《推定睡眠時間:20分》
こんな説明書きを見るのは初めてだったんじゃないかという気がするのだが映画本編が始まる前に画面にこの映画では複数の言語が話されるため各言語を色分けしていますという説明が出る。舞台はルーマニアのトランシルヴァニアにある小さな村なのだが今やグローバル社会だってんでそんな僻地も人種・民族の小さなるつぼ、ルーマニア語、ハンガリー語、フランス語、英語、ドイツ語、シンハラ語(スリランカ)と実に6カ国語の台詞がそこでは飛び交うのであった。
かように多言語多国籍な、しかも群像劇の映画であれば登場人物の関係性もまた多層的ってなわけで、一応の主人公はたぶんこの村出身の男なのだが、映画は村の外の精肉工場に出稼ぎ労働に出ていたこいつが横柄な工場長に「ロマどもときたら使えねぇな!」みたいなことを言われて激高、工場長をぶん殴ってダイナミック退職をキメたのちに村へと帰還するところから始まる。こいつはのちのち問題を起こすのだが、その前にこいつ自身が都市部と農村部の格差に由来する構造的搾取に苦しめられていた犠牲者だったというわけである。
さてその村では外国人労働者追放運動というのがにわかに持ち上がっていた。というのも村の近くにあって村の経済を支えている多国籍企業の大パン工場が上からの人件費削減圧力とEUからのなんとか補助金(詳細不明だが難民の雇用受け入れ補助金と思われる)獲得のために低賃金+サービス残業ありでもモリモリ働いてくれる貧しいスリランカ移民の集団雇用を決め、俺たちを雇わないでわけのわからん(※村人視点です)ガイジンを雇うとは何事かと村人たちの不満が噴出したのである。工場側の女性マネージャー的な人はなんとかスリランカ移民を低賃金でこき使いつつ村人に彼らを受け入れさせようとするのだが、両者の対立は平行線を辿り、やがて…「熊」が出るのであった。東北に熊大発生中の昨今、タイムリーですね。ってか今年熊の出る映画多いな。
ポスターを見るとお馴染みのラスト10分の長回しが衝撃を云々みたいな惹句が書かれているがその十数分の長回しで何が起こるかと言えばこれは村の住民達や関係者が一同に介しての一大ディスカッションコーナー、ということでここで例の6カ国語の混成台詞が実に生きる。みんなわいわいと暴動一歩手前の白熱感で自分の属する集団の事情や要求を多言語で話すのだが言うまでもなくそんな状況で相互理解など得られるわけもなくむしろ人々の分断がバベルの塔がぶっ倒れたかのように白日の下にさらけ出されて、これはちょっと笑っちゃったよな。
最初は市長的な人と神父が一応音頭を取って村人たちも順番にスリランカ移民雇用に関する意見を言っていくのだが、場の空気が白熱してくると次第に村人たちの口撃の矛先は神父や市長の事なかれ主義っぷりにも向かい、「神父だっておめー外国の高級車乗り回してるじゃねぇかおい!」などの村人ツッコミに一同爆笑、神父が「あれは社用車です」みたいなかなり苦しい言い訳をするあたりコントであった。それからフランス人のNGOね。パリに拠点を置くフランス人の動物保護NGOが村に熊の個体数調査に来てて熊の保護は大事ですみたいな話をするんですけど、「こっちにとったら熊なんか害獣だわ!」と村人たちにめちゃくちゃブーイング食らっててててこれも笑っちゃった。
このディスカッションシーンをどう捉えるかは人によってきっと大きく違うでしょうが、俺はなんだかエエ文化やなという気がして、むしろそれまで映画を覆っていた不穏な空気が一時的に晴れたようにすら感じられた。意見が対立するのはしょうがない。はっきり言ってこの村で起こっているヨーロッパ新時代の文化衝突は解決不可能なたぐいのものであり、ならばせめてガス抜き程度にしかならないとしても、当事者みんなで忖度なしの侃々諤々ディスカッションをした方がいい。実際、この映画の中ではいくつかの悲劇的な、また喜劇的でもあるような出来事が起こるが、実はそれはこの長回しのディスカッションとは関係なしに起こることなのである。その意味で日本の配給が推すラスト10分の長回しが云々の惹句はミスリードと言えるかもしれない。
