《推定睡眠時間:0分》
・最初に書いておくべきことは、世の中には高級店に本当に高級なものを求めて行くのではなく、高級店に行く自分は高級だという気分を得るために高級店に行く人がたくさんいる。『TAR/ター』はそんな人たちを満足させるに違いない高級店のムードありありの映画だが、あるのはムードだけで中に入ってもホンモノの高級品が得られるわけではない。観客向けにわざと厳めしい雰囲気を出すよう全面改修された地方のお城みたいなものではないだろうか。この映画が難しく見えるとしたらわざと難しく見えるように作られているからであり、実際に難しいことを語っているわけではない。
・この映画を観て思ったことは色々あるのだが、筋道立てて書くには無駄な労力が必要になるので、以下箇条書きで書いていく。
・この映画は今年のアカデミー作品賞に『逆転のトライアングル』でノミネートしたリューベン・オストルンド監督のカンヌ映画祭パルムドール受賞作『ザ・スクエア 思いやりの領域』のパクリである。これは全体の印象からそう感じたというだけなので根拠は無い。本当かと思う人は『TAR』と『ザ・スクエア』を見比べて観ればいい。主人公の立ち位置、音の使い方、編集の呼吸、心象風景と現実の境の曖昧さ、ネット炎上を取り入れているところ、意識から排除されるものを扱う精神分析趣味、あらゆる点でよく似ているので、しっかり映画を観ることのできる人なら偶然の一致というには似すぎていると感じてくれることを俺は信じている。
・ちなみに劇中にはどんな音を選んでも所詮人真似であることに気付いてしまって作曲が進まないとケイト・ブランシェットが演じる主人公リディア・ターが悩みを打ち明ける場面がある。
・徹底してアメリカの映画である。ピューリタンの国であるアメリカというのは、技術への狂信ともいえる執着と信頼がとんでもない。ターは経済的には普通レベルかもしれないが文化的には貧しい(それもアメリカの普通だろう)家に生まれたアメリカ人であり、現在はベルリン・フィルで指揮者を務めている。ターがベルリン・フィルを目指した動機は、指揮者養成プログラムの場で緊張からか貧乏揺すりが止まらない生徒に問いかける形で間接的に説明される。ベルリン・フィルはヨーロッパのハイカルチャーを象徴するものであり、文化的に貧しい家に生まれたターにとってそれは憧れだった。その憧れにターは技術の習得で近づくことができると考えた。それはターがアメリカ人だからである。ヨーロッパのハイカルチャーは、技術によって形成されるものではなく、純粋に階級によって形成されるものである。したがってそのヒエラルキーの下や外に生まれた人間はいくら技術を磨いたところで、表面的にはその一員となることができても、結局はその真髄に触れることはできない。これが『TAR』という映画の前提となる認識である。
・徹底してアメリカの映画だというのは、これが政治についての映画だからでもある。展開に絡むところなのであまり詳しくは書かないが、ターはオーケストラの人事で誰を抜擢するか様々なレベルで判断を下し、そのことでター自身も判断を下される側になる。オーケストラの仕事はいつしか人事を巡る政治闘争と化す。ターはその技術信仰によってクラシック界の政治、それは要するに誰を抜擢して誰を抜擢しないかという判断に働く様々な方向からの様々な種類の圧力(たとえば、指揮者に女を選ぶか男を選ぶかということが政治なのだ)のことだが、こうした政治を打破できると信じていたものの、その極端な能力主義がオーケストラ内外に反発を生んで、逆に政治闘争を招いてしまうのである。
・この映画はアメリカ人の視点からヨーロッパのハイカルチャーとその排外主義≒伝統志向を批判しつつ、アメリカ人の技術信仰≒能力主義とアクティヴィズムも嘲笑する。
・ターは物語の開始時点ではリディア・ターを名乗っているが、本名はリンダ・ターという。ターはリンダという名の持つ女性的な響きを嫌った。自分は女だから評価されないというのと同じように、自分は女だから評価されているともターは考えたくない。純粋に自分は技術があるから評価されていると考えたい。たいていの人はそうだろう。俺もそうだ。しかしターの世界には常に「お前は女だ」という呪いの言葉が様々な形を取って侵入してくる。これは女性差別というよりはこの映画の中ではむしろ女性の側の「私は女性である」という自認やフェミニズムに関する発言の中に強く表れる。フロイトはヒトの心のこのようなメカニズムを抑圧されたものの回帰と呼ぶ。自分を女性だと思わないようにすればするほど、ターの目と耳にはターが「彼女」であることを暗示するものが入ってくるのである。
・この精神分析趣味もまた精神分析大国であるアメリカ的なものだが、それ以上に『ザ・スクエア』を思わせるところ。
・ラストの解釈について。どうとでも解釈できる作りなので答えはない。ターの再出発、ターの妄想、ターの現実、どれでも正解。俺はこの雰囲気作りのためだけにあえて答えを出さないような作りは安っぽいと思う。ターの現実と解釈する場合それまでの物語は妄想ということになる。実は妄想でした説はネットでウケるので、これから流行るんじゃないでしょうか。
