活人画映画『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』感想文

《推定睡眠時間:0分》

ツイッターを見てたら動物虐待のシーンがあってツラかったみたいな感想が流れてきたからへーそんな感じなのかーと思って映画を観たらそんなシーン、ない。動物実験のシーンはあるが直接的な描写はなく説明もごく断片的なものに留まるのだったが(それも大してヒドいものではない)、それで思い出したのは『セブン』の試写のときに子連れだがお客が会場にいたプロデューサーだか監督のデヴィッド・フィンチャーにお前あんな残虐な映像を見せるんじゃないよと食ってかかったという話で、聞けばそのお客は箱の中の生首を見てショックを受けたのだとか。有名なシーンだから説明は省くが『セブン』に生首を直接映したショットは存在しない。しかしフィンチャーの巧みなサスペンス演出によって、その観客の目には見えないはずの生首がたしかに見えたのである。まぁウソかホントか知りませんがね。

そんなことを考えていたらこんな映画の感想を書く意味ってなんかあるのかな? とまで思えてきた。だって、映ってないものがスクリーンに見えるって人がいるくらいなんでしょ? それで、まぁそんなの見ても嫌な気分になるだけだから見てないけど、あれでしょ映画サイトのユーザーレビューとかだとどうせ☆五つが大乱発されてるんでしょ、ファンによって。そりゃいくらでも書くことはできるよ悪口は。四つぐらいの勢力やその物語を並行して進める構成の有機的結合の甘さ(単にバラバラに進むだけでシナジーがない)、軽口もギャグも盛り沢山だかわりと早い段階でチームの核であったアライグマのロケットが戦線離脱して危篤状態に陥ってしまうので笑えない、シリーズ完結編を謳ってるくせに大ボスが雑魚でバトルが盛り上がらないっていうかあんまりバトルしない、危機的状況の解決に伏線を生かすなどの工夫がまったくないのでこの状況をどうやって乗り切るんだろうという面白さが生まれない、『スキズマトリックス』みたいな有機体の星がせっかく出てくるのにその設定が展開に全然生かされておらず単に変な見た目という以上の意味を持たない、劇中たいへんな数の生き物が実は死ぬのだがその激甚悲劇には一切目を向けずもっぱらロケット個人(個アライ?)の悲劇をエモーショナルに盛り上げるモラルのイビツさ、なんだかんだ金髪碧眼の白人がいちばん尊いという謎の保守性、等々そんなものもういくらでも書ける。

でもね、そんなのこの映画を観る人は大抵少しも気にしないんだよ。俺はですねマーベル映画って疑似的な宗教だと思うんですよ。かつて宗教学者の島田裕巳はオウム真理教ディズニーランド論という論考というよりエッセイをサリン事件前に雑誌「宝島」に寄稿してその後めちゃくちゃ叩かれたりしたが、ここで島田が言わんとしていたこと、つまりオウムは現実のそれに変わる解釈フレーム=物語を提供する疑似宗教であり、信者はその解釈フレームをディズニーランドに入るみたいにあくまでも一時的な遊びとして受け入れている、という指摘は、オウムの出家宗教としての側面を完全に見逃していたためオウム論としては甚だいいかげんなものではあるが、「宗教的なもの」に対する現代人の基本的な態度としてはそう的を外したものでもない。

というのもマーベル映画のファンはMCUの世界に入ることを何よりも重視するじゃないですか。MCUの世界にずっぽり入って、MCUの世界で起こるすべての出来事を外部の論理ではなくもっぱらMCU内部の論理で解釈しようとする。映画を観る時にどんな人でも意識しようがしまいが良し悪しの基準っていうのが頭の中にありますよね。これがこうだったら良い映画、これがああだったら悪い映画、という感じで。でそれは普通の映画だったらその映画の内部の論理ではなく外部の論理で判断されるわけですよ。アクションシーンのカメラワークに工夫がなくて迫力がないとか。でもMCU映画を観るマーベルファンってそうじゃないんですよね。そのシーンがMCUという神話体系の中でどのような意味を持つかで良い悪いを判断する。