ヨーロッパ新時代の多層的な文化衝突を素描すれば、それはまずマクロな観点ではグローバル企業による経済帝国主義が伝統的な地域文化を押しつぶしてしまうことであり、次いでEU域内の経済強国(フランスとかドイツ)による従属国(そのひとつがこのルーマニアである)へのルールの押しつけであり、国内においては都市部への人口と資本の集中で疲弊する地方という搾取的構造があり、そうした状況下で他人種や他民族に対する敵意という形で人々の不満が凝固していく、とこのような感じにひとまずはなるだろう。つまりこの映画で描かれる人種差別とは、決して悪い人がやることではないのだ。個人個人の力や意志ではどうにもならないような大きなもの、それはグローバル企業であり、EUであり、都市部であり、そうしたものが各々の利益追求のために一方的により弱い立場にある人間の生活様式の変更を促し、そうした中で共同体が破壊の危機に瀕したときに発動する、そこらへんの凡人の防衛反応的な感情や行動なのである。
人種差別が良くないというのは当然の前提として、この映画が反人種差別の素朴な啓蒙で満足するアメリカ映画のようなお気楽なものではないことは、村での反人種差別急先鋒が当たり前なのだが工場側の管理者、付け加えればおそらく村人たちよりも遥かに高い教育を受け高給を得ている女性管理者であることからわかる。スリランカ人を差別するなときわめて正しい意見を表明するその人はスリランカ人を労働搾取するためにそうしているのであり、これは一面では正義だとしても、別の面ではむしろその反対だろう。ではスリランカ人をこのパン工場は受け入れなければいいのだろうか? いやいや、おそらく難民と思われる彼らを追い返すこともまた正義ではない。真っ当な賃金を与えて働いて貰うのが一番正しいことに思える。しかしその場合には「なぜ前からここに住んでいて働き口がないから出稼ぎに出ている貧しい俺たちを雇用しないんだ!」という村人の抗議に村人たちの納得のいく答えを出すことはきわめて難しくなるだろう。仮に工場側が人道的配慮から移民も村人も平等に雇用してみたとして、そんな反逆的かつ会社の利益にならない行動を取れば、単に工場長の首がすげ替えられるだけだ。
いやはや、なんというか、皮肉な映画ですな。これはもうどうしようもないね。村人たちにもパン工場にも解決しようがない。ヨーロッパ新時代、経済強国の都市部のホワイトカラーなどであればいざ知らず、弱小国の貧村となればもはや外から降りかかる様々な変化の波を自分たちではどうにもできない。多民族共存や女性活躍といったリベラル的な理念が利益追求と搾取の隠れ蓑ないしエクスキューズとして利用される可能性を冷徹に提示しつつ、どうにもできない状況でどうにかしようと無駄な努力する人々を一歩引いたカメラで淡々と捉えるのだから、この映画はずいぶん意地悪な冷笑風刺喜劇である。俺はここから渋谷実の風刺映画群を連想したのだが、でも、渋谷映画に比べると、こちら『ヨーロッパ新世紀』はまだ少しだけ希望というか、これはもうどうしようもないわという諦めが、苦々しくもほんのりユーモラスな着地点を作っていたように思う。それがつまり、「熊」なのである(俺にはそう見えたというだけだが)
【ママー!これ買ってー!】
クマ大図鑑 体のひみつから人とのかかわりまで (楽しい調べ学習シリーズ) 単行本
混迷の時代、やはり必要なのは物事がどのような構造になっているかと把握することなのかもしれません。熊もまた然り。