世代交代やねぇ…みたいな感じでなんだかしんみりしてしまった。池袋の老舗名画座・新文芸坐といえばオールナイトが名物のひとつ、最近は個人的に興味を惹かれる番組が少なく、昨年から隔週開催になってしまったのもあってあまり行っていないのだが、以前はよく通ったもので、中でもホラー系のオールナイトは欠かさずと言っていいほど足を運んだものだった。
そのホラー系のオールナイトだが、コロナ禍以前に定番化していたのがホラーマニアックスとか是空といったレーベルのオールナイト。ここいらが主に80年代の通好みホラーなんかのソフトを出すときに宣伝も兼ねてそれをまとめて上映して、でゲストに田野辺尚人、中原昌也、山崎圭司とか…って要は秘宝関係の人だよね。2000年代に入ってから日本でホラーに強いライターを一手に抱えてたのは映画秘宝なので、それでそういう人たちの上映前トークを付けて、みたいなオールナイトをやってた。今ホラーに強い映画雑誌ってそういえばないねぇ。そもそも映画雑誌自体が売れない時代だしな。ここでもしんみりしてしまう。
で、そういうオールナイトがコロナ禍とか秘宝廃刊事件の影響とかも(おそらく)あって、新文芸坐ではやらなくなっちゃった。それでそれと入れ替わるみたいに始まったのがこのゴアフェス、ゴア映画ライター/ゴア映画配給者でかつゴアインフルエンサーのヒロシニコフという人が持ち込んだ企画で、この人がチョイスした日本のスクリーンではまずかからない世界の低予算ゴア映画をオールナイトで観ましょうというもの。昨日のことのようだが今年で早くも4回目。4回目にして今回は前売りで満席になった。
感慨深いですね。ゴアフェス自体も初回とか2回目は席の埋まりが7割ぐらいだったように記憶しているが、コロナ禍以前の新文芸坐のホラー系オールナイトも基本的には満席になんかなったりしない、俺の体感だといつも5割6割ぐらい。客席の温度も低くなんか肩肘張らずに途中寝たりしながらダラダラとしょうもないイタリアン・ホラーとか朝まで観てあくびしながら帰る感じで、もしかすると映画よりもそのゆるい空気を求めて俺は新文芸坐のホラー系オールナイトに通っていたのかもしれないのだが、今回のゴアフェスの方は客入りは満席だし友達・恋人連れも多く場内賑やか、毎回出る物販ブースに加えて今回海外からわりかし著名なゲスト(二作目の『ディック・ダイナマイト』を監督したミュージシャンの人)も読んで、まさにフェスだよね。同じホラー系オールナイトといっても以前のオールナイトとは空気がまったく違う。
まぁだからそれで、ああ、世代交代なんだって。こう見えてと言ったところでどう見えているかわからないがこう見えてお祭りとか音楽フェスとかが大好きな俺としては劇場未公開ホラーのオールナイトがこれだけ盛り上がることに嬉しくなる一方、前のあのゆるいホラーのオールナイトはもう戻ってこないんだろうなって、そういう寂しさも同時にあってさ。なんだろう、帰りの電車でちょっと『劇画・オバQ』のときのQちゃんの気分になったよ。徹夜でホラー映画観たらオバケになっちゃったっていうね…伝わってるのかよこのネタはおい! ゴアフェスに来るお客さん若いから『劇画・オバQ』とか言ったところで伝わんねぇんじゃねぇのかもしかして!
