語る映画『ペーパーシティ 東京大空襲の記憶』感想文

《推定睡眠時間:0分》

ふと思ったのだが非軍事拠点に対する当然ながら民間人犠牲者が出ることの想定される空襲を虐殺とは呼ばない。東京大空襲は東京大虐殺ではないし、ドレスデン大空襲もドレスデン大虐殺ではない。近いところではロシアのウクライナ侵攻によって引き起こされたブチャの虐殺は虐殺と呼ばれる。でもその後のウクライナ各地の非軍事拠点に対するロシアの組織的な大規模ミサイル攻撃は、それが発電施設や医療施設といった民間人の生存に直結する目標も含まれていたにも関わらず、やはり虐殺とは呼ばれない。いったい虐殺と空襲を分かつものとはなんなのだろうか。人間が人間を近くから直接攻撃して殺せば虐殺で、人間が人間の住む場所を遠くから攻撃した結果大量に人が死ぬなら、それは虐殺ではないのだろうか。そこに罪の重さの差があるようには思えないのだが。

などという話はこの映画の中には一切出てこないのですいませんなのだがまぁそういう関係ないことも考えさせられたりする懐の深い映画になっていたということでひとつ。でどういう映画というとタイトルの『ペーパー・シティ』、これは紙と木で作られた家屋が密集した東京のことですな。紙と木には炎が効くってんで太平洋戦争のB-29による本土空襲の際には最初他の爆弾を落としてたらしいが途中から焼夷弾を落とすようになったらしい。炸裂すると周囲が燃焼する火炎瓶のハイスペック版ですね焼夷弾ってのは。

この変更が功を奏して度重なる焼夷弾による本土空襲は結構な成果を上げた。負けちゃいられんと大日本帝国大本営が出してきた対抗策はバケツリレー。住民みんなでバケツリレーして火を消せば焼夷弾も怖くないぞ! ということでバケツリレーの練習をしてる昔の映像が映画の中にも少し出てきます。これウチのおばあちゃんも戦時中やってたって言ってなかったかな。まぁみんなやったでしょうその世代は。

当然、焼夷弾の雨嵐にバケツリレーなんてのは竹槍持って武装米兵を追い返すのと同じ無意味な抵抗で、1945年の本日3月10日は一連の攻撃の中でも深川・本所・浅草の下町地域が攻撃目標となったために甚大な被害が出る。今は押上なんていうとスカイツリーの街でしかないけど(※南部限定)あのへんもざっくり燃えてるらしいし、錦糸町の錦糸公園は近年桜の名所として定番花見スポットになってるが映画に出てくる空襲被害者の人の言によれば空襲の翌日は陸に川に溢れる死体をひとまずそこに集めたのだという。桜の木の下には死体が埋まっているというが、なるほどあながち伝説というわけでもない(なにもそこに埋めたわけでもないだろうが)

けれどもそうした面影は今の東京にはほとんど見られない。東京は破壊と再生の街なんていう。関東大震災や東京大空襲で一旦は更地同然となりつつも驚くべきスピードで再生を果たし以前よりも強靱で過剰な街ができあがる。日本人の忘却力の賜物だろう。過去を忘れることで人はただ現在のみに力を集中させることができる。敗戦によって一度はどん底国に落ちながらもその後世界に名だたる経済大国へと日本が成長することができたのも、まぁそれを成長と呼ぶのならだが、戦争の罪をあっさり忘れることによってではないだろうか。罪、というのは何も戦犯のそれだけではなく、戦争と植民地主義を支持し、民主主義を軍事独裁に譲ることを許した、日本国民全体の罪のこと。

映画は空襲被害を後生に語り伝えようとする空襲被害者の人たちの活動や日々の生活を捉えたもので、こういうのもアレですがあんまおもしろいものではない。米軍がどういう過程で本土空襲に至ったかとか、その時の大日本帝国の軍部の動きはとか、そういうマクロな話はなく、ただ淡々と空襲被害者の人の現在の姿とそこから発せられるミクロな過去の語りにカメラを向ける。意図的なものなのかそうでないのかその話からは空襲の全体像はあまり見えてこない。だから、なんとなくぼんやりした印象を受けるドキュメンタリーだったりする。

けれどもそうでしか理解することのできない事柄というのはあるわけで、それをあたかも自分の身に起こったこととして身体的に理解することも、その気持ちがあたかも自分のものであるかのように感情的に理解することも、今の人には俺を含めてもうできないことを知るというのが、逆説的だがこの映画のメッセージであり存在意義でもあるんじゃないだろうか。

もしも身体的であったり感情的に理解できるならそれをわざわざ語り伝える意味なんてない。そのようにはもうどうやっても理解できないからこそ語り伝えという理性の営みが必要になる。またあるいは、空襲被害の国家賠償を求めるデモを行うシーンに出てくる「空襲やったのアメリカなんだからアメリカ大使館行ったらいいんじゃないですか~?」みたいなこと言う街宣右翼が端的に表していたように思うが、戦争の罪の忘却は戦争の傷の忘却も同時に意味して、愛国者を名乗るような人間がこともあろうに空襲被害者を侮蔑するような本末転倒な状況を生んだりもする。

どう考えても愛国者なら同胞たる空襲被害者の前でその痛みに対して涙の一つや二つ見せて然るべきだろう…がそれができない、むしろその反対のことをする。そこには日本人の普段はあまり表面化しない深い分断がある。過去を忘れて現在だけを見るときには、現在を形成する様々な繋がりも忘れられることになるだろう。隣に住んでいる人間をもはやカギカッコ付きでも仲間として認識することができないだろう。この映画はそんな日本の分断を静かに炙り出す。そしてそれが乗り越え可能かはわからないとしても、震災被害の語り継ぎという形で理性的に乗り越えようとはしている人がいることを伝えるのである。

あんまり面白くはないがみんな観てねっ。

【ママー!これ買ってー!】


東京大空襲: 昭和20年3月10日の記録 (岩波新書 青版 775) 新書

読んでないから内容は知らんが岩波ならまぁ間違いないだろ。

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