スタンダップ映画『バービー』感想文

《推定睡眠時間:0分》

なんかいろいろ書こうと思ったんですけどバカバカしくなったのでやめようと思って、それなんでかってこれはハリウッド映画だし、それも最近のハリウッド映画でしかなかったから。ネットの映画感想とか見てると世の中素直な人が多くてびっくりするよな。ハリウッド映画ってほらなんらかの教訓的メッセージってどんな下らない映画でも絶対入ってるでしょ。それは単なるハリウッド脚本の様式で昔話における「おしまいおしまい」と同じ程度の意味しかないと俺は思ってますけど、案外これを真に受けてうんうんそうだな自分もそうしなきゃと啓発されたり、うんうんそうだな自分も頑張らなきゃと元気づけられたり、うぇ~んうぇ~んイイハナシダナーと感激して涙を流したりする。

関係ないけど前にレヴィ=ストロースが労働を論じた本のアマゾンレビュー読んだら「明日からも仕事を頑張ろうと思いました!」って書いてる人がいてズルゥッッと盛大にメンタルがずっこけたけれども、まぁ、自己啓発本とかビジネス本(という名の自己啓発本)とかっていうのはもうずっと本屋の売り上げ上位を占める本屋の食い扶持で、そんなもん読んで何になるの、そんな本ごときに頼ってるから君らいつまでもダメなんだよぐらい毒を吐きたくなりますけれども、とにかくそういう良く言えば素直な、悪く言えば他力本願で自分ではあまり物事を考えようとしない人っていうのはおそらく思ってるよりも世の中に多い。そしてそういう人はたかだかハリウッド映画ごときの薄っぺらいメッセージを本気にするのです。

あるいは本気にしていると自分を思い込ませているのかもしれないね。だってこんなメッセージはしょせんハリウッド映画商品の売りポイントの一つでしかないって現実を考えたら、なんだか2000円も払って休日の2時間捨てたのがバカみたいじゃないですか。俺はそのバカな行為をこそ求めて映画を観ているようなところがあるけれども、なんでもかんでも経済合理性を尺度に善悪判断を下すつまらない人がいつの時代も大衆というものですから、バカな行為と思えばわざわざ映画を観たがる人など一部のバカなオタクを除いて誰もいなくなってしまうことでしょう。

さて嫌味ったらしい前置きはこれぐらいにしてエッヘン俺の『バービー』論を諸君にお伝えしようと思う。耳はかっぽじり目はひっこぬいて受け取りたまえ。『バービー』という映画、それは…スタンダップ・コメディである。それ以外の何物でもない。それ以外のものを受け取ってしまう人は過剰にアホか過剰に頭がイイのだろう。過剰に優しいとかもあるかもしれない。スタンダップ・コメディは目に飛び込んできたものを基本的にすべてコメディアンの機知で茶化す文化である。だから「あいつは〇〇を茶化したからリベラルだ、いや右翼だ!」などと言っても完全に無意味である。目に飛び込んできたものをどれだけ上手くそして素早くイジれるか、これがスタンダップ・コメディの核なのであって、台本に従って起承転結の物語を語るコントや落語(落語も客いじりやアドリブはやりますが)と区別されるのはこの点だが、それは言い換えれば首尾一貫性はスタンダップ・コメディには求められないということである。そりゃもちろんコメディアンの性格とか思想傾向ぐらいは無意識に出てしまうでしょうが、それはネタの首尾一貫性とは別の話。

『バービー』では実に様々なものがイジられるのだが、そこに首尾一貫性があるわけではない。ただ物語に登場する要素の一つ一つをネタ化しているだけ。ネタの作りは単純である。ただ逆さにしてるだけ。たとえば、強面な男が実はめちゃくちゃ泣き虫のボブ・サップみたいな人だった、というようなギャグ。基本的にはこの発想で『バービー』のほとんどのネタは作られていて、それはギャグだけではなく社会のすべての分野で女の人が権力を握っている女の人の楽園バービーランド(そしてそれとは反対にどんな分野でも男が権力を持つリアルランド)という物語の舞台設定にも見て取ることができる。

裏返し、裏返し、裏返し…ただそれを最初から最後までずっと繰り返しているだけの映画なのだが、シーン単位で物事が裏返る映画は安易だとしても一般的には客を飽きさせない。俺の感覚ではそれはパルプということなのだが、作り方はパルプそのままに、題材だけ時事ネタを入れたりすると、これはスタンダップ・コメディになる。アメリカではスタンダップ・コメディアンの地位がやたら高いというが、時事ネタを入れればたとえパルプな映画でも何か立派なものであるかのように思えてきて(しまうらしく)、実際は大したことは何も言ってないにも関わらず、なにやら遠大な哲学に基づくちゃんとした作品ででもあるかのように観客を錯覚させてしまうのであった。

