが、時折自分は一人に耐えられるのか、とわざと関係を断って(絶縁宣言こそしてませんが)見るという奇行に走ることがままあって、その時のイタい自分を見るようで、顔から火が出そうでした。最初はポーズでやってたことがそのうち相手を本気で怒らせてしまって、関係修復するのに苦労したとこまでそっくりです。後に友人の一人から「お前にはお前のつもりがあるんだろうが、一度出来た関係については諦めろ(付き合いを優先しろ)」と言われ心を入れ替えましたが…10代の内に目が覚めてよかったです。ちなみに私の最大の爆笑ポイントも「モーツァルトは18世紀よ!」でした。
10代の頃は友達なんか作ろうと思えばいくらでも作れますけど大人になるとその気がなくても減っていくばかりですからね笑
でもわからないっすよ、還暦超えてある日突然「俺はこのままの友達付き合いを続けてていいのか?」ってなるのかも。そうなった時でも間違ったウンチクでマウントを取るような恥ずかしい真似はしたくないものですが。
怖いですね~(笑)
或いは自分がコリン・ファレルの側に立たされることだってあるかもですしね(その可能性の方が高そう)。
笑えるけど他人事ではない怖さのある映画なんですよね、そう考えると笑