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今ではすっかりマルチバースの語が定着しているがマルチバースがパラレルワールドとダサく呼ばれていた頃の藤子・F・不二雄の短編漫画に『パラレル同窓会』があり、俺の人生これでよかったのかな的な中年の危機をパラレルワールドの形で描いた佳作だが、F先生といえば『タイム・マシンは絶対に…』というタイムマシンが発明されない理由をシニカルに描いた短編もある。その理由とは異なるのだがタイムマシンが開発されない理由は俺もたまに考えたりする。
技術的な話はわかんないから脇にどけるとして、論理的にいって過去に遡行できるタイムマシンは過去にも未来にも開発されないか、開発されても使用されていないに違いない。タイムマシンのない世界の過去から未来を1本の線だとすると、タイムマシンの使用された世界は過去と現在が結ばれて円になる。でもこの円は閉じた円環ではなくて、過去のいずれかの時点にタイムマシンが干渉すればそれはもうタイムマシンのない今までの世界とは異なってしまうわけだから、タイムマシンが繋がった過去から先の現在と未来は現在・未来その2になる。その現在・未来その2で再びタイムマシンが使用されれば現在・未来その3ができる。これがタイムマシンが使用されなくなるまで延々続く。
タイムマシンが使用されることで世界はらせん状にパラレルワールド化していくわけですけど、じゃあ俺が今こうやって『エブエブ』の感想に全然なってない感想を書いている今とは何かというと、果たしてこれが現在・未来その1なのか現在・未来その499856なのかは知らないが、ともかくこれは無数の可能世界の中のタイムマシンが使用されない世界の今ということになる。1秒前と1秒後の時間が分離することなく続いているということがタイムマシンの使用されていない根拠になるわけですよ。世界はタイムマシンによって無数に多元化されているのかもしれない。タイムマシンが使用された瞬間に、正確にはこれは時間の概念の外に出ているわけだから一瞬でさえないわけですけど、その一瞬のうちに可能なすべての世界が開かれて、そして同時に、すべての可能世界の中のひとつである「タイムマシンが使用されなかった世界」という形で世界は閉じて過去から未来へ続く時間が1本の線になる。
だからこの世界でタイムマシンは過去にも未来にも開発されないし使用されない。タイムマシンが存在するとすれば、その痕跡だけが跡形も無く透明な形で残っているのが今ここにあるこの世界で…とか俺はブツブツブツブツ頭の中で独り言を言ってるんだよいつも! いやだからねなんか反感持つのよ今のハリウッドのマルチバース・ブームみたいのに! はぁ? ってなるのよ! さも新しい概念みたいに売り出してるけどそんなことわかってたでしょうよと。だって例のほら量子力学のさエヴェレットの多世界解釈というのが出てきたの1950年代だからね?
世界や人間は多元であるという考え方はそれだけ古いもので、SFとか科学の形にこだわらなければもっと古くの神話や民話にもきっと見られる考え方だろう(1935年に発表された夢野久作の『ドグラ・マグラ』だって形式的には多元世界だ)。俺の読書経験からいえばパラレルワールドといってすぐに浮かぶのは前述の『パラレル同窓会』のほかディックの『虚空の眼』、モザイク状に点在する非線条の時間というアイディアならヴォネガットの『スローターハウス5』、複数の世界が同じリアリティの平面で交差しながら同時進行するというネタならシオドア・スタージョンの『ここに、そしてイーゼルに』なんかで、これはいずれも50年代~70年代に発表されたものです。
SF界隈はその後サイバーパンクの時代に入るわけだから、そうしてSFが思弁性よりもアクチュアリティを重視するようになったことはもしかしたら間接的に今のマルチバース・ブームの下地になったのかもしれない。一昔どころではない昔だがともかくその頃はSF界隈で珍しくもなく、フランス現代思想でもキーワードとなった存在の多数性という世界把握の仕方は、『歴史の終わり?』なソ連崩壊に帰結する共産主義の退潮とも絡み合いながら一度は廃れて、人が存在の多数性ではなく現前性と向き合わなければならなくなった現代に、その厳しさから人を救い出すオルタナティブな思考として蘇った…もちろん多元宇宙を表現できるだけの映像技術の進歩も大きいでしょうが、そんな風に今のマルチバース・ブームを考えることもできるんじゃないかと俺は思う。
