見た目だけ凄そう映画『ザ・ホエール』感想文

《推定睡眠時間:0分》

振り返ってみればこの映画の監督ダーレン・アロノフスキーという人は主人公を精神的にか肉体的にか異形の人として設定しそこから始まる物語自体はあんま面白くないが主人公が異形なので面白く見える、という映画をよく撮っているなと思う。ヒーローものとか撮ったら案外合うんじゃないかこの人は。新しく『X-MEN』シリーズを始めたりするんなら監督に抜擢してはどうか。90年代後半のアメリカ映画界で頭角を現したクリストファー・ノーランもブライアン・シンガーもM・ナイト・シャマランもヒーロー映画を撮ってるんだし。シャマランはちょっと違うか。

ていうわけで今度のアロノフスキーは巨漢です。体重200キロオーバーのわがままボディ大学講師演じるはブレンダン・フレイザーがエロビデオでセルフケアしていたところ心臓に強い痛みが走ってし…死ぬ…死ぬがなにもエロビデオを見ながら死ななくても…とそのとき偶然にも訪問勧誘をやっている新宗教の人が家を訪れブレンダン・フレイザー九死に一生、しかしのちほどやってきた友人の看護師の簡易診察によれば今すぐ病院に行かなければあと数日で死ぬのだという。それでもなぜか頑なに病院行きを拒むフレイザーの最後の日々が始まった…。

いやに戯曲臭い映画だなと思ったら原作は戯曲でその作者がこの映画版の脚本も書いてるらしい。そりゃ戯曲臭くなるわ。主人公が太りすぎて家から出られない都合、次から次へと他の人物が部屋を訪れては主人公+αと対話というより口論を繰り広げる構成、それに台詞の外し方がいかにも戯曲でたとえばAという質問に対してBやCではなく遠く離れたSで答えるだとか、Aという言葉を発しながらそれと対応するA’の行動を取るのではなく正反対のBの行動を取る、みたいなね。そういうシナリオに書かれている部分も戯曲的だしカメラワークもカメラポジションを基本的には動かさないミディアムショット、つまり客席から舞台上の芝居を眺めるような映像が基調になっていて、これがまた戯曲だなー感に拍車を掛けるわけだ。

俺はそれをあんまり面白いとは思わなかった。嫌いというわけではないが舞台劇に少なくとも映画ほどの興味はないのでうーん舞台劇っぽいことをやりたいんなら舞台劇でやればいいんじゃない? とか身も蓋もないことを思ってしまう。意表を突く会話にしても意表を突く狙いがありありと透けて見えて逆に驚けず白ける、キャラクター造形も深みがなく単に対話のシチュエーションを作るためだけに場面に登場しているという観が否めない、そしてその戯曲的わざとらしさが、たとえばグリーナウェイの映画みたいに入れ子構造を作るために活用されていたりするならわかるが、この映画ではとくに意味のあるわざとらしさとは見えないので、なにやら真に迫るところのない空々しい映画と俺の目には映ってしまったのだ。しかしこれはこの映画というより、アロノフスキーのすべての映画に言えることかもしれない。

太りすぎて家から出られなくなったブレンダン・フレイザーが主人公なんて言うからもうちょっと面白いものが見られると思ったんだけどなー。だってそれぐらい太ってる人なんだから少なくとも家の外に出ることが物理的にも体力的にも不可能ではない平凡な人とは絶対に違う生活を送ってるわけじゃないですか。トイレどうやってるのとかあるよね。座るのもそれは便座は耐えられるのかっていうのがあるけど出した後にだよ、どれぐらいの量が出るのかというのも気になるところだが大を出した後に、拭ける? ちょっと待ってその前にケツの構造どうなってるそこまで太い人って。ほら、もうトイレひとつ取ってもこうなんだよ。そしたら生活のひとつひとつがもうそれこそ『白鯨』ばりのスペクタクルじゃないですか。あちなみに主人公は大学のオンライン講義でエッセイの書き方を教えてる人で『白鯨』はエッセイの題材として使われてます(しかし直接出てくるのは大学の生徒のエッセイではないのだが)

だからそこ見たかったのにスルーしちゃうんだよな、これは。そりゃいくつか主人公の太い生活っぷりを点描することはしますけど単なる状況説明の粋を出ず映像的な面白味は乏しいし、ディテールに関心を寄せないのでそこから人物のリアリティが立ち上がってくることもない。なんだかずいぶんもったいないじゃないですか。映画のメインはあくまでも主人公を白鯨の如し中心とする様々な人々の対話にあることはわかるけれども、その対話を面白く見せ迫真性を持たせるためにももう少し主人公の生活をしっかりと描写するべきだったんじゃないだろうか。そうしたキャラクターのリアリティの構築を全般的にあまりやっていない映画なので、善とはなにか罪とはなにか救済とはなんなりかとテツガク的なテーマを侃々諤々したところで、どうもそれが軽く感じられてしまうのだ。

『白鯨』のエイハブ船長はヤツは悪魔だなんだと言ってマッコウクジラのモビーディック打倒に執念を燃やしているが、マッコウクジラはマッコウクジラでしかないのでエイハブ船長のストーカー的執心など知らずただ普通に海で日常生活を送っているだけ、図体はでかいが中身は海の動物の一種でしかないわけでしたがってその打倒にもぶっちゃけ意味はない。モビーディックとエイハブ船長のこうした関係性がこの映画の中では主人公とその家を訪れる人々――新宗教の宣教師、友人の看護師、別れた妻との間の娘、別れた妻、ピザ屋の店員――の関係性を暗示するものとなっており、侃々諤々の中で「あ、こいつに変な期待をかけたり変な憎悪を抱いたりしてもしょうがないんだ、見た目は太いが中身は普通のオッサンなんだこいつ」とみんな気付いていくわけだが、もしかしたらそれはこの映画自体にも言えることなのかもしれない。見た目のインパクトは結構あるが、中身はわりあい普通の映画なんである。

ブレンダン・フレイザーのピザ爆食いシーンはいいもん見たな感あったけどさ。

【ママー!これ買ってー!】


『ルイ14世の死』[DVD]

なにもルイ14世は家から出られないほど太っていたわけではないがその最期の二時間を描いたこの映画ではもう動けずベッドで寝てるだけなので『ザ・ホエール』の主人公と同じようなものです。えらい王様も死ぬときはなんかそこらへんの寝たきり老人みたいに普通の感じで死ぬ。

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