有害な男らしさ映画『聖地には蜘蛛が巣を張る』感想文

《推定睡眠時間:0分》

なんだかノワール映画のような邦題は原題『HOLY SPIDER』にちょっと捻りを加えたものだがそれにしてもこの蜘蛛とは何かといえばこれはダブルミーニングでひとつはスパイダー・キラーの通称で呼ばれる街娼ばかりを狙った殺人鬼サイードを差し、もうひとつは舞台となるイランの聖地マシュハドの人々や殺人鬼サイードが語るように街娼を差す。蜘蛛呼ばわりとは何様かと思いながらでも(昆虫の)蜘蛛かっこいいしなぁとも思うそこそこ昆虫好きな俺は複雑であるが、それはさておき何か性のニオイを発する女の人を蜘蛛で喩えるというのは考えてみれば謎な、しかし古今東西に共通するイメージのようであった。

マーベル映画のタイトルになったことで検索汚染が甚だしいブラック・ウィドウ=黒後家蜘蛛などわかりやすい例。ブラック・ウィドウのメスは交尾後にオスを食ってしまうが、この習性と体色から「黒い未亡人」の名が付けられた…というのはなんだか昔の人は文学的だなぁと思わされるところ。ギリシア神話にはアラクネーという蜘蛛になった機織り女が出てくる。ここから英語ではクモ綱をアラクニダと呼ぶようになり、蜘蛛恐怖症はアラクノフォビアと呼ぶ。『蜘蛛女のキス』といえば映画にもなったアルゼンチンの刑務所小説。菊地秀行の同名シリーズをアニメ映画化した『妖獣都市』には主人公を誘惑する女の正体は蜘蛛の妖怪だった…というシーンがあった。

男の方を蜘蛛男と呼ぶことはないのにと書きかけてスパイダーマンがあったことに気付いてしまったので書き終える前に前言撤回してしまうが、ともかく蜘蛛の比喩には何かよからぬものというイメージがまとわりつくことが多く、それが大抵女の人に投影されているとするならば、これは薄らとした女性嫌悪もしくは恐怖の表れなのだろうと考えることができる。日本神話における蜘蛛といえば天皇への服従を拒んだ地方豪族の蔑称であり、のちに妖怪化された土蜘蛛。これはとくに性別を指定したものではないが(指定するまでもなく男として描かれる)穢らわしいもの、反逆的なものというイメージが与えられている。民話では蜘蛛版雪女といった趣の女郎蜘蛛(絡新婦)か。

『聖地には蜘蛛が巣を張る』に話を戻せばなるほど街娼は街中に点在しその網にかかった男を誘惑するので男どもから蜘蛛と呼ばれるわけだが、そこには街娼に対する蔑視や恐れも見て取れ、誰もそう明言することはないが聖地を穢すものという含意が蜘蛛呼ばわりにはある。イスラム法の中で売春がどのように解釈されているかはよくわからないが、信心深い信徒が死ねば永遠の処女である天女フーリーさまが群れを成して全裸で接待してくれるという都合の良すぎる男ファンタジーを教義に持つとはいえ、娼館ではなく街路で娼婦が商売をしているぐらいなのだから良いこととしてはやはり扱われていないのだろう。街娼は金だけではなく信仰もイスラム教徒の男から奪うのである。そのようにイスラム男社会の中で考えられているので、街娼は侮蔑されると同時に恐れられてもいるのだ。

侮蔑と恐怖という矛盾する感情は獲物を捕獲した殺人鬼サイードにまざまざと表れている。この殺人鬼は一方でサディスティックに獲物をいたぶりながら、他方では街娼の一挙手一投足におどおどと怯えて落ち着かない。その葛藤を出た出たツイッターでは単なる装備属性制限のある殴り棒でしかない有害な男らしさという概念! の、ツイッター用語としてのそれではなく本義によって把握することもできるだろう。イスラム男子たるもの的な規範に(蜘蛛の網のようにだ)雁字搦めにされたサイードは自分の男としての弱さを直視することができず、かといってイスラム男子規範を捨てることもまたできない。

イスラム男子たるもの家長として女房子供を引っ張っていくべし。しかし現実のサイードは気が弱く自分からグイグイ行くタイプでは全然ない。イスラム男子たるものジハードで栄誉ある死を遂げるべし。しかし現実のサイードはイラン・イラク戦争時の仲間たちのように戦場で死ぬことはできなかった。イスラム男子たるもの…えぇい、うるさいうるさい! 俺は本当は立派なイスラム男子なんだ! 見よ! その証拠に街娼を殺して聖地を浄化しているじゃないか! 見てくれ! ほら! どうか! どうか…ということでサイードは自分から新聞社に電話して死体遺棄現場を知らせたりしているのだった。

