フェミニズムは何を求めるか映画『ミステリと言う勿れ』感想文

《推定睡眠時間:0分》

映画サイトを見たら封切り日が今年の9月15日ということで既に公開二ヶ月近く経つのだが渋谷のTOHOシネマズに観に行ったら若者客でほぼ満席という大盛況、しかし印象に残ったのはそれよりも上映開始後にチケットを取ったのにポイントでの無料鑑賞ができたことだった。何年か前の会員制度改変でTOHOシネマズは6本観れば1本無料という会員特典に座席上限を設け、詳細は公表されていないから不明だが各上映回ごとに無料鑑賞ができるのはまぁ数人から多くて十人程度じゃないかと思われるのだが、その場合数百人とか客が入る回でポイント使用の無料鑑賞をすることは難しい、はず。でもこの映画では300人ぐらい渋谷のモノワカが入っている回で無料で席が取れたのである。

これが何を意味するか考えてみたのだが、おそらく映画館に普段は行かない層が観客の大多数だったということじゃないだろうか。普段から映画館に行かないならポイントも貯まらないので無料鑑賞もできない…ってそんな当たり前のことを書いてもしょうがないのだが、なんかそれがね、客層の若さと併せて興味深いところだったよね。アンケートとか取ると日本に住む7割ぐらいの人が映画館は1年に1回行く程度みたいな結果が出たりするじゃないですか最近は(?)。ということは映画館に行かない人の方がもう圧倒的に多数派なわけですよね。

それで『ミステリと言う勿れ』は俺が観た回に限って言えば普段あんま映画館に行かないモノワカたちが押し寄せてたっぽいので、これは日本の圧倒的多数派の人たちが映画館で観るものとして選んでる映画ということになるじゃないですか。『ゴジラ-1.0』でも『マーベルズ』でもないんだと。映画ファンとかはそういう作品ばかりを話題にしますけど、日本の人の圧倒的多数が興味を持つのはそっちじゃなくて『ミステリと言う勿れ』なんだと。

で映画ファンはさ、ツイッターとかでよく「心情をいちいち台詞で説明するな!」みたいなこと愚痴るんですよ邦画のメジャー映画とか観て。これ『ミステリと言う勿れ』、広島美術館から一人で出てきた主人公の菅田将暉がしょっぱなからカメラに向かって「あー来てよかったなー。でもモネとかはもっと大人にならないと良さがわからないかなー」とか独り言で思ってることを言ってたね。まぁマニアの常識は世間の非常識と中国故事にもあります。そういう演出・シナリオが良いとか悪いとかじゃなくて、映画館に普段は行かない日本の人の圧倒的多数が親しんでいるのはそれなんですよ現実に。そういうことをさ、オタクはそういう…らああああああああ! 現実がつらあああああああああい!!!!!!!

はい映画の感想でーす。次々と事件が起こって2時間飽きないのでよかった。でも推理とか犯人の動機っていうか心理には相当無茶があったのでミステリとしてどうなのかとも思った。でも『ミステリと言う勿れ』だからな。ミステリだと思って観るこっちが悪い可能性もある。『ミステリと言う勿れ』っつってんだから。じゃあどう言えばいいんだよ犯罪ドラマ? 菅田将暉が「呪いの人形です!『サスペリア2』(ママ)みたいな!」って台詞言ってたからミステリじゃなくてジャッロですということ? それにしてはジャッロに必須のエロもグロも全然ないじゃないか! そういう白々しいオタクの嫌味はやめろ。

いや真面目に言うとね、本当にミステリとしては穴だらけでさ、とにかくもう各所でゴリ押し頻発、たとえばですね警察は自殺として処理した人物が死ぬ前に酒を飲んでいたがその人は下戸で生前酒は飲まなかったことからある別の人物が「酒を飲まない人が死ぬ前に限って酒を飲むのはおかしい! これは殺人だ!」って指摘するとですね犯人がそれ認めるんだよ。いやいや…あるだろ酒を飲めない人が自殺する前に限って酒を飲むことは。むしろ逆に全然あるだろそれは、酒が飲めないからこそというか。こんなの推理でもなんでもなくてお前の偏見じゃないですか。でもそれが推理として通っちゃうガバガバな世界なんだよなここは。

