《推定睡眠時間:不明分(時間感覚喪失により)》
デヴィッド・ボウイというポピュラーミュージック史上の巨人のドキュメンタリーを作るならその開幕曲の選択は映画の作り手にとって(ボウイの天才性を理解しているならば)非常に重要な問題のはずで、とりわけボウイの場合はこれこそがボウイの代名詞・代表曲といえるものがそれぞれ異なる作風でいくつもあるので、そのどれを選択するかで自ずと作品の方向性、ひいては作り手の着眼点も見えてくる。その意味でこの映画、だいぶ予想外。なんとデヴィッド・リンチやナイン・インチ・ネイルズに接近し『ツイン・ピークス』的猟奇世界を描いたボウイ屈指の異形作『アウトサイド』からの“ハロー・スペースボーイ”、しかもオリジナルではなくペット・ショップ・ボーイズMIXであった!
確かに“ハロー・スペースボーイ”PSB MIXはUKロックに精通した人とかクラブ音楽をやってる人には定番感もあるのかもしれないが、これはたった2時間ちょっとでボウイの生い立ちから逝去までをその華麗なる音楽遍歴や豊穣な言葉とともにプレイバックするドキュメンタリー映画である。ボウイ人気に火をつけた“スペイス・オディティ”から始めるのはチャレンジ精神がなさ過ぎるとしても、ジギーのペルソナを借りて“ロックンロールの自殺者”から始めてもいいし、“ライフ・オン・マーズ”や“チェンジズ”もボウイという特異な人物を端的に表す格好の開幕曲だろう、もちろん“ヒーローズ”でもいい、“サウンド・アンド・ヴィジョン”でもいい、“愛しき反抗”だって悪くないどころかむしろそれは定番チョイス、『アウトサイド』から一曲出すならやはり表題曲“アウトサイド”がボウイのスタンスを明確かつ浮遊感たっぷりに表していて良いかもしれず、あえて“ニュー・キラー・スター”や“ブリング・ミー・ディスコキング”を持ってくれば21世紀に入ってもその創造力は衰えなかったことが観客に強く伝わりボウイ=ジギーの公式を覆すことができるだろう、同じような理由になるが“ザ・スターズ”や“ザ・ネクスト・デイ”も面白いし、これまで様々な映画で使用されてきた“モダン・ラブ”もボウイ映画の開幕曲としては最高だ、じゃあ『スケアリー・モンスターズ』から“イッツ・ノー・ゲーム”やもうひとつの“ヒーローズ”とも言える“ティーンエイジ・ワイルドライフ”はどうか? “ジャンプ・ゼイ・セイ”はどうか? “タイム”は? “アブソリュート・ビギナーズ”は? “世界を売った男”は? “アッシェズ・トゥ・アッシェズ”は? “★”は?
そんなことを言っていたらキリがないのだが、この映画は“ハロー・スペースボーイ”PSB MIXで幕を開けるわけである。音楽監修かなにかでボウイの盟友トニー・ヴィスコンティが関わってる映画なのでせっかくボウイのドキュメンタリーを作るならばと一捻りあるチョイスになったのかもしれないが、その胆力はすごい。『アウトサイド』収録曲の“アイム・ディレンジド”が主題歌に採用されたリンチの『ロスト・ハイウェイ』に衝撃を受けて『アウトサイド』が初めて買ったCDとなった俺としてはこの選曲は単純に嬉しいし、“ハロー・スペースボーイ”PSB MIX遊び心溢れてて面白い曲だなとニコニコしてしまうのだが、しかし、俺がボウイのドキュメンタリー映画を仮に作るとすれば、いくら好きだとしてもそのチョイスはちょっとできないんじゃないだろうか。じゃあ何から始めるかと言われれば答えに窮するのだが…。
挑発的な選曲で幕を開けるこの映画は言うならばボウイの映像ライブ。ボウイの全キャリアを横断して選りすぐりの名曲を垂れ流しながらその背景としてはPVにもこだわりを見せていたボウイの名PVの数々、ライブ映像の数々が引用・コラージュされ、曲と曲の間をボウイの豊穣な言葉でつなぐ。ボウイって言葉の人なんですよね。それは歌詞とか歌唱だけじゃなくて、インタビューではその時々の関心事や思想を饒舌に話すし、80年代以降のことだと思うがライブでは曲間でかなり喋る。しかもあんまり面白くないジョークを交えて。ということでこれも見逃せない聞き逃せない、目にも耳にも休めるところがなく2時間超ずっとボウイ宇宙に浸りっぱなしってわけで映画館の暗闇で観ようものなら途中から時間感覚も方向感覚も喪失して気分はもうトム少佐だ。聞こえるかトム少佐、こちら管制塔。聞こえるか…聞こえるか…。
