映画が教えてくれたこと映画『フェイブルマンズ』感想文

《推定睡眠時間:0分》

どこまで本当なのかは本人以外に知る由もないが巨匠スピルバーグの自伝的作品らしいこの映画『フェイブルマンズ』でスピルバーグの分身フェイブルマンくんが映画に目覚めたのは黄金期ハリウッドを良い意味でも悪い意味でも代表する監督の一人セシル・B・デミルのアカデミー作品賞受賞作『地上最大のショウ』を観たことによってなのだった。サーカスの一団を乗せた列車に迫る衝突の危機…そしてガッシャーン! これはすごいものを観たとフェイブルマン少年はその日から映画に取り憑かれてしまうのだが、この他愛もないエピソードの勘所は『地上最大のショウ』の見せ場はそこじゃないだろ…! というところにある。

アカデミー作品賞受賞作とはいえ『地上最大のショウ』をわざわざビデオとかで観てる人というのも少ないだろうから超絶かいつまんで説明するとこれはサーカスの人もいろいろ事情を抱えてて大変だねという映画である。あまりにもかいつまみ過ぎていると思われるかもしれないがいやでもホントそれだけだからなこれ。ストーリーはそれだけだがこれは巨人デミルの映画である。サイレント時代のハリウッドで聖書をネタに予算をドバドバ注いで画面を大群衆だの金銀財宝だの大合戦だのでギラギラ埋め尽くしたデミルの映画とあって『地上最大のショウ』もオモチャ箱をひっくり返したような贅沢かつ庶民的な楽しさに溢れてる。

すなわち、ホンモノの猛獣たくさん出演、ホンモノのサーカス芸たくさん撮影、ホンモノの超ビッグサーカステント設営を敢行。パソコンモニターとかで観てもそのへん伝わりにくいだろうが劇場の大スクリーンで観ればそのホンモノ大行進っぷりにわぁすごいとなること必至の一本がこれなのである。そうした華々しさがあればこそ華々しさに隠れたサーカス芸人たちの悲哀と人情がしっとりと沁みる映画でもあるのだが。

というわけで幼少期のスピルバーグ違ったフェイブルマンくんに衝撃を与えたミニチュア撮影丸出しの列車の衝突事故場面はホンモノが沢山出てくるこの映画にあってはぶっちゃけ最悪なくてもいいぐらいな重さの場面、確かにこれは序盤の見所ではあるのだがミニチュア撮影の出来は1952年という時代を考慮してもあまり良いとはいえず、迫力不足は明白だ。ところが大抵の人にはそんな風に映ったと思われるこの場面にサーカスも猛獣も差し置いてフェイブルマンくんは夢中になってしまう。あの華麗なる破壊をもう一度。スピルバーグは映画の中の破壊に心を奪われてしまったのだ。そして破壊こそがスピルバーグが映画を撮る動機にさえなったのである。フェイブルマンくんが『地上最大のショウ』を観たとき、それは元祖破壊王スピルバーグ誕生の瞬間なのであった。

ところがしかしスピルバーグももう喜寿が間近な超大人です。大出世作『激突!』みたいに破壊が撮りたい! の衝動なんかなくたって面白い映画は技巧だけで撮れちゃうのでこの『フェイブルマンズ』、なんとも軽いユーモラスなエッセイ映画になりました。物語はフェイブルマンくんの『地上最大のショウ』との出会いから映画業界に入るまでを描くわけですが、その間いろいろあったといってもぶっちゃけ大したことはない、ありふれた家庭問題もありふれたイジメ&差別問題もとくに深刻になることなくそういえばこんなこともあったよねはははと軽く触れるだけであっさりと通り過ぎてしまう。

だからスピルバーグ映画のひとつの特徴といっていいであろうカタルシスやケレン味はここには影も形もない。枯れた、というよりこれは円熟味というのが正しいんでしょう。わざわざ描写を誇張したり特定の出来事をクローズアップしたりしなくても語りがおもしろいので150分のわりあい長丁場もダレることなく飽きることなく観れてしまう。なるほどこれは名人芸。傑作とも力作とも思わないが傑作でも力作でもないけど普通にずっとおもしろいという映画を今のスピルバーグは撮れる。しかも自分の半生をネタにして。これはなかなかすごいことなんじゃないかとおもう。

肩の力は見事なまでに抜けているが物語の中身は抜かりない。『地上最大のショウ』の衝突を何度も自宅のオモチャで再現するフェイブルマンくんを見れば否応なしに多くの人は『激突!』を頭に浮かべるだろう。ボーイスカウトの仲間たちと戦争ものの8ミリ自主映画を撮っている姿を見ればそのずっと後にスピルバーグが『プライベート・ライアン』を撮ることの必然性がわかる。では高校時代にガールフレンドの依頼で撮った同級生のビーチパーティ模様は? …『ジョーズ』の原風景じゃないか!