そういうのはもう本当にたくさんあるよ。ネタバレと非ネタバレのボーダーラインを爆弾処理班の手つきで慎重に探りながら更に例を挙げればさ、なんか、燃え死んだ人物のポケットから溶けてなんだかわからないプラスチック片が見つかったと警察の人が言うんだわ。で、その正体を警察の人は閃くわけ。「USBメモリーのフタだ!」…何を言ってるのかと思ったよな。あれよフタのついてないUSBメモリーが別のどこかで見つかったとかなら筋は通るじゃないですか。でもこの台詞が出てくる時点ではフタのないUSBメモリーの存在を登場人物は誰も知らなくて、逆にこの警察の台詞から「フタのないUSBメモリーがどこかに隠されているはずだ!」って推理するの。

二重に意味がわかんないよね。だってUSBメモリーのプラ部分なんてもう一個一個製品ごとに全部めちゃくちゃ違うんだから溶けたプラ片を見てこれはUSBメモリーのフタに違いないなんて普通思えないじゃん。でしかもその中身が凄くてテキストファイル一つなんだよ。いや、USBメモリーに入れないでよくないその容量? ってかUSBメモリーに入ってるとしたら同じファイルがパソコンの方にも入ってると考えるのは当たり前なのに、なんでここに出てくる人は誰もパソコンの方を調べたり復元したりを試みないでUSBメモリーを探そうとするわけ?

みたいな。そういうのがもう、満載。いや~大ネタの方もなかなかあり得なかったな~。実は〇〇は△△をするための偽装でしたみたいなことなんですけれども普通そういうのってさ犯罪性があって目立つ△△を犯罪性がなくて目立たない〇〇に偽装するじゃないですか、でもこれは違うんだよ犯罪性のある△△をより犯罪度が高くて目立つ〇〇に偽装する…ってそれ偽装になってないじゃん意味ないよ! 根本がこれなのだから他の部分は推して知るべし、犯行に使われた道具がそこらへんのゴミ箱に普通に捨ててあるのを菅田将暉が発見して名探偵感を出したりしているがそれそいつじゃなくてもできるだろ。

でも面白かったのはさ、これって急に(本当に急に)菅田将暉が女はこうするのが幸せだというのはあなたたち男の思い込みじゃないですかみたいな説教を始めたりする取って付けたようなフェミニズム要素のある映画ですけど、犬神家的な呪いの一族の秘密を暴くために菅田将暉を雇ったその家の中坊くらいの娘っていうのが父親を事故で亡くしてて、それで死んだ父親のことばかり考えて気が狂わんばかりになってる。父親の在りし日の回想シーンもふんだんに出てくる。だけどまだ生きてて一緒に住んでる母親の方はこの娘ぜんぜん相手にしないの。

嫌いとかそういうのじゃなくてただ眼中に入らない感じで、言及もしないければ会話もしない、もう透明人間も同然で、この母親ポジション的には事件の謎を解くかなりの重要人物と思われるのにめちゃくちゃ影が薄いんですよ。画面にも映らないし物語にも絡まない。この父親はなにかしら一族の秘密を握っていたらしいと示唆されるにも関わらずだよ? これ明らかに不自然ですよね? それで娘がずっと父親の話ばっかしてるっていう…。

それで、ああやっぱそうなんだって俺はなんか腑に落ちたんですよ。最近ずっとフェミニズム本の古典『第二の性』を寝る前に読んでるんですけど、その中に女子にとっての父親と母親はどんな存在かということをエッセイ的に記したくだりがあって、それが父親は娘を外の世界に出してくれる善人としてほとんど全肯定されてるのに母親は娘を自分と同じように家庭に閉じ込めようとする嫉妬深い鬼みたいな感じでずいぶん恨みがましく軽蔑的に書かれてるんですよ。外野の偏見で言えばなんか逆っぽい感じするじゃん。フェミニズムの人(※ボーヴォワール)なら同じ女だからという理由で母親に好意を持ってて父親の方は男だから本質的に違うものみたいな感じっぽい気するでしょ。いや、みなさんはどうか知りませんが俺はそう思ってた。でも実際は逆。

