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あれなんだかこれは前にも観たことがあるような気がするぞなんだっけほらイメフォーでやってたブラジルのアートアニメのあぁそうだあれあれ『父を探して』、あの映画にセンスが似ているなと思ったら他でもないその監督アレ・アブレウの新作がこの『ペルリンプスと秘密の森』なのであった。
映画が始まると光りがまたたく。青い光り、緑の光り、赤い光り、黄色い光り…様々ないろの光りは速度を増して明滅し、これは懐かしのアニメ用語で言うところのいわゆるパカパカ、ポケモンフラッシュ事件を引き起こしたあれであるから苦手な人は目をつむるなどしてガードしていただきたいが(でもパカパカを見ると頭がぎゅーっと締まって痛くなる俺でも平気だったので過度に心配する必要なしと思われます)、ともかくその光りの明滅はやがてかたちとなって森の中の木の葉の朝づゆとなる。最初に言葉があった、と聖書曰くだが、この映画の中では最初にひかり、そしていろがあったのだ。
水彩画のようなというかこれは実際水彩画を取り込んでるのだと思うが様々ないろがにじんで混ざり合った淡いまぼろしのような不思議背景を持つこの森を駆ける一匹の生き物がおり、本人はきつねというがその顔は顔料で隈取りがされまるで仮面のよう、人語も解すし二足歩行もするしなんなのかよくわからないこちらも不思議な生物であるが、そのきつねが聞き慣れぬ音につられて木陰を覗くとそこにはラジオと見られる機械があり、どうやら音はそこから聞こえてきているようだ。
ラジオの持ち主はこちらは種族を聞き逃してしまったがきつねと同じように顔を隈取りした謎の二足歩行動物、その正体は某国の秘密諜報員と語るが、実はきつねの方も森の外にある巨人国に潜入した別の某国の秘密諜報員、一匹がラジオから聞こえてくる謎の言葉、「ペル…リン…プス…」を暗号だ! と解釈すれば、きつねの方はラジオをポンと叩いて丸い電波発信器に変える。シュビビビビ! だめだ、森の中だから届かないらしい。では二人で暗号の指し示すX地点へ出発だ!
ということで二匹の動物の摩訶不思議変化自在の夢物語のような冒険が始まるのであったがこれは仮面劇ということなのだろう。人間が動物の面を被りそれに成りきって動物たちが躍動する神話を反復しようとする仮面劇。同時にそれは子供たちのごっこ遊びでもある。きつねともう一匹が何かを何かに見立てればその何かは見立てたものに変わってしまう。崖から落ちても大丈夫、雲がふわふわのクッションとなって一命を取り留めるだろう。それはこの二匹の仮面どうぶつがそういうことにしたからだ。敵がくれば目からビームを発射して応戦しよう。ふたりがそれができると思えばそれはできる。仮面劇の神話創造と子供のごっこ遊びはいろとひかりとさまざまなかたちが織りなす夢幻の森の中でひとつになる。
ひかりのたのしさ、いろのたのしさ、かたちのたのしさ。プリミティブな快楽に溢れたアニメーションが魅惑的なこの映画は、単にたのしいからそういう映像を作っているというわけではどうもなさそうで、それは終盤の展開からわかるのだが、そこに「壁」が出てくるのだ。その壁のフォルムとその向こうに見える光景からするに、おそらくこの壁はイスラエルとパレスチナ・ヨルダン川西岸地区を隔てる分離壁ではないかと思われる。といってもそれが現実のイスラエル/パレスチナを描いたものとは限らない。作品内に様々ちりばめられた壁と戦争のイメージの中に、ヨルダン川西岸の分離壁もあったということではないだろうか。
なんとまぁアクチュアルな。といっても昨日今日作られた作品ではないのだから現今のイスラエルによるガザ侵攻を意識してのものでは当然ない。イスラエルとパレスチナの対立と憎悪の連鎖もまた昨日今日作られたものではないのだから、きっとこの映画の監督は世界をよく見ていて、これは今自分が取り組まなければならない問題と以前から考えていたんだろうと推測する。
壁と戦争をいかにして乗り越えるか、そのときに浮上するのがごっこ遊び/仮面劇による共同的な現実の再創造なのではないか。ひかり、いろ、かたち、世界に溢れるその豊かさを再発見することなのではないか。俺はそんなように勝手に理解した。壁は人間をあちら側とこちら側に固定しようとする。ごっこ遊び/仮面劇はその現実を無効化して人間はあちらからこちらへと越境させてしまう。シリア戦争やガザ侵攻で激しい空爆を受けて灰燼に帰した街並みを見たことがあるだろうか。そこには単色の灰色が瓦礫の上にあるだけで、ほかのいろやかたちはない。しかし空爆の前にはたしかに様々ないろが、かたちが、ひかりがそこにはあったのだ。
ところでペルリンプスとは何か。よくわからなかった。まぁなんというか、これは特定の意味と位置に回収されない、越境的な音なのかもしれない。そもそも音は越境的なものだが、そういえば現代社会というのは明確なかたちを成さない音を無意味なノイズとして退けてしまう傾向にあるかもしれない。自分が理解できない言葉を話す者はガイジンであり敵である、という形で、逆に音が「壁」の役割を果たすのも現代社会だ。ペルリンプス、意味のない言葉、誰のものでもない言葉、だからその音は本来なら出会うはずのない二匹の仮面どうぶつを繋げる。
そうしたところを見るに、もしかするとこの映画はこんなに残酷な世界で、アニメ(それはひかりと、いろと、かたちと、おとの芸術だ)ができることと、そしてできないことを、メタ的に描いたものとも言えるかもしれない。今観るべきみたいなことはあまり言いたくないので、今観ると感銘を受けるだろうがいつ観てもちゃんと作品を受け取ろうとする意志さえあれば感銘を受けるに違いない、思慮深くも情熱的な、すばらしいアート・ファンタジー・アニメだとか言っておこう。