・クラシックの映画なのにオーケストラの演奏の場面がほとんどないというところにこの映画の軽薄さを感じる。これがオーケストラの演奏だ、ターの指揮だといって演奏場面を作ればいいのである。しかしそれをしない。監督トッド・フィールドのその選択にはターの関心が演奏ではなくヨーロッパのハイカルチャーのトップに立つという政治的なものにあるため、ともっともらしい言い訳を付すこともできるだろうが、俺は監督の馬脚が現れるのを恐れたんじゃないかと思ってる。つまり、本当はクラシックとはどういうものか、この監督は全然知らないし、演奏や指揮の良し悪しもわからないのである。
・とくに序盤に顕著なホンモノ感を出すための無味乾燥なクラシック内輪話を聞きながら俺はそう思った。終盤言及されるのが『地獄の黙示録』というのも示唆的である。監督のコッポラも脚本のジョン・ミリアスもホンモノの戦場は知らなかったので(ミリアスはベトナム戦争に行きたかったが喘息のため身体検査で落ちて行けなかった)、戦場への憧れがあの一大戦争ファンタジーを作り上げることになったのである。
・監督のトッド・フィールドはきっと第二のポール・トーマス・アンダーソンのようにアメリカの映画業界から見られたいのだろう。
・スタッフロールはエンディングではなくアヴァンタイトルにある。エンドロールにはアヴァンタイトルには載らなかったキャストや使用楽曲だけが載るという変則型。先にスタッフロールが出るのは指揮者とオーケストラのヒエラルキーの逆転を暗示するためだろう。スター=指揮者がいてスタッフ=オーケストラがいるのではなく、その逆なのだということ。映画撮影でも、現場スタッフの中では監督がいちばん何もできない、監督が十人いても映画撮影はできないがスタッフが十人いれば監督不在でも映画は撮れるなんてことを言うらしい。
・ターを演じたケイト・ブランシェットの演技はすごいがアメリカ型の技術先行演技で、求められる型を完璧に演じているという以上のものは感じられない。これは監督の責任だろうと思う。
・ターのパワハラ疑惑について。直接的な描写はないがプラグラムでの生徒に対する当たりの強さや小学校での児童に対する「世間は私の言うことを信じるがあなたの言うことは信じない」の発言、また助手にメールの削除を指示したこと、マッサージ屋の嬢を選ぶという行為に対する激烈な拒絶反応からすれば、どのような形かは不明もその後のターにやましさを感じさせる程度のことは行っていた、と考えるのが妥当。ただしそれがどのようなパワハラであったのかはわからないし、民事訴訟になったのかも、そこでパワハラ認定されたのかもわからない。
・パワハラ的なことを行ってしまったかもしれないというターのやましさは、被害者が自分をつけ回しているという被害妄想の形で、また森の中にこだまする女の叫び声(しかしそれは鳥の鳴き声なのかもしれない)などの形でターの意識に回帰する。抑圧されたものの回帰である。
・これは余談も余談なのだが、俺はクラシックの指揮者の存在意義がこの映画を観るまでよくわかっていなかった。指揮者は自分の解釈でオーケストラに演奏をさせようとする。ということは、極端な話オーケストラが人間である必要はなく、たとえば演奏ロボットをオーケストラの代わりに置いて、事前に指揮者がそれぞれのパートを完璧にチューニングすれば、指揮台に立つことなく完璧な指揮が可能ということになる。ターもそのようにオーケストラと指揮者を捉えているのだが、このような在り方の指揮者を追求すれば指揮者は不要になってしまうということであり、矛盾である。ということはその捉え方は間違っている。俺はクラシックのコンサートには行かないのでよくわからないが、指揮者の存在意義とは思い通りにオーケストラを動かすということよりもむしろ、思い通りにオーケストラを動かせないということにあるのではないだろうか。
・俺も実際に観るまで勘違いしていたのだが、大相撲の取組は行司の「はっけよい、のこった」の声で始まるのではなく、土俵に上がった力士二人のあうんの呼吸で始まる。土俵の上の力士は敵対する存在なのではなく、協働して取組を行う同志なのである。このへん大相撲が格闘技を一線を画すところに思うが、同じことは指揮者とオーケストラの関係にも言えるのかもしれない。どちらが偉いのでもどちらが下なのでもなく、人間なのだからそこにズレが生じることが当然の指揮者とオーケストラが、あうんの呼吸で協働して見事な演奏を作り上げる。オーケストラ音楽の感動というのはそこに生じるのではないだろうかと思い、なるほどその場合むしろ不確定要素、本来なら邪魔でさえある要素として指揮者は必要になるのだろう、と思ったのだった。
・だからターは大相撲見ればよかったね。大相撲見て解説者にそのことを聞いてたら変なトラブルに巻き込まれず済んだだろう。
・いろいろ書いたが面白い映画だったので興味ある人はぜひどうぞ。
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『TAR』は楽しめはしたが『ザ・スクエア』のモンキーマンみたいな強烈な場面がなくなんか骨の髄に食い込んでくる感じはなかった。
こんにちは。
『キャロル』を撮った監督の作品かと思ったらトッド違いでした( ̄▽ ̄)
期待しすぎたせいか、少し肩透かしを食らったのが正直なところ。
ラストはゴージャスなオタクたちの祭典かと思っちゃいました…
いろんな人に間違われる笑
これ、指揮者の話なのに指揮するシーンがおそらく意図的にないんですよね。だからなんか盛り上がらない、肩透かし感があるんだと思います。最後ぐらい指揮棒振り回してほしかった!
あ、ラストのあれはゴージャスなオタクの祭典で間違ってないと思います!