《推定睡眠時間:20分》
半藤一利の『昭和史』に終戦直後の東京の町はまだ暗く、それというのも家屋が空襲の標的にならないための窓の覆いをしたままだったからで、その覆いが剥がされ町がポツポツと明るくなっていったのは敗戦から何日か経ってからだったと書いてある。これは半藤の個人的な記憶であるから一般化はできないかもしれないが、戦争の終わり方の描写として印象的であった。考えてみれば戦争が終わったところで庶民の生活が一夜にして劇的に変わることなどないわけで、折からの食糧不足や物資不足も別にすぐさま解消されることもないし、空襲の心配をする必要はなくなったかもしれないが、それをもってウワーイ戦争が終わったゾーイとアメリカ人のように盛り上がれもしないだろう。エリオットの詩『うつろなひとびと』には「こうして世界は終わってく ドカンとではなくシクシクと」(This is the way the world ends Not with a bang but a whimper)という有名な一節があるが、戦争の終わりもまたシクシクとやってくるのじゃないだろうか。
というようなことが頭にあったので『ほかげ』が始まったらそこは夜になっても明かりもつけず暗い和室、主人公の女(趣里)は畳の上に布団も敷かず死体のように横たわっているのだが、戦争が終わったばかりだからまだセルフ灯火管制みたいなことしてるのかなと思ったらどうも違うらしかった。窓も壁も畳も障子もボロボロになったこの廃墟のような家屋兼小料理屋(寝てる部屋は元々は座敷席だったのかもしれない)で主人公は身体を売って日銭を稼いでいる。その外には人の往来も頻繁ではないとしてもちゃんとあるし狭い路地を出ればガヤガヤしたヤミ市が広がっているのだが、しかし主人公はそこへ出て行くことはなく、部屋の明かりをつけることもないのだった。
暗闇の中にずっと丸まっていると死んだようになって頭の中から考え事が消えていく。この暗闇は主人公のそれこそうつろな心情を反映したものでもあるだろうが、同時にそれは主人公が戦争中に受けた大小様々な傷を忘れ、癒やすための繭でもあった。だからそこには明かりどころか食いもんらしい食いもんもなにもないのだが、うつろなひとびとが集まってくる。非情な女衒、孤児らしい子供、戦争帰りの元教師。女衒は単に金を搾り取るために来るので別だが、昼の明るさの中に居場所を見出せない子供と元教師はともにこの暗闇の中で、主人公と疑似家族を形成して戦争の傷の修復を図るのだ。
ここまで観てこれはまたすごい映画だなと思った。主人公も部屋から出ないが…カメラも全然部屋から出ない! そうであった、これは塚本晋也が自身のプロダクション海獣シアターで作った低予算インディペンデント映画。前作『斬、』も時代設定が幕末で京都がどうのとか(塚本自身が)台詞では言っているがお金がなくそんな大規模なセット作ったり借りたりできないので家が二軒ぐらいあるだけの農村とその周辺の森から一切出ないという実に潔い作りの時代劇だったが、こちら『ほかげ』も一応最後の方にはちょっと外の風景が出てくるとはいえ基本的にはとにかく部屋部屋ずっと部屋、戦後の東京をどっぷり作るなんて『ゴジラ-1.0』じゃあるまいし出来ないので、それならばと開き直り徹底してカメラが主人公に寄り添い廃墟じみた部屋に閉じこもるのであった。
もしかするとこの映画が近いのは塚本映画の中でも低予算度がトップクラスの映画『HAZE』かもしれない。塚本晋也版『地獄』と言えなくもないこの映画は何らかの病に冒されて入院しているっぽい主人公(塚本)が闇に閉ざされたコンクリ迷宮で目覚め、光を求めて様々な痛みを感じながら彷徨うというものだった。『HAZE』の暗闇にもどこかやさしさがある。そこにはデストラップが数々仕掛けられているのだが、それは光を求めて先に進もうとすればという話で、光を諦めただその場で『ウィザードリィ』でいうところの「かべのなかにいる!」状況を甘受すれば、コンクリ迷宮の暗闇は主人公を外界の苦痛や喧噪から護る繭となるだろう。なにも見えずなにも聞こえずなにも感じることもない。そのやさしさを、人は死と呼ぶ。
まぁ正直に言えば森山未來が出てくるちょっと前ぐらいから睡眠という疑似的な死の状態に入ってしまったのであの主人公がどうなってどうなったのか、ていうか森山未來はなんだったんだお前誰だよという胡乱ぷり、塚本映画はこんなんなんぼあってもいいですからね映画だと思っているので今週末にでも二回目を観てこの映画の謎(※謎ではない)を解こうと思っているが、こまかいところは今のところよくわからない。しかしこれだけは言えるだろうというのは、人が戦争から立ち直るには個人差もあろうが基本的には結構時間がかかる、そこに明かりがあるからといってすぐに明かりの中に出て行けるわけではない、壊れた人間には暗闇の中で過ごす時間がたしかに必要で、そして生きようとするならば、どんなに痛みを伴ってもいつかは暗闇から光の中へ出ていかなければならない、その時間を描いているのがこの映画『ほかげ』なのだ…っぽいということだ。
このやさしい暗さ、死の甘い誘惑を帯びた暗さの美しさ。中身がなくなってしまったような「うつろなひとびと」の棒読み演技と、それが生の叫びに転調する瞬間の戦慄(あれは感動ではなく戦慄だとおもう)。シュルレアリスム絵画の中にあるような廃墟と猥雑で生々しいヤミ市の見事な対比、美術も照明もすばらしい。なにより、戦争が終わった後の未だ闇の中にある時間に焦点を当てる生真面目さというかウソのなさにグッとくる。戦争が終わって日本は平和になりました、のキレイなおとぎ話で敗戦後を済ませようとする人が右にも左にも少なくない世の中なので。イイ映画だったと思うな~これは~。