それにしてもこうしてボウイ宇宙を眺めると改めてその規格外の才能に驚かされる。世に偉大なロックスターというのはそれこそ星の数ほど存在するが、ボウイほど長期に渡って代表曲と呼べるものを、それもそれぞれ異なる作風や方向性で生み出し続けたロックスターも他にいないんじゃないだろうか。変化すること。移動すること。それによって何者でもない者であり続けること。何者でもない者としてアートを生み出し続けること。ボウイを永遠のB級といった風に評しまた愛したのはたしかTHE YELLOW MONKEYの吉井和哉じゃなかったかと思うが、言い得て妙とはまさにこのこと、ボウイは最後までホンモノにはならなかった。ホンモノとは例えばローリング・ストーンズとかエルヴィス・プレスリーだと俺は思っているが、そうはならなかった。いつでもどこでもB級であり、二流であり、プラスティックであり、マガイモノで主流から外れ、だからこそボウイは天才であり続けた。
インタビューの中でボウイが「それが今の僕の線だね」と言う場面があるが、ニーチェに傾倒していた読書家ボウイであるからこの線とはおそらくフランスの哲学者ドゥルーズが「逃走線」などと用いる線のこと。ドゥルーズの提唱するどこにも根ざさないことで自由にアートや言葉などを産出し続ける生き方をボウイは知ってか知らずか実践していた。それは最初から望んだことではなかったのかもしれないし、何も楽しいことばかりでもなかったのだと思うが、その成果はまことに途方もない。ちなみにこの映画の中で“ハロー・スペースボーイ”の他“ハーツ・フィルシー・レッスン”のPVも大きく取り上げられている『アウトサイド』はボウイがアルバムジャケットの絵を描き、これは猟奇殺人事件を追う電脳探偵の物語というコンセプト・アルバムだがそのストーリーも書き、PVでは若い頃からの趣味であるパントマイムを披露し…と八面六臂の大活躍で、逃走線をジグザグに走り続けた器官なきアーティスト・ボウイの魅力と思想が満載の名盤、なるほどこれが映画冒頭に置かれているのは単にカッコイイからとかではないわけだ(カッコイイからでもいいけど)
そうしたボウイのアーティストとしての特異性を考えればその言葉や音楽の並びによって表現されるこの映画のストーリー、すなわちボウイはずっと仮面を被ってきたがある時期から仮面の下の素顔をさらけ出せるようになった…というのはやや陳腐に思えるし、それならそれでボウイが仮面を脱ぐリハビリとして加入したティン・マシーンはもっとちゃんと取り上げるべきではとか思ったりもするが、まぁしかしそんなことは些細なこと、大スクリーンに広がるボウイ宇宙の前では無に等しい。
とにかく映画館で観ろ、浴びろ、としか言う言葉がないが、しかしあえて付け足すとすれば、誰も彼もが自分や自分たちの「領土」に固執して、そのために領土の外の人々が領土を侵す敵に見え、あるいはそれが侵略や攻撃の口実にさえなって、至る所さまざまなレベルで衝突が生じている昨今、性別の領土を越え、政治の領土を越え、ジャンルの領土を越え、住居と転々として物理的にも領土を超えてきたボウイの脱領土アート人生は、かつてないほどに強烈なメッセージ性を帯びる。“救世の機械”ではないが今の時代にはボウイが必要だ。しかし生きた人間としてはもうその姿を見ることはできないのだから、せめてボウイが残した言葉や音楽を通してボウイに触れたい。そのための映画として『デヴィッド・ボウイ ムーンエイジ・デイドリーム』は超申し分ないと思う。
【ママー!これ買ってー!】
正式タイトルは『1.OUTSIDE』で、シリーズものの序章として制作されたために頭に1がつく。実現しなかったのは売り上げというよりもクリエイティブ的な理由だろうが、実現してほしかった…。