はいじゃあこの話これ以上しても無駄だからおしまーい! 上映前のトークは楽しい空気だったが何を話していたかはあまり覚えていないので飛ばして上映作の感想書きまーす。
『ブラッディピエロ ゴア完全版』(2007)
以前にゼロ年代日本を震撼させたあの悪名高い(主にソフトの仕様による)ソフトメーカーのJVDからDVDの出てた映画のたぶんオリジナルバージョン。JVD邦題は『ブラッディピエロ 100人連続切り裂き』というもので、これは原題『100 TEARS』のJVD的超解釈だが、実際冒頭からタイムアタックでもしてるのかってぐらいのテンポで大鉈を手にしたピエロが人を殺しまくっていくので、ゆーて100人は殺してなかったと思うが少なくとも『2000人の狂人』よりは盛ってないわりと誠実な邦題であった。
トークショーで主催ヒロニコさんが言っていたがこれは今年の英語圏ホラー映画界最大のトピックだったかもしれない『テリファー 終わらない惨劇』に対抗しての作品チョイス。『テリファー』と比べたときに面白いのは殺人ピエロの過去がしっかり描かれるところだろうか。その過去は別に殺人の動機にはならない気がするのであまり意味がないのだが、ロン・チャイニーが狂えるピエロを演じたピエロ映画の古典的傑作『殴られる彼奴』の昔から殺人ピエロといえば悲しい過去がつきもの。そうした過去をバッサリ切り捨て、純粋な快楽殺人鬼としての殺人ピエロがただひたすらに人をぶっ殺していくサマを見せた点が『テリファー』の新しさであり、この手の映画には珍しくホラーファン以外の耳目も集めた理由だとするならば、『ブラッディピエロ』は『テリファー』の先駆けとなるピエロ・ゴアであると同時に、そのシナリオにおいては古典的ピエロ・ホラーに属する、ピエロ・ジャンルのミッシングリンクのような作品なのかもしれない。
そう書けばなんだかすごそうな映画に思えるかもしれないが、ボディカウント優先のスラッシャー映画なので一つ一つの殺人シーンが粗く、かと思えば殺人シーンと殺人シーンの間をつなぐドラマパートは面白くないのにダラダラ長く無駄に捻っているので(あと理屈がよくわかんない)、全体としてはよくあるゆるい低予算ゴア映画、本当は満席の映画館なんかではなく家で鼻くそほじりながらVHSで観たい映画である。でもゴアフェスって初回はこういうのをあえて映画館で観ようみたいなオールナイトだったんだよな。
『ディック・ダイナマイト ナチ皆殺し血風録』(2023)
『ブラッディピエロ』が『テリファー』対抗のチョイスならこちらは先般日本公開されたばかりの『SISU 不死身の男』対抗タイトル、監督が言うには80年代のシュワルツェネッガーがナチスを殺しまくるアクション映画が作りたかったとのことで、展開的には『コマンドー』×『イングロリアス・バスターズ』+ゾンビ少々だが、雰囲気的にはこちらも今年公開されたナチスプロイテーション映画『マッド・ハイジ』に近い、要するにわれわれの業界でいうところの哲学的芸術映画作品である。
バカみたいに人が死にまくりバカみたいな下ネタを連発してバカみたいな銃撃戦ばかり。問題があれば筋肉で解決。殺しはきっちりフェイタリティ。うむ、まさしく哲学、まさしく芸術ですな。バカみたいなことしかやってないので楽しい映画だがゴア度合いは今回の上映作の中ではもっとも低く、陽気なトーンやスピード感のある編集もあって、マニア好みのゴア映画というよりも人をまぁまぁ選ばない痛快娯楽作、『マッド・ハイジ』も『SISU』もやったんだからこれもそのうち日本の配給つくんじゃないですかね。
『セプティック』(2022)
ついこのあいだ私人逮捕系YouTuberとかいう自称自警団の半グレみたいな人たちが何人か逮捕されてニュースになっていたが、素人のライブ配信が金になってしまう世の中はプロとして食っていくだけの芸はまったくないが金と承認欲求だけは欲しいという俺のような無能人間にとって危険な誘惑に満ち満ちている。ということで米国インディー・ゴア界の雄ブライアン・ポーリン史上もっとも邪悪な映画とも言われるとか言われないとかなこの『セプティック』はインターネットのスナッフ配信業に手を出した夫婦とポーリン本人が演じるオッサンの冥府魔道ものがたり。
