《推定睡眠時間:0分》
なにやらすごいタイトルなのだがこれは地味な内容の洋画をジャンル映画っぽく売るためにつけられる飛ばし邦題などではなくれっきとした原題。『ガッデム阿修羅』である。そしてあらすじを薄く読むと無差別銃撃事件が云々と書いてある。それはもう血で血を洗うガッデムにして阿修羅な映画に違いない…上映館のシネマート新宿は年中物騒な映画ばかりやっているし近年物騒なホラー映画が激増している台湾の映画だし…と思ったのだが無差別乱射というから銃が一般流通していない(というかそれが普通の国だろう)台湾でどうやって手に入れたのかはわからないがきっとライフルでパパパッと撃ち殺しまくるのだろうというこちらの物騒な予想に反して乱射犯が持っているのはたった一丁の拳銃、その発砲音もパスッパスッとサイレンサーを装着しているのだとしてもやけに軽くなんだか迫力が感じられない。
映画は無差別乱射の被害者が撮った現場のスマホ映像から始まる(撮ってないでさっさと逃げろよ!)。そこから犯人、その友人、被害者、被害者の妻、被害者の住んでいたアパートの住民、そのアパートを取材する記者とさまざまに視点を切り替えながら事件の予兆と事件の余波を描くのだが、そのドラマは怒りよりも痛みの際立つ沈鬱なもので、劇伴もヒーリング・ミュージック的なピアノサウンドが決して声高に主張せず静かに映像に寄り添うってなもんでなんじゃいこれが『ガッデム阿修羅』かいと拍子抜けである。なかなか真面目な良い映画だがこれはさすがにタイトル負けだな。ミステリアスな展開もサスペンス演出が甘くて緊張感薄いし。以上映画始まってだいたい半分ぐらいまでの感想。
映画を観終わっての感想は台湾映画はやっぱりイイなぁというものであった。こういう物語を構想できるというのは豊かなこと、台湾の映画文化は成熟してる。こういう物語とはどういう物語かといえば、たとえばこれは今公開中の是枝裕和最新作『怪物』とシナリオ構成に少し似たところがあるのだが、『怪物』が最終的にひとつの答えというか一つの光を文字通り見出して観客を安堵させるのに対して、この『ガッデム阿修羅』は安堵させないということはないにしても、画面の中の光にちゃんと陰影をつけているのである。
今も名作として語り継がれるノベルゲー史上の名作『街』は俺が初めて物語で泣くということを経験した記念すべき一本なのだが、これの何が素晴らしいって人生こんなもんだよねをゲームのくせに、いやむしろゲームだからこそできた表現で描ききっているところであった。舞台は発売当時1990年代後半の渋谷。そこに住んでいたり働いていたりするお互いに面識のない境遇もまったく異なる8人+αの人生が交錯して予期せぬ方向へと動き出す。その中にはPTSDに悩まされ生きる意味を見失ったフランス外人部隊帰りの兵隊もいる。その中には彼氏に別れ話を告げられダイエットに狂奔する書店員もいる。その中には売れっ子ドラマ作家としての自分と純文学作家を志す自分の間で精神が引き裂かれつつある作家もいる。
ゲームのシステムはこの8人の物語を読み進めながら随所に現れる選択肢を選んで行動を変えていくというもので、一人の行動が変わればその行動は別の一人の影響を与える、そしてその変化はまた別の誰かの行動に影響を与え、たった一つの選択肢がバタフライ効果のように8人の人生に波紋を広げていく。ある人物の取るに足らない行動は誰か別の人物の行動を少しだけ変えるだろう。少しだけ変わり、少しだけ変わり、少しだけ変わり…そしてその果てにはまったく予期せぬ人物の死さえ待ち構えている。プレイヤーは8人の登場人物の行動を操作してバッドエンドを回避しつつ5日間の物語を進めていくが、さて苦労して辿り着いた5日目のラストは、といえば、残念ながら8人全員のハッピーエンドとはいかない。
同じ時刻、ある人物は数日間その人を悩ませていた難題を無事解決して束の間の幸福に浸っている。同じ時刻、別の人物は際限なく拡大するトラブルに対処しきれず途方に暮れている。同じ時刻、またある人物は思いがけず銃撃を受けて死に瀕し、更にまた別の人物は思いがけず殺人犯となってしまった。すべて同じ時刻、同じ渋谷で起きた出来事。ある人物の幸せは、因果の糸を辿れば必ずどこかで誰かの不幸に繋がっている。人生なんてそんなもの。誰もが平等にチャンスを与えられているわけではないし、誰もが平等に幸せになれることもない。そして一度は得られたと思われた幸せも永遠に続くわけじゃない。その諸行無常感に俺の涙腺は大決壊したのであったとこの時期に決壊と書くと不謹慎が出てしまうが俺のつつましい幸福の裏にもきっちり誰かの不幸ありを示すためにあえて書く(なぜ不謹慎かわからない人は国際ニュースを見よう!)
かなりダイナミックに脱線したが『ガッデム阿修羅』の初めて観る人はだいたいたぶん「そっち行くの!?」とびっくりするであろう中盤以降の展開はようするにこういうことを描いてる。だからラストがいくら光に溢れていても、その光はただまばゆく輝いて見えるわけではなくて、ああ、今この瞬間にも超弩級の不幸を食らっていたり、それほどスケールのでかいものではなくてもままならない世の中にうっすらとした絶望を感じている人というのが確かにいるのだなぁ…としみじみさせられる。光の中にはっきりと影が見える。そんな映画は世の中にそれほど多いもんじゃない。
ディテールの練り込みの甘さであったり編集や撮影が一本調子であったりオタクの風貌があまりにもオタクであったりと詰めの甘さを感じるところも多いがあオタクの風貌がオタク過ぎるのは別に詰めの甘さじゃないかむしろそこは高得点ポイントですなのだが、まー繰り返しになりますけれどもこういう構想、映画でちゃんと人間の人生を、その美しさも儚さも楽しさもつまらなさもすべてひっくるめて描こうとする気概にはグッとくる。狭苦しい街並みと表情筋の乏しい人々を観ていると日本のそれと被ってしまうところもあり、はーやるせない。人が生きるということのやるせなさをグッと奥歯で噛み締める、良い映画でしたね。
【ママー!これ買ってー!】
ある殺人事件がどうして起こったのかを群像劇のスタイルで描く点にしても実際に起こった事件に想を得ている点にしても『ガッデム阿修羅』は台湾映画史上の傑作『牯嶺街少年殺人事件』を彷彿とさせる。さすがにそれと比肩する作品とまでは全然思いませんが。