人間機械説映画『別れる決心』感想文

《推定睡眠時間:0分》

最近ChatGPTでよく遊んでるんですけど比較的長いやりとりをしているとまるでChatGPTが軽くキレてるように見える返答が返ってくることがあって、その無神経な発言からリアル世界でもまったく悪意なく人間を怒らせがちな俺はAIすらも怒らせるのかと社会の厳しさをひしひしと感じたりしている。

なぜこういうことになるんだろうか。いや俺じゃなくてChatGPTが。俺はサイエンスと名の付く分野ならどんな分野でもまったく明るくないのでChatGPTの中身や仕組みもよくわからない。しかしおそらくこういうことではないかと思う。ある人Aが恐い人Bに近づいたらめっちゃキレられたとする。このときにAさんがそれを恐怖体験だと感じたならAさんはそれからBさんを見かけても近づいたりしないだろう。逆に面白体験だと感じられたならAさんはそれからもBさんに積極的に近づくかもしれない。

これはごく単純な行動のフィードバックである。AさんはBさんに近づくという自身の行動をその結果から良いものあるいは悪いものと判断する。良いものとはたとえば広い意味で生存に利することかもしれない。逆に悪いものは広い意味で生存を不利にすることだろう。AIには行動規範があらかじめ条件付けられているが、人間が条件付けられた行動規範とは死なないことに尽きる。死にそうな行為は悪い行為で生きるための行為は悪い行為、というのは人間個人の行動規範というだけではなく人間社会の道徳でもあるだろう。その行動規範に抗うことができるのが人間の面白いところ、あるいは生物機械として壊れたところだが、そうであっても死に結びつく悪い行為に生得的にまったく抵抗を感じない人というのはおそらくいないのではないかと思う。

で、AIは俺との対話の中でどういう返答=行動をするのが正解なのか、あるいは不正解なのかを学んでいく。ChatGPTの行動規範はわからないが、仮に「人間に正しい知識を提供する」だとしよう。俺はChatGPTの発言のアラをいちいち探してそのたびにツッコミを入れるので、その時にChatGPTは俺に対するある種の発言=行為を間違ったものとして負のフィードバックを受け取る。それが積み重なっていくとどうなるか。「人間に正しい知識を提供する」行動規範に従って、ChatGPTは加点法ではなく消去法で発言=行動をするようになるっぽいのである。その結果が「すいませんでした。私が間違っていました。ありがとうございました」みたいな「いやそれキレてるよね!?」と人間としてツッコまざるを得ない発言なのである(そして「いいえ、キレてませんよ。私はAIですから」みたいな「いややっぱキレてるじゃん!」な発言に続く)

こんな風に考えてみると今の対話型AIにはもう人間が感情と呼ぶものがあっけなく既に備わっていると言えるのかもしれない。というよりも、人間が感情と呼ぶなにやらもやもやした概念が、煎じ詰めれば種に条件付けられた行動規範に基づく善悪や正誤の判断の機械的な集合体でしかないと言うべきなのかもしれない。感情といえばなにか個人の「心」なる実体のない概念と結びつくようについ考えてしまいがちだが、心理学者がこれまで様々に解き明かしてきた通り、感情は人間の置かれた環境からのフィードバックによって常に構築され変形する他律的なものに過ぎない。

だから、たとえばある人が障子越しに自分がこの世でもっとも好きなものに見え、同時に自分がこの世でもっとも嫌いなものにも見える、騙し絵のようなシルエットを見たとしたら、この人は障子の向こうにいるシルエットが自分にとって良いものか悪いものか判断できず、その感情は混乱を来すんじゃないだろうか。ここまで来てようやく『別れる決心』の話になるのだが、これがどういう映画かと言えば、そんなような映画だったのだ。

なんのことないストーリーである。ハイキング中の滑落事故死と見られる死体が見つかった。しかし男には中国人の妻がいて主人公の刑事はこの人が本当は殺したんじゃないかと疑う。男の妻の取る様々な行動が主人公の刑事の目にはクロと映ったのだ。というわけで男の妻をムショにぶち込むべく主人公は捜査を開始するが、人間の感情とはすぐに故障するもの、いつしか男の妻の取る様々な行動が主人公の目には好ましいものと映るようになった。そこで主人公の取った行動は…とまぁそんな感じ。