スナッフもの、それでいて度を超した人体崩壊ゴアで知られるポーリンの監督作、どんなにおそろしい映像になっているのだろうと思ったが…確かに人体はぐちゃぐちゃに壊れてわけがわからない状態にはなるのだが、スナッフといっても残虐な拷問などは登場しないため意外や陰惨な印象はあまりなく、勧善懲悪のストーリー(といっても善が勝つわけではないしそもそも善人が一人も出てこない)もあってゴア・ホラーというよりもダークな寓話という印象の方が強い。
これはポーリン作品全般に言えることで、『セプティック』の前作に当たるポーリン初期短編集+新撮ブリッジストーリーから成る『Morbid Tales』も百物語が終わると狂言回しのChris Kinniery(『セプティック』では闇医者を演じていた)が悪魔の正体を現し百物語ユーザーたちがぐちゃぐちゃどろどろぼひゅーどちゃーと人体崩壊したのち、悪魔が家で寝ていた少女のもとを訪れるというファンタジー的な結末となっていた。この少女はおそらく『セプティック』にも臓器目的で買われ殺される役で出演しているのだが、その出演シーンを見ると少女が撮影時に怖い思いをしたり強いストレスに晒されたりしないよう配慮しているっぽいことがわかり、ポーリンのモラリストっぷりが垣間見えるようである。
そもそもポーリンのゴア描写は鑑賞者に恐怖心や生理的嫌悪感を与える生々しいものではなく、人体が原型を留めないほどに崩壊することで別の何かに成る、たとえば『遊星からの物体X』のようなSFXを駆使した変身描写といえる。ゴアフェスでも初回に上映された『クリプティック・プラズム』はポーリン流のラヴクラフト・オマージュ作であり、『Morbid Tales』に収められた初期短編の中にはエドガー・アラン・ポーの『大鴉』を思わせるものもあったことから、ポーリン映画のルーツはどうもそのへんの幻想怪奇文学やそれらを絢爛たるSFXを駆使して映像化した『フロム・ビヨンド』などの80年代特撮ホラーにあるような気配である。
こうした作品群のファンタジー性を受け継いだ結果、『セプティック』もその題材の残酷さに反してどこか優しさすら滲み出る、即物的でありながらもファンタジックな作品となったのではないだろうか。悪いことをした人たちはちゃんと創造力の尋常ではない無残な方法で死ぬから教育的だし、かと思えば急に公園で子供たちがやってる銃撃戦ごっこみたいなアクションが始まったりして和むので、おそらくこの映画がR-18以下の指定になる国はかなり探さないと見つからないと思うのだが、お子様にもぜひとも観てもらいたいと個人的には思います(※あくまでも個人の意見です)
『マーダー・セット・ピーセス ディレクターズ・カット版』(2004)
そしてこちらは一転ストレートにヒドいゴア映画、女と見れば恫喝し強姦し監禁し拷問し支配し殺害し更に死体を陵辱しそれでも女が憎くて憎くてたまらず次なる獲物を求めて夜の街にマッスルカーを走らせるハイパーミソジニストの男がとにかくひたすら女を泣きわめかせ全身を血で染めていく、ゴア・サイコホラーである。
あるいはホラー全般がそうなのかもしれないが、ことにアメリカのホラーとミソジニーは切っても切り離せない関係にある。スラッシャー映画などその典型的な形態であり、通常は男のスラッシャー殺人鬼が執拗に女の主人公を狙い、観客は主人公がキャーキャーと叫んで怯える顔を鑑賞するわけである。しかし同時に、それを恐怖として提示しているということは作り手や観客は被害者である女性主人公の方にこそ感情移入をしているわけで、多くのスラッシャー映画において女性主人公が最終的に反撃して男性殺人鬼を倒したりする点でも、むしろスラッシャー映画は同時代のアメリカ社会で顕在化したフェミニズムを反映しているとも言える。ミソジニーとフェミニズムという相反するものが同居しているのが主に80年代以降のアメリカのホラーであり、その両義性の持つ反発力が『羊たちの沈黙』などの傑作を生んだという見立ては、そう突飛なものでもないだろう。