かどうかは知らないがそう匂わせて、ちょっと金持ちだがなんでもない平凡な少年の十数年間を表面だけなぞっているように見せかけつつ、観客の脳みそにひそかに今のスピルバーグの下絵を描いていく。世界的映画監督の片鱗などこの映画のフェイブルマンくんには少しも見えない。けれどもその予感はチラチラとスクリーンの端々に映り込む。核心を見せずに予感のもたらすワクワクやドキドキで観客の興味を引きつけるスピルバーグの作劇は、一見そうと見えなくても今回も実に渋い形で健在なのだ。

もうひとつこの映画の面白いところは登場人物の意外性にある。フェイブルマンくんがこうであって欲しいとかきっとこうだろうと思った人たちは様々な局面でこうではない表情をフェイブルマンくんに見せることになる。ケッサクなのはボーイスカウトの仲間たちと8ミリカメラで戦争映画を撮ったときの主演の少年。どうも少年を軽くバカにしている気配のあるフェイブルマンくんは若干イラついたトーンでこういう表情が欲しいんだよ君ほんとにわかってる大丈夫? みたいな演技指導をするのだが、いざカメラを回してみたらファインダーの向こうの主演少年は…という具合なのだ。

フェイブルマンくんが周りの人々の思いもしなかった顔に気付くのはいつも映画を通して。撮影したフィルムの編集中に見つける場合もあれば完成した自作映画を見せたときの反応だったりもするが、とにかく一貫しているのはフェイブルマンくんは映画の撮影や映画の話によって他者を知り世界を知り少しずつ大人になっていくということなのである。泣かせる話だナァ。映画によって人と繋がるんじゃなくて映画によってむしろ人と距離ができるというか、容易には自分に理解することができず分かり合えることもない人間の多様性や複雑さを知るってのがいい。

俺からすれば韓国や日本を含む昨今のアメリカ文化圏ではあまりにも安易に人と人の繋がりが評価され過ぎている。わたしとあなたは本質的に同じであるという発想に基づく人の繋がりは確かに美しく魅力的ではあるが、それは裏返せば同調圧力でもあり、個人の自立を阻害すると同時にその人にしかなく他者と決して分有できない圧倒的な個性というものを認めない、他者を尊重しない関係の在り方でもある。そのあえて言えば幼児的な繋がりは『フェイブルマンズ』にはない。フェイブルマンくんの母親、父親、友人、知人、そしてフェイブルマンくん自身も他者には理解しきれない不可解さを抱えている。結構、いいじゃない、人間ってそんなものでしょうよ。分かり合えなくたって何も問題なんかない。分かり合えなくたって人間は共存できる。まぁ、間に人間関係の緩衝材としての映画さえあれば。

こう書けば繋がりバカにはわからないかもしれないが実に感動的な映画賛歌なのだが、押しつけがましくそのメッセージを前面には出さないのがこの映画の美点に思う。とくにゆかりがあるわけでも思い入れがあるわけでもないが偉大であることはフェイブルマンくんも知っている伝説的映画監督(これまで老人ギャグを度々作中に入れてきたデヴィッド・リンチが扮してついに自ら老人ギャグを披露)から直接映画を面白くするための撮影テクニックを教わるシーンの直後、雲の上の人に会えて小躍りするフェイブルマンくんを捉えるカメラは、「おっとっと!」といった風に慌ててそのテクニックを実践する。

こんな人を食ったシーンが実はこの映画のラストカット。面白いね、笑っちゃう。粋だよこの映画は。長い長い映画人生の中で酸いも甘いも噛みしめた大人の粋だ。こんな粋な映画は最近とんと観ないから、何割か増しで面白く見えましたね。

【ママー!これ買ってー!】


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大味なスペクタクル大作の監督と思われがちなデミルだがサイレント版の『十誡』など都会的なユーモアと構成で見せる洒落た映画も実は少なくない。『地上最大のショウ』もサーカスの裏側描写にそのへん垣間見えたりします。

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