ほんとにあった! 呪いのアニメ映画『オオカミの家』&『骨』感想文

《推定睡眠時間:0分》

アリ・アスターがこの監督コンビはシュヴァンクマイエルやクエイ兄弟の系譜に連なり云々みたいな感じで褒めていたのをなんらかの宣伝媒体で観たので見た目グロいがアートっぽい作りなのだろうと謎の超上から目線でほほうでは魅せてもらいましょうかと臨んだところ面白かったは面白かったが肩透かしでああもうどうやっても超上から目線になってしまい俺はここから降りられないのでいや俺は俺で孤独を感じて辛いんですよここはほら標高が高すぎて俺以外誰も住んでいないというですねビッグフッドのようなといいますかグリンチのようなと言いますかなのですがそれはともかくこれはもう体質性格個性と諦めて上から目線を維持したまま書きますけれどもアートっていうかホラーだよなっていうほらそれがまた上からなんだよ上から! なぁにが「アートっていうかホラーだよな」だよ! 何もわかってねぇくせにわかったふりしやがって! ホラーをバカにするな! いや別に俺はホラーをバカにしてるつもりなんかなくてですねていうかホラー大好きですしですねアートに比べてホラーは劣ると思ったことなんか一度たりとてありませんしですねですが作品の志すものとしてアートの路線とホラーの路線っていうのがたとえばあるじゃないですかはいあるんですそりゃポストモダン化が圧倒的に進行し創作物のジャンルを分けることなど無意味である以上に無理という風潮もある中で古風なこれはアートでこれはホラーでという分類にいったいいかなる利点がございましょうかというニヒリスティックな見解も大いにございますでしょうがわたくしはそうした風潮にはたとえ石頭だの時代遅れだの中卒の見栄っ張りだのと言われましても与するつもりはございません! アートはアートだしホラーはホラーですよ! その区別があるからこそ逆説的かもしれませけれども現在最新作にして遺作になる可能性もまぁまぁゼロではないカナダとカラダの異才デヴィッド・クローネンバーグの『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』のようなアートとホラーの相互浸透する作品がこれは重要なところですけれども緊張感を帯びて創出され得るわけです。いいですか、もしも人間が人前で全裸になることになんの抵抗も感じない種族であったならば水着というものは存在しないはずですし、おそらく下着というものも存在しないことであろう、エアコンなどにより体温調節がうまくできれば衣服そのものが存在しないかもしれず…あれなんかたとえがおかしい気がする! つまりだ! つまりね! 「これはアートでありホラーでもあります」と作ってる人が思ってる作品はなんかヌルいんですよ! 作ってる人は「これはアートだ!」と言い張っているけれどもめちゃくちゃコワイからどうしてもホラーに見えてしまう、あるいは逆に「これは単なるホラーです」と言っているけれどもその作品世界はアートとしか言いようがないというような作品もまたあり得るわけで、こうした作品は実に強烈な印象や、ややオカルティックに申せばアウラといったものを人に感じさせると思うのです。つまり、ジャンルとジャンルの容赦のないぶつかり合い、その対立関係から生まれるもの、そうした作品だけがよい作品というわけではないにしても、そうした作品はやはりよい作品だ、とこう言いたいわけです私は。シュヴァンクマイエルやクエイ兄弟は必ずしもホラーは志向していないかもしれないがその作品世界はやはりどうしても肌感覚で不気味、でありつつしかしユーモラスで美しく蠱惑的だ、そのようなところがあるわけです。やれ散々迂回した上で再度申し上げますけれどもこの『オオカミの家』そして同時上映『骨』、肩透かしだったというのはアート×ホラーの映画かと思ったらホラーとして作られたホラーだったので面白かったけれどもひとつの映画作品としての迫力はそこまで感じなかった、とそのようなことなのです。どうも段落なし長文チャレンジお疲れ様でした。ここからは普通に書こう。