『アベンジャーズ』を観る時にマーベルファンって『アイアンマン』やら『キャプテン・アメリカ』やらそういう『アベンジャーズ』に繋がる映画を全部観るでしょ。観ないと良し悪しが判断できないって思ってる。それをファンが「予習」って一般的に呼んだりするのは少し興味深いですよね。体系的な学びというのは、大なり小なり必ず別の体系的な知識・観点を排斥するものなのですから。俺はこれはとても宗教的な態度だと思うんです。ある宗教パンフレットにウチの宗教に入ればそのうち空中浮遊できるようになりますと書いてあったとしよう。俺はその宗教をよく知らないので浮くわけないじゃんバカなんですかって言うかどうかはともかく思います。それは俺が一般常識的な科学の知識体系の中にあり、そこから空中浮遊という現象の真偽や良し悪しを判断しているから。

ところがその宗教の信者の人はそうじゃない。信者の人はそんな俺に対して十中八九これこれこういう理由で空中浮遊ができるのですと説明するかどうかはともかくしようと思えば説明できる。それはその信者の人が宗教の知識体系を学んでその中から空中浮遊という現象を捉えているからで、これが何かを信じるということの本質なわけです。ある知識体系を排除して別に知識体系の中に入る、という。だからよく非科学的な現象に対してこれは科学ではこう説明できますといってそれを信じる人を説得しようとする人がいますけど、あれはまったくではないかもしれないけれどもほとんど意味はないんですよね。その説明というのは科学の知識体系ではこう説明できますというだけのことで、信じる人は非科学的な別の知識体系で同じ現象を説明できるので、そう言われてもピンとこない。噛み砕いて言えば、日本の人が犬を見て「あ、犬だ」と言った時に近くにいたアメリカの人が「それは我々の国ではドッグと言います」とその人に言ってきたとしたら、日本の人は「だから何?」以上のことは思わないですよね。そうかこれはドッグなんだ、明日から犬と呼ぶのはやめようとかって風には普通は思わないですよ。まぁ普通は。

俺の知識体系ではこの映画っていうかこのシリーズは映画版『銀河ヒッチハイク・ガイド』のアメコミ版ぐらいにしか見えないけれども、マーベルファンにとっては超号泣最高&最高の高! なわけでしょ。途中映画ドラえもんの『アニマル惑星』みたいなシーンがあったからF先生だったら個々のシーンをこんな風にご都合主義で済ませたりはしないで偏執的なまでに理屈をちゃんと立てて伏線を張ったりするしだいいち150分もかけてダラダラやったりしないとか思ったけれども、映画ドラえもんとこの映画を比較して優劣を論じるっていう発想がまずないわけでしょマーベルファンは。MCU映画を観るマーベルファンが参照するのはMCU映画だけだし、宗教と同じでその目的は普段触れている知識体系とは異なる知識体系を吸収しそれを内面化することそのものにあるから、比較という概念が意味を成さない。重要なのは他のMCU作品とどう繋がっているか、繋がるかというその点だけ。

だから、もう、好きにやってくれって感じなんだよ。俺は他人の信仰は尊重すべきだと思っているし。宗教映画としてはよくできてたんじゃないですか。アイコニックな聖人がたくさんでてくるからおもわず仏壇に拝みたくなりますよ。ああごめんなさい聖人じゃなくて星人でしたね。でも聖人でもいいんじゃない? 今回はノアの箱舟の逸話をモチーフにしているわけだから。MCUというのは最新版の聖書の活人画なんでしょうな。まぁ、MCUみたいな安全なコンテンツで現代人の宗教欲を満たすことができるのなら、外野がそれを悪く言うことはできないだろう。もうじゅうぶん悪く言ってしまったが。

【ママー!これ買ってー!】


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本当に脚本家出身の監督の作かと思うほど散漫で平板な今回の『ガーギャラ』だったが元々ジェームズ・ガンは気の利いた脚本を書く人ではなくシーンごとのアイディアと勢いがすべてというところがあったのでそう考えればこれも納得、それはともかくとして『アニマル惑星』はたいへん気の利いた脚本と演出(ラストのニムゲの表情を見よ!)が堪能できる映画ドラえもんの人気作、オススメです。

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