と一向に『エブエブ』の感想に入る気配がないわけだが、まぁでも言いたいことはわかるでしょ、なんとなく。これA24の映画でA24っつったら70年代ニューエイジ・リバイバルの映画会社ですよ。それでA24の映画に『A GHOST STORY』なんてのあったでしょ。あれって死んで地縛霊になった人が何年何十年とその場に居座って様々な人間の営みを目にするスピリチュアルな旅の映画で、色々人間を見てきたけど結論として自分が求めているのは大好きな君のぬくもりだけであることがわかったんだ…みたいなエモい終わり方をする。『エブエブ』もやってることは同じだなと思ったな。違うのは『A GHOST STORY』は一つの意識が線条時間の未来へ未来へと垂直的に旅をするんですけど『エブエブ』は無数にある様々な「今」を水平的に旅するということ、それから『A GHOST STORY』はシリアスの中にほんのりユーモアがあって『エブエブ』の方はユーモアの中にシリアスがあるということぐらい。だから取り立てて新しい映画じゃあない。
といっても新しいか新しくないかなんて面白くさえあればどうでもいい話で、こうやってこんなもん大した映画じゃねぇというイチャモンを長々垂れているのはあんまり面白くなかったから。色んな世界のミシェル・ヨーを見せてくれるのはいい。カンフーで戦うのもいい。けれども全てにおいて説明台詞に頼りすぎだと思う。とくに序盤は説明説明説明でいつまで経ってもストーリーが進展しないから辛かった。あのさぁ。それはなんていうか、SF映画なんだから映像で納得させてナンボじゃない? 存在の多数性を映像で表現することってそんなに難しいですかね? そうでもないでしょ? でもこれずっと説明するんだよ台詞で。だからせっかく色んな種類の映像混ぜ混ぜなのにドライブ感がなくてやたら時間が長く感じられる。映像にリズムが乗らないからカンフーのシーンも全然気持ちよくない。
SF映画なんだからと書いたが厳密な意味ではSF映画じゃないのかもしれない。『パラレル同窓会』同様にこちら『エブエブ』も冴えない日々を送る中年の現状に対する不安と不満、願望と恐怖によって混乱を来す精神をマルチバースの形で表現した映画で、その結末からすればマルチバースだのなんだのは単なる妄想もしくは心象風景とも解釈ができるように作られてある。というかその見方がむしろ一般的だろう。主人公(たち)が他のバースにアクセスする方法は意表を突く行動を取ることだが、なぜそうなのか、どの程度意表を突けばいいのか、誰がどう意表の度合いを判断するのかなどは語られない。となればこれはSF的な理屈に基づくものというより人生に疲れた中年男性がある日突然全裸になって街中を徘徊してしまうような、ストレスがもたらす異常行動の衝動が表現されたものと捉えるべきだろう。
マルチバースとカンフーと聞けばジェット・リーの『ザ・ワン』を否応なしに想起してしまうが、そんなわけで実際に観てみれば近かったのはユニークなホラーコメディの『キラー・メイズ』。しかし映像表現のリッチさはともかくストーリーテリングの巧さという点では予算がこの映画の何十分の一かわからない『キラー・メイズ』にかなり完敗じゃないだろうか。変な映像変な映像変な映像をひたすら数珠つなぎにするだけで芸がないことこの上ない。芸があるというのはたとえばマルチバースの映像ひとつひとつに主人公ミシェル・ヨーの現実世界の断片を反映させ、それらを見ていくことで観客は主人公ミシェル・ヨーが現実に置かれた状況やその中でこの人が感じている様々な感情を台詞を聞かずとも理解する、という作りである。芸というかこういうスタイルの映画を作る映画監督は普通そうやってるが、でもこの映画は単に変なビジュアルを考えなしに並べ立ててるだけとしか思えない。
