《推定睡眠時間:15分》
知らずにチケットを取ったのだが俺がこの映画を観た回には映画評論家の森直人と作家の岩井志麻子の上映後トークショーがついてて確かに田舎生活の厭さの詰まった映画であるからかつて『悪魔のいけにえ』を引き合いに出し「岡山は日本のテキサス」と語った志麻子先生はトークゲストに適任という気もするのだがただこれ場所が俺判定によれば渋谷で一番意識の高い映画館ル・シネマ渋谷宮下である。
以前は東京有数の高級住宅地・松濤から徒歩一分のBunkamuraに居を構え現在はBunkamuraの改装工事に伴い渋谷TOEI跡地で営業中のル・シネマは上映作品もヨーロッパのアート映画や社会派映画が中心で意識が高いが内装もむせかえるほどの高級感でダブルに意識が高く、森直人さんはともかく志麻子先生は失礼ながらちょっとこの場には眩しすぎるギラギラ感で、服もなんかヒョウ柄のファーみたいなマフィアの着てそうなやつですごいかったのだが、話すことも映画とは無関係の芸能人殺人事件とそれによって生じた被害者の妻と愛人のマウント合戦とか河崎実の新作がどうだみたいな実話ナックルズのテイストであり、最後は末期ガンで余命幾ばくもないと言われている名物映画宣伝プロデューサー・叶井俊太郎(※現在公開中の『恐解釈 花咲か爺さん』は叶井が共同プロデューサーを務めた遺作になるかもしれない映画です)が同僚の若い女の人を俺の最後の女にならないかと口説いたという下世話な業界話を始めたところで劇場スタッフから「先生そろそろ、そのへんで…」とストップがかかるという衝撃的なオチであった。
おもしろかったので映画そっちのけでその話から書いてしまったが、志麻子先生の黒いトークを聞きながらそういう見方もあるかーと唸らされたところがあって、それは映画の後半にあるちょっとした台詞の解釈なのだが、森直人さんの言によれば監督としてはそれを善意もしくは諍いの調停を意味する台詞として入れたらしい。ところが志麻子先生の目から見ればそれはマウンティングであり、相手に罪の意識を植え付けて自分が優位に立っていることを見せつける、ある種のマインドコントロール(とまでは言っていなかったが)のような効果を持つ台詞だというのである。
台詞の詳細についてはネタバレ回避のために書かずにおくが、その解釈が俺にとって非常に面白かったのは、これはフランスからスペインの辺鄙な村に移住してきたインテリのフランス人夫婦とその村から出たことのないと思われる地元の粗野なスペイン人兄弟の間に確執が生じて、その確執がやがて暴力沙汰にまで発展してしまうというお話なのだが、その邦題が『理想郷』。俺にはどうもそこに都会人の田舎者に対するナチュラルな見下しがあるように感じられたんである。日本での惹句は「そこは地獄か、理想郷か」といったものだが、邦題と共にこれは都会人が田舎を外から眺めた時に出てくる発想だろう。田舎にずっと住んでる人にとって田舎というのは単に自分が生活を営む場所であり、不便な点も厭な点も多々あるとしても、「地獄か、理想郷か」などという極端な問い立ては出てこないように思うのだ。
こうした都会人目線の邦題や宣伝方法が取られるのはこの映画がフランス人夫妻を主人公とする一種の田舎ホラーであるためで、村のコミュニティには加わらず自分の家に引きこもって先進的な農業を実践しているこの夫婦から見れば、例の無学無教養無神経な田舎兄弟など何を考えているかわからず気を抜けば襲いかかってきそうな猛獣と見える。演出もその視点に合わせてあるのでこの兄弟をカメラはさも恐ろしげに切り取るのであるが、さて、本当にこの兄弟は猛獣なんであろうか。俺は違うと思った。確かに超インテリ都会人の俺などはだいたい酒場で人の悪口言ってるこの猛獣兄弟(弟は田吾作版のジェイソン・ステイサムみたいな顔してる)と楽しく話すことなどできそうにないが、超インテリ都会人の俺が話を合わせられないからといってその相手が猛獣と考えるのは傲慢というものだろう。冷静に考えれば猛獣兄弟はただ田舎で酪農とかやって生活してる単なる貧乏田舎人である。
フランス人夫婦と猛獣兄弟の確執はフランス人夫婦の夫(ドゥニ・メノーシュが厭なヤツ感全開で好演)の露骨な田舎者見下し態度に端を発するものだった。妻(『シャーク・ド・フランス』などのハードボイルド役者マリナ・フォイスがこちらも好演)は夫と違ってそこまで田舎者に敵愾心は見せないが、かといってコミュニティに馴染む気もなく、その言動の端々には田舎者蔑視が見え隠れする。志麻子先生がマウンティングと捉えた台詞はこの妻が放つのだが、その指摘で気付かされたのがこの映画が最初から最後までフランス人夫妻が物事の良し悪しを判断する映画だったということだった。猛獣兄弟をはじめ田舎者どもには弁明の機会すら与えられず、それが何を考えているかわからない不気味さを生んでいるのだが、その不気味さは(言うまでもないが)田舎者生来のものではなく田舎者を理解不能な猛獣として捉える都会人の差別的な視座によって、意図的に作られたものなのだ。
フランス人移住者を主人公とするこの映画にあってはその地に最初から住んでいたはずの貧乏スペイン田舎者の方こそが部外者であり、物事の道理を弁えない田舎者どもに脅かされるのも、逆に慈悲を与えてやるのもフランス人移住者である。スペインの田舎者どもはフランス人移住者に何も与えず、警察はフランス人移住者の指示と示唆なくしては何もできない。田舎者どもは自分では何もできず何も考えない無能人の集まりなのである。それはまぁ半分ぐらいは当たっているかもしれないが、そうだとしても、そのように見ればずいぶんとこれは差別的な映画ではないだろうか。俺にはこの映画の視座がエドワード・サイードの分析したヨーロッパのオリエンタリズム、とは要するにオリエント世界をヨーロッパ(そして現在はアメリカも)よりも劣った存在とした上でそれを一方的に分析し当事者を無視して「理解」しようとする態度のことだが、それとピッタリ重なるように思えてならないのである。
フランス人移住者の立場に立てば例の台詞はきっと勇気と叡智あるフランス人による感動的な和解の台詞と映るだろう。でも言われた側はどうだろうか。この映画にはそれを示すシーンは含まれてはいなかった。彼ら彼女らには自分の考えを述べる自由さえこの映画の中では与えられていないのだ。劇中のフランス人移住者だけではなく映画の作り手もまたフランス人移住者と同様に、スペインの田舎者どもを理解する気はない。同情する気も分断を埋める気もない。あるのは田舎者どもに対する嫌悪感だけである、とまでは断言することはできないかもしれないが…。
この映画は東京国際映画祭でたいへん高く評価されたそうである。田舎ホラーないしサスペンスとして面白い映画であることは確かだが、もしもこの映画を今の世界の分断を描いた優れた映画だと感じる映画批評家などがいるのなら、その人は少しだけでも田舎者の立場を想像してからもう一度この映画のことを考えてみた方がいいんじゃないだろうか。もしかするとこの映画が世界の分断を捉えたのではなく、この映画自体が世界の分断を生み出しているのかもしれないのだから。
【ママー!これ買ってー!】
見た目がキモくてイモかったので何もしてないのにアメリカの田舎によくいる殺人鬼と勘違いされてしまった二人の男(と勝手に自滅していく都会の若者たち)を描いたスプラッター・コメディの快作。わははと笑えますが都会人の無邪気な田舎差別に背筋が寒くなったりもする実に教育的な映画です。