スタンダップ・コメディアンのイジリは常に表面的で一切の深みがないからネタとして通用するわけで、俺はこの映画はずっと笑いながら観ていたのだが、何を根拠にスタンダップ・コメディなどとと言われれば、笑えて楽しい映画というのがその根拠なんである。楽しかったでしょうみなさんも。ずっと笑ってたでしょうたぶんきっと。それは楽しくて笑える程度のことしか言っていないということなんです。笑いの機能を解読しようとした人は歴史上たくさんいるが、その中で俺が読んだごく一握りの人、ベルクソン、フロイト、山口昌男はいずれも超★ざっくばらんにまとめれば、笑いは本来的に保守的なものであるという見解に立っていた。いろいろ異論反論もあるだろうがたったひとつの事実を挙げればその傍証としては充分じゃないだろうか。笑いによって推進された革命や闘争は史上ひとつとして存在しないということである。おそらく、ではありますがね。

笑いにはガス抜きの効果がある。笑いには苦しい境遇にある人を救う効果がある。笑いには折れそうになった心を立ち直らせて、何かをやり遂げさせる力がある。だから笑いはとても大事なものだけれども、それは個人個人の人間の精神にとってということで、笑いが少なくとも直接社会の形を変えることはない。楽しくて笑える『バービー』が何かを変えることはないし、それはこの物語があーだこーだと迂回しつつ最終的には母娘の和解と出産の肯定という非常にパーソナルな問題に収斂することが如実に示している(これは『2001年宇宙の旅』をパロディにした「母」の拒絶で幕を開ける映画なんである)

もしこの映画を観てこれはフェミニズムの映画であるなどと得意げに言う人間がいるとしたらそんな人間は信用しないほうがいいだろう。母娘の和解はフェミニズムの周縁の問題系だとしても、フェミニズムが問題とするものではないし、「バービー人形が女の子に母親以外になれることを教えた!」とか噴飯物である。少しでもフェミニズムの歴史を学ぼうとする意志があれば、そんなものはバービーとUNOを作っただけの(※ほかにもたくさん作ってるとおもいます)一介のアメリカのオモチャメーカーの株価をつり上げるだけの歴史の捏造…とまでは言わずとも、思い上がりであることがすぐさまわかるだろう。ウィキペディアとかで。

しかし、それすら作っている側は考えていなかったかもしれない。ハリウッド映画産業の複雑な意志決定システムの中でたかだか一人の映画監督が自らの思想に従って首尾一貫した映画を作り上げることはほとんど不可能といっていいし、ましてやそれが若手に属する監督ならばなおさらである。俺の目に映った『バービー』は典型的なハリウッド映画であり、そこにあるのは複雑さではなく散漫さであり、作り手の思想ではなく興行収入を最大化するために可能な限りあらゆる層を喜ばせようとするハリウッド大資本の無節操である。そもそも中身がないものは解釈のしようがない。だからインターネットでは目下のところ、この映画の解釈を巡って大戦争が巻き起こっているようだ。無い袖は振れない。『バービー』に一貫した意味を求めることは、0で割るようなものじゃあないかと思う。

笑えて楽しくて観た後はすっきりする映画だが、これは単にそれだけの映画である。もちろんそれは悪いことでは全然ないので、そんなバカな行為を俺としてはぜひとも勧めたいのだが。

※こっちではネタバレありの感想は極力書きたくなかったのでわかるやつだけわかれやスタイルの感想になってますがnoteの方に『バービー』という映画がどんなストーリーでそこにどんな意味があるがネタバレ超ありで書いたのでネタバレだけ知りたーいという困った人はそちらもどうぞ→不毛なネット戦争に終止符を打つために俺が映画『バービー』のストーリーをネタバレ込みで解説してやるnote

【ママー!これ買ってー!】


フリー・ガイ [AmazonDVDコレクション]

同じような映画だがこっちはもう少し物語に一貫性があるし、だいたい立派なメッセージの込められた社会派の映画ですよと虚勢を張ってないからイイ。

Subscribe
Notify of
guest

2 Comments
Inline Feedbacks
View all comments
りゅぬぁってゃ
りゅぬぁってゃ
2023年8月22日 10:57 PM

サウスパーク、テコンダー朴みたいな「褒め殺しも駆使して全方面に喧嘩売ってる映画」のレビューがバズり始めましたね。皮肉が思いのほか通じなかった云々。

監督はどこまで狙ってたのか。それとも偶然の産物なのか?