まぁ合う合わないってあるからね。この映画には『マトリックス』シリーズの影響は見えるしウォン・カーウァイ映画のオマージュもある。あとミシェル・ゴンドリーとかターセム・シンとかね。俺は『マトリックス』もウィン・カーウァイ映画もミシェル・ゴンドリー映画もターセム・シン映画もまったく大した映画じゃないと思っているので、それが好きな人とはセンスが合わなくて当然なんじゃなかろうか。逆にそういうのが好きな人はこれも合うかもしれない。そこまでセンスが合わないとしても変で面白い映像はたくさん入ってるから変で面白い映像が見たいなーって時にはこういうの楽しいんじゃない。でもそれぐらいだな。その程度の映画と受け止めましたね俺は。
【ママー!これ買ってー!】
『ザ・ワン』だって大して面白いわけじゃないしジェット・リーの超速ダッシュとかはかなりダサいと思うが変に気取ったりしてないだけこっちのが好感度は高い。
ツイッターや評価サイト見ててもやっぱ極端な賛否両論ですねぇ。公開初日から今年ベストワン級という人と、拒絶レベルで頭抱えてる人がいましたからね。
予告で”アカデミー賞大本命”と大きく宣伝してましたけど、個人的にハードル上げるだけなのであんまりでしたね。やっぱり”「スイス・アーミー・マン」、「ディック・ロング」の監督最新作”で宣伝した方が良かったのではと思っちゃいます。
というのもこの監督の作風(人によっては不快になるギャグ、悪ふざけのような展開、終盤の感傷的展開など)って、結構人を選ぶような感じじゃないですか。だからこれらの要素に戸惑ってノレない人も多いと思うんすよ。だからもうちょっと過去作を宣伝してほしかったんですよね。
しかしまぁ、最近はマルチバースの映画多いですね。スパイダーマンの続編も確か今年でしょ?アニメの方の。
あ、これ「ディック・ロング」と同じ監督だったんですか!全然作風違うなぁ。アクの強い映画なら評価が割れるのは健全なことだと思うんですが、俺はめちゃくちゃ嫌いというわけでもなくめちゃくちゃ好きというわけでもなく…みたいな感じだったので、へえ世の中的にはそうなのかって感じです。
マルチバース、いいんですけど、これみたいに一作品で完結するならともかく多作品にまたがって展開されると追いきれないのでそれは「もういっか」ってなっちゃいますね〜
アメリカでヒットした時から注目してましたし、ミシェル・ヨーも好きだしって事でワクワクして待ってたんですけど、全然乗れませんでしたね…
なんなんでしょうね。全然関係ないですけど、昔漫画家になりたくて、出版社に持ち込みに行ってたんですよ。初めて上京した時に4社くらい回ったんですが、共通して言われたのが「詰め込みすぎ。この作品から3~4作品は作れるよ」でした。なんか見てる最中ずっとそんな風に感じてしまって、「今はこれが受けるのか?Z世代映画なのか?タイパが良い、というヤツなのか?」と混乱しながら観てました。鑑賞後に世間でも感想が割れているのを知って納得というか、安心しました。
あと、さすがにマトリックスをマネしたいのは分かりましたけど、ウィン・カーウァイもミシェル・ゴンドリーもさわださんに言われて気が付きました。大好きなんですけどね。もう何と言うか「下手くそ!」と言いたくなります。
そうなんですよね、一昔前だったらそもそも大きなスタジオなら企画自体通らなくて『マルコヴィッチの穴』みたいに脚本ブラックリストに載ってただろうなっていう…A24製作の中規模映画だから通ったんでしょうけど、それでもそんな作品がアカデミー作品賞ってんですから時代は変わったな~とか思いました。でも映画としては下手だと思うんですけど笑
ちゃんと面白く見れたしうるっと来たんですけど、とっ散らかってる感じはしましたね
なんか「ごっつ」のコントを延々見ているような…
で、あとこれは思っている人多そうなんですが、めちゃくちゃ「リック&モーティ」なんですよね…
『ごっつ』のコント感確かにある!考えてみれば松ちゃん監督作の『しんぼる』も面白いかどうかはともかくいろんな世界を行き来する点で『エブエブ』的でした。『リック&モーティ』は見てないんですけどSFアニメとかだとコミカルなマルチバースものってよくありますよね。