バカかと思うがそんなバカを生み出してしまうイラン社会の方が実は殺人鬼よりおそろしかったし冷酷だった、というのが映画の後半の展開であった。殺人鬼報道のためにマシュハドに派遣されてきた(しかしその真実は編集長に性行為を要求され拒んだことでの左遷であった)主人公の女新聞記者の警察よりも有能な働きっぷりにより殺人鬼サイード無事逮捕。ところがである。警察のお縄を頂戴してさぞや反省し自らの愚かな行いを悔いているであろうと思いきや、男だらけの法廷に出たら被害者を侮辱するようなその発言が聴衆にウケにウケ、裁判所の外ではサイードを解放しろのデモ隊が声を上げ、どうやら世間は自分に対してめちゃくちゃ同情的だと知ったサイードはこれこそが俺のジハード、俺こそは穢れた女どもからイスラム教徒を守る聖戦士だと増長してしまうのであった。

イスラム国家は大なり小なりそうだとしてもイラン社会の構造的な女性蔑視はやはり強烈なものがあるなぁと思わされるのはちょっと前になんかヒジャブつけてなかったとかで道徳警察に逮捕された女の人が死んだ事件があったじゃないですか。それでその死に抗議してイラン全土でヒジャブなんかクソ食らえ道徳警察こわくないデモっていうのが学生を中心にわーっと広がりましたよね。そしたら今度はイラン全土で女子学生を狙った毒ガス攻撃が頻発して、なにせ犯人が捕まっていないものだからその動機はまだわからないけれども、被害者数700人以上、被害を受けた学校は30校以上という規模から女子教育を標的にした宗教テロという見方が強い。

さもありなんと思いましたよ『聖地には蜘蛛が巣を張る』を観てて。サイードも犯行はめちゃくちゃ杜撰なのに男が権力を握る警察は娼婦殺しなんかまともに捜査しないから全然捕まらない。それって殺人そのものよりも怖いし絶望的でしょう、社会が殺人を推奨してるようなものなんだから。だからイランで毒ガステロ事件継続中の今この映画が公開されたっていうのは偶然とはいえすごい意義のあることだよね。実在の殺人事件を基にしたこの映画の時代設定は2000~2001年ですけど、今も同じ問題をイラン社会が抱えていることがわかる。

映画はある人物が足の指をもじもじと動かしているショットで幕を閉じる。そのもじもじに何を見出すかは人によって違うだろうが、俺は怯えなのだと思った。イラン社会はしかしその怯えを許さない、とまでは言わなくともあまり肯定的には見ない。その圧力はやがて第二第三のサイードを生むだろう…というか毒ガステロが女子教育を標的にしているとすれば現に生まれているのだろう。仮に犯人が男だとすればの話だが、サイードともどもちっとも男らしくない犯行だと思うのだが。

新聞記者を主人公にしているわりには事件のひとつの背景を成す経済格差や福祉の不足にはあまり深く切り込まなかったり、大衆やそれを煽動する宗教保守の偽善性の追求は中途半端に終わってしまったり、そのへん色々盛り込みすぎて消化不良を起こしている観もあるものの、主人公や殺人鬼のキャラクター描写は良いし殺人シーンもその後の死体処理シーンもサスペンスフル、体温を感じさせない冷酷な演出と展開は救いようがなくて実にシビれる。時期的にアルジェントの『ダークグラス』と娼婦殺しのネタ被りが発生しているが、いやぁ…アルジェント、お前これ観て勉強し直せ!

※それにしても街娼というのはやはり誰にどこに連れて行かれるかわからない危険な商売。美化するつもりはないのだが日本にあるような店舗型の風俗というのはセックスワーカーの安全面でもっと評価がされてもいいんじゃなかろうか。最近は街の「浄化」の名目で店舗型風俗が大幅に数を減らしているようだが。

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どこかの雑誌がこの映画をイラン版『タクシードライバー』と評したらしいが、そう思えば『タクシードライバー』も男らしさの呪縛と圧力によって壊れていく男の物語と見ることができるだろう。トラヴィスが殺しに行くの、なんかマッチョな感じの女衒だし。

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