それで日本のフェミニスト著名人の田嶋陽子がそういえば母親との不仲を語ってたなとか思い出して、考えてみればジュリー・テイモアが監督したアメリカの有名なラディカル・フェミニスト、グロリア・スタイネムの伝記映画『グロリアス』でもグロリアの幼き日々を描く第一章は父親とのたのしい思い出に彩られている一方で母親はちゃんといるのにほとんど顔を出さなかったし、元祖SFホラー小説『フランケンシュタイン』が誕生するまでを自由な解釈で描いた『メアリーの総て』という映画(これも女性監督)も主人公はメアリー・シェリーなのに、その父親は頻繁に登場しても母親の方はまったくと言っていいほど出てこない。メアリー・シェリーが母親と接するシーンはもしかして1シーンもなかったんじゃないだろうか。

これにちょっと驚くのはシェリーの母親ってフェミニズムの第一人者メアリ・ウルストンクラフトなんですよ。それでこの映画の内容っていうのはフランケンシュタインの怪物には悪い夫のせいで苦しみ家庭に閉じ込められたメアリー・シェリーの境遇が託されていた(というこの監督の解釈)っていうフェミニズム的なものなのに、親との関係は父親とのそれしか描かれない。しかも劇中のメアリー・シェリーは父親を困った人間だとは思っているようだが嫌ってはいない。もう一本挙げれば、社会主義活動家エリノア・マルクスを描いた伝記映画『ミス・マルクス』も父カール・マルクスは出てきても母親はまるで物語に顔を出さない。思い出した韓国フェミニズムの火付け役小説の映画版『82年生まれ、キム・ジヨン』でも主人公は父親のことは恨んでないのに母親のことはなぜ自分を男の兄弟よりぞんざいに扱ったのかと恨んでた。

こんな風に、フェミニズムの世界観の中で母親は概して非友好的なものと描かれる一方で、父親に関してはほぼ無条件的に友好的というか、好意的に描かれる。そして『メアリーの総て』や『ミス・マルクス』がそうであったように、好ましい父親と唾棄すべき夫がセットで登場することも多い。そのように考えた時に、マルクス主義フェミニズムとかポストモダン・フェミニズムみたいな思想としてのフェミニズムは違うのだが、思想とか論理よりも感情や感覚に基づいて行動し発言するアクティヴィズム的なフェミニズムというのは、どうも男のあるべき姿とイコールで結びつけられた理想的な父親像を持っていて、その庇護から外れたことに対する不平不満(母親は間接的にであれ父親と娘の間に立ちはだかる存在だろう)が社会とかバカな男(理想的な父親とは似ても似つかない)への抗議として表れているんじゃないかとか、だからこういう人たちは大きな政府を前提とした弱者の保護を強く訴えたり人間はみんな弱者なんだみたいなスローガンを掲げたりすることが多いですけど、それっていうのは国家に理想の父親像を投影することで父親回帰を無意識的に目指してるんじゃないかとか…そういう推論を立てることができる。

そうやって観るとネットのオタクが言葉の意味もよくわからずにポリコレアフロとか揶揄するぐらいアクティヴィズム的なフェミニズム思想が明確な『ミステリと言う勿れ』のこの映画版において、娘の父親への思慕が繰り返し表れる一方で母親は存在が消えてしまうほど軽視されていたのも腑に落ちるところだし、更に重要なのは菅田将暉演じる主人公と彼を雇う娘の父親が天然パーマという外見上の特徴で結ばれていることで、菅田将暉が事件の謎を解きながら父親の死という出来事を乗り越えられないでいる娘の甘えを受け入れながらその痛みを癒やしていくという物語の構造を見れば、これは理想的な父親を失った娘が理想的な父親のイメージを体現する菅田将暉に「ボディガードされる」ことで父親の胸の中に還って行こうとする物語と解釈することができる。

そういう意味では、それが日本の人の大多数に受け入れられている点も含めて、この映画『ミステリと言う勿れ』は実に面白い(福山雅治の声で)。俺は父親にも母親にも期待すべきじゃないみたいなことを言う上野千鶴子は正しいと思っているので、このフェミニズムの顔をした父親賛美には乗れないですが。

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