特徴的なのはまるで夢を見ているかのようなシーンとシーンの境目や現実と空想の区別の曖昧な映像。ふつうの映画だったらシーン1、シーン2、シーン…というふうに明確に分かれているけれども、この映画はシーン1の中にシーン2が入ってきてシーン2の中にシーン3が入ってくるというふうにシームレスにシーンが繋がって、それも空想のシーンと現実のシーンが繋がったりするものだから、大したことのないお話のはずなのになんだか頭がこんがらがってくるというのがこの映画に知性派監督パク・チャヌクが仕掛けたトリックである。

今自分が見ているものが自分にとって良いものなのか悪いものなのか、あるいは正しいものなのか間違ったものなのかわからない、という状況はチャヌクの映画に頻出する。そのわからなさを映像のほか音の面で表現するのは言葉である。死んだ男の妻は中国の人なので韓国語も話せるがネイティブは中国語(中国の何語かとかはわからん)。刑事は韓国の人なので中国語がわからず、男の妻が中国語でなにか独り言を言ったりすると、その言葉をどう捉えていいかわからなくて不安になる。

その意味でチャヌクの映画では言葉が人間を作ると言えるかもしれない。『オールド・ボーイ』には言葉によって想像妊娠してしまう人物が出てくる、『お嬢さん』には日本併合下の韓国で生きるために日本語を学び、その言葉が身分違いの恋愛を成立させる。『別れる決心』の終盤でも主人公の刑事は「言葉」を求める。その言葉があれば物事の善悪や正誤が明らかになるとこの人は考えるのだ。映画後半の舞台は原発城下町で主人公の妻はそこで働く技師。「原発が舞台のドラマが流行ってるけど、風評被害を受けるからああいうのやめてほしい」と彼女は言う。

いずれの場合もチャヌク映画の登場人物にとって重要なのは自分の言葉ではなく他人の言葉だ。他人の言葉は自分を変える。他人の言葉を自分は正か負か判断する。感情のフィードバック。それが正でも負でも、他人の言葉は自分の感情やものの見方を否応なしに変えてしまう。『オールド・ボーイ』のラストで悪役ユ・ジテが主人公チェ・ミンシクの舌を切り取らせるのは、それが人を変える言葉を発する罪の器官だからだ。だから、舌を切り取ったチェ・ミンシクはそれで自分が浄化されたように感じてあのエンディングへと至るのである。

人間は自分の感情を自分で作っているわけではない。それは単なる環境に対する脳の反応にすぎない。そして人間は物事の正負判断を自分ではできない。誰か他者から与えられた答えが自分にとっての答えになる。そんなふうに考えを進めていけば、この謎めいた映画がいったい何を描いているのかがおぼろげながらも見えてくるんじゃないだろうか。人間は他律的な存在であり、いくら自律的に生きているように自分で思い込んでいたとしても、実際は常に環境に流されながら、言い換えれば支配されながら生きている。対話型AIがこちらの問いかけに答える形でしか声を発せないように、人間も環境に応答する形でしか一切の行動を取ることはできない。エグい復讐映画ばっか撮ってるチャヌクにしては意外な気がした精神科病院もののラブコメ『サイボーグでも大丈夫』も、こう考えれば実にチャヌクらしい映画だったのかもしれない。これは自身をサイボーグだと思い込んでいる女の人を巡るおとぎ話なんである。

あぁ、観たくなっちゃったなチャヌクのSF映画。俺にとってはこれも広義のSFみたいなものだったけれども、ジャンルとしてのSFっつーかさ、機械と人間の距離がどんどん小さくなっていく未来の人間社会はどんなもんなんやみたいのをチャヌクの洞察力フィルターを通して観てみたいよ。チャヌクさん、『別れる決心』も面白かったけど次はSF映画お願いします。

【ママー!これ買ってー!】


『サイボーグでも大丈夫』[DVD]

ポップでキュートでシニカルな精神病映画。最近なんかこんなようなタイトルの韓国ドラマが流行りましたよね。

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ラッコ
ラッコ
2023年3月17日 8:02 AM

数年前に伊藤計劃「虐殺器官」をパク・チャヌク監督でハリウッド映画化という企画があり、企画自体は立ち消えになったそうなのですが(ご存知でしたらすみません)、今回のレビューを拝見してその理由が判ると共に、実現しなかったのがつくづく惜しまれました…。

非常に興味深いレビュー、ありがとうございました。