なぜホラーとして作られたホラーかというと『オオカミの家』と『骨』はどちらも映画史の闇に埋もれていた作品を監督コンビのクリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャが発掘したというウソ設定が付いているがこれは装飾以上の意味を持たず映像を見ればどんな迂闊な人でもこれが二人の現代アーティストによって作られたものであることは一目瞭然、オバケ屋敷に入るときに「中に入ったら命の保証はありません…」みたいなウソ注意書きがあったりするかと思いますが言わばあれなんですよこの映画のウソ設定というのは。ウソだとわかった上であえてノってコワイ雰囲気を楽しむもの。

だって『骨』なんて1901年のサイレント映画をこの監督コンビが修復した作品という設定なのにサウンドトラックが音飛びしてるんだよ。サイレント映画のサウンドトラックなんて後年の上映時に付けられたものなんだからそんなの状態悪かったら新しく付け直せばいいわけじゃんってなるよ、野暮なことを言うと! だけどそれをしないっていうのは別に本当に1901年の映画だと観客に思ってもらいたいわけじゃなくて 、「これは1901年に制作され今まで知られていなかった作品です…」ってつまり『ほんとにあった! 呪いのビデオ』みたいなことなんだよな。あくまでも実録という体で、そういうウソを楽しんでください、怖がってください、そういう映画なんですよ『オオカミの家』も『骨』も。

『オオカミの家』の方は実在のカルト・コミューンが作った宣伝映画というフェイク設定でこちらも別段深い意味はない。単に怖そうなものとしてコロニア・ディグニダの名前を持ってきてるだけで、物語の内容は仮に他のカルト・コミューンやカルト教団に看板を掛け替えても、あるいはカルトでさえなく、主人公を住民たちから最大限信頼されている神父から性的虐待を受けているカトリック圏の田舎の子供などに置き換えてもそのまま成立してしまう。コロニア・ディグニダの看板は「怖いぞ~怖いぞ~」の口上しか意味することがない。その底の浅さはう~んを感じないと言ったらウソになってしまうってそれは。カルトの宣伝映画という体にも関わらずカルトから脱出した少女のカルトで経験した恐怖が様々な形を取って画面を埋め尽くすという形式の混乱には興を削がれてしまう。そんな設定いらなかったと思う。

どう説明したらいいのか迷ってしまう多彩な技法を駆使したストップモーション・アニメ表現自体は見事なものでこういうの素直にこわい~きもちわるい~ってなる。けれどもそれがオバケ屋敷感覚より先には行かないのはこういうホラー表現ってプレステ以降のサイコ&シュール路線のホラーゲームでさまざま試されてきたことで、それをCGではなく実物に移し替えてやっているという点に独自性はあるとしても、たとえば『サイレントヒル』シリーズ、『P.T.』、『ルールズ・オブ・ローズ』、『クーロンズゲート』、『LSD』、『ヘビーレイン』とか、最近の海外ゲームはまったくわからないのでたとえが古い和ゲーばかりになってしまうのがひじょうに情けないけれども、そのへんの既視感を乗り越える斬新な表現とは思えなかった(とくに『サイレントヒル3』はカルト教団ネタのホラーであり、壁を血のような染みが這うホラー演出や「世界の切り替わり」の演出などを見ても、どうも影響があるように見える)。

けれどもコワイのは確かだし夏に観るホラー映画としては上映時間も短くとてもよいと思う。まぁこういう映画は「なんかヤバイ映画があるらしいよ!」っていう噂に素直にノって友達とかと一緒に観に行ってヒエ~ってなるのがよいんでしょう。そうか、なんか俺がこの映画に変に当たりが強いのって、一人で観に行ってたからかもしれないね。うん、だっていつも一人で行くから映画は。映画って一人で観に行くものだからね。『ミンナのウタ』という公開中のホラー映画も俺は全然怖くなかったけど友達とか恋人と一緒に観に来てた風な他の観客の人たちは帰るときに怖かった~って盛り上がってたよ。ホラー映画ってね、どんなに怖い映画でも一人で映画館に観に行くと怖くないしそこまで面白くもないんだよ。コワイね、その現実が…。

【ママー!これ買ってー!】


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いつまでサイレントヒルサイレントヒル言ってるんだよとは俺も思うよ。俺だって思うんだよ!

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