《推定睡眠時間:30分》
最近思うことがあるのは90年代~00年代に流行ったJホラーってとくにその小中千昭と並ぶブレインである高橋洋がそういう脚本を好んで書くからっていうのが大きいと思うんですけど怪異の正体が最後までわからなかったりするのが怖さになっていたりするじゃないですか。昔ながらの怪談話って何かその場所なり人なりに悪い過去があってその結果として現代にオバケが出てるみたいな感じで因果がはっきりしてる。正体不明のオバケの恐怖から逃れるために主人公がその場所の過去を探ってオバケの悲しい正体を明かしたらオバケも納得して成仏してくれた、なんてのは怪談話の基本形のひとつですよね。でもJホラーって『リング』がその基本形をひっくり返すオチだったみたいに過去を明かしても別にオバケは成仏してくれなかったりするし、そもそもオバケの出る原因が不明ということも多い。
ただ怖いだけで物語も教訓もなにもない、そのような怪談話をかつて平井呈一は純粋怪談と呼んだ。人間にとっての恐怖とはたぶん未知のものや理性とか五感では把握しきれない存在に対して生じる感情で、だから、その不明なものの正体がわかってしまえばもう怖くない。昔ながらの怪談話の過去を探ってオバケの正体を暴くとオバケが納得して成仏してくれるという構造は、そう思えば人間の恐怖の形をオバケに託して分析してみせたものと言えるし、恐怖を乗り越える方法を人々に伝える教育効果もそこにはあったんだろう。とすれば純粋怪談がおそろしいのはそれが聞く人や読む人に恐怖を乗り越える方法を教えないばかりか、乗り越えることなどできないと仄めかすからなのだ。その意味で純粋怪談はメタ怪談とも言える。怖いのはその物語に出てくるオバケや怪異そのものではなく、その物語が発する「お前は恐怖を克服できない」という呪いのメタメッセージなのである。
しかし、「お前は恐怖を克服できない」が怖いのって「お前は恐怖を克服できる」型の怪談がメインストリームにあって、その考えが常識と思われている中で常識をひっくり返して観客に冷や水を浴びせるからで、現代のように「お前は恐怖を克服できない」のメタメッセージが怪談話だけではなく至る所に溢れているような状況にあってはインパクトが薄いどころか、正直なところ「またそれ?」ぐらい思う。こうなると「お前は恐怖を克服できない」型の怪談は反転してしまう。どうせ恐怖が克服できないならそれはそれでまぁいいか、ってなもんで観客の方はといえばもうあんまり怪談を真面目に受け取らずにその恐怖をキャンプ的にわいわい楽しんで消費するのであった。
映画と関係ないような話がひじょうに長くなっているが掲示板発の怪談を元ネタにしているらしいこの『ヒッチハイク』を観て感じたのはそういうことで他はとくにない。まぁ強いて言えば、話の通じない人間の怖さをいささか強調しすぎていて逆に白ける、説明なしでシュールなことやれば怖いでしょ的な演出と脚本が幼稚。以上。強いて言えばって前置きしたからちょっとは良いこと書くのかなと思ったでしょう。残念! ふははお前らの思い通りになどなるものか! むなしい。
これで感想を終えるのもあんまりな気がしたので一応あらすじぐらいは書いておくか。山道で迷った二人の若い女がヒッチハイクで話の通じない異常一家を乗せたキャンピングカーを掴まえてヤバそうだから逃げようとしたら森の中の時空が歪んでいて逃げられなかった。まぁ、ガキの考える話だね。
【ママー!これ買ってー!】
こんなもんいくらなんでも子供騙しだろとばかりに途中からホラーではなくSFとしての面白さに舵を切る大胆構成が技ありなネット発都市伝説の映画化成功例。『ヒッチハイク』はこれを参考にしてるんじゃないだろうか(※と思ったら脚本家が同じだった)