ともかく、アメリカのホラーはミソジニーが大きな特徴、ミソジニーの煮こごりのような『マーダー・セット・ピーセス』には様々なミソジニー映画へのオマージュが込められてるように見えた。ナチの父親に対する屈折した愛情はナチの生き残りクラウス・キンスキーが変態のぞき殺人ホテルをぶっ建てる『クロール・スペース』、なにかしらの性的トラウマを暗示する心象風景は『シャドー』などのダリオ・アルジェント作品、主人公の性格造型は『アメリカン・サイコ』とジョー・スピネルのマスターピース『マニアック』の悪魔合体で、服装は『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデン、殺しの描写はフルチのアメリカものジャッロ『ザ・リッパー』を思わせ、エロビデオ屋の黒人店員に絡むくだりは『タクシードライバー』のコンビニ強盗シーンを参考にしたのかもしれない。
『タクシードライバー』の主人公トラヴィスが選挙事務所の女性をポルノ映画館のデートに誘うシーンはトラヴィスの女心のわからぬ童貞性を示すものと解釈されることが多いような気がしているが、俺はあれは確信犯的なセクハラで、トラヴィスはある種の強姦として選挙事務所の女をポルノ映画館に連れ込んだんだと思ってる。そうすることでトラヴィスはその女を征服したような気になるわけだ。ベトナム帰りのトラヴィスはアメリカ的な男らしさ=女を支配する者にならないといけないという強迫観念に取り憑かれている。ポルノ映画館デートのくだりは他愛ないシーンと見えて実は、トラヴィスが自らの男らしさを誇示するラストの通り魔的凶行と繋がる伏線だったわけである。
さて『タクシードライバー』のトラヴィスのように、あるいは売れない画家が鬱憤を晴らすためにホームレスを殺して回る『ドリラー・キラー』のように、『マーダー・セット・ピーセス』の主人公であるミソジニー写真家殺人鬼はLAの夜を爆走するが、映画もまた殺人、強姦、ヌード、血の噴流、絶叫、拷問と刺激的かつミソジニスティックな見せ場が畳みかけるように続いて爆走する。うひゃひゃおもしれー。とでも言おうものなら今の世の中では顰蹙は間違いないので取り繕うが、こうした構成はあたかも主人公の強迫的な心理状態を表現するかのようであり、合間合間に差し挟まれる線路と女の心象風景や冒頭の9.11映像がそれを補強する。
夜のLAに物々しいマッスルカーを走らせる主人公はもしかすると獲物を追っているのではなく、必死に逃げているのかもしれない。本当は男らしくない自分から、過去の何かしらのトラウマから、マチズモに駆られてイラク戦争に突き進んだアメリカから、そして女から。きわめてミソジニスティックな『マーダー・セット・ピーセス』は、だからこそアメリカ男文化の毒性をまざまざと見せつける、フェミニズム批評の映画という裏の顔さえ持つ。ベトナム戦争終結直後1976年の『タクシードライバー』に対して『マーダー・セット・ピーセス』はイラク戦争開戦後2004年の作。アメリカがイスラエルの後ろ盾という形でイラク戦争を再演しているかに見える今日、この映画を観ることの意義は大きい…とか書けばみんな怒らないよね?
※ちなみに自分でもびっくりしたのですが今回は一本も寝なかったので睡眠時間0分です。そんなことできるんだ、俺。
新文芸坐のホラー系オールナイトの抜けた雰囲気…ありますよねぇ〜…
悪魔の毒々モンスターとか、あの深夜の池袋のゆるい雰囲気込みで心底笑えました。
アクエリアスとか影なき陰獣だとかデモンズ95だとか、僕も新文芸坐のオールナイトで初めて観て、それっきり二度と観てない作品がたくさんあったりします。
謎の映画とか珍奇な映画とか幻の映画との出会いがオールナイトの醍醐味ですよね。名作と名高い、暗闇にベルが鳴るとか本当に面白過ぎて痺れたもんです。
完売とか満席とか…嬉しいんだけども、そうじゃないってのは凄くわかります 笑
去年のルチオ・フルチの4本立ては結構空いてて、妙に興奮したのを覚えてます笑
なんか新文芸坐も二本立てのシステムが変わったり、オールナイトを毎週やらなくなったり、仕方の無いことはわかりますが、やっぱりちょっと寂しいですよね。
もっと敷居の低い、日常と地続きというかいつでも誰でも適当にふらっと入れる名画座であってほしかったですから…
今年の満席だったウォン・カーウァイのオールナイトを最後に新文芸坐には行ってないのですが、また久しぶりにオールナイト行きたくなりました。
>もっと敷居の低い、日常と地続きというかいつでも誰でも適当にふらっと入れる名画座であってほしかったですから…
いやもう、ほんとにそうで…昔と違って今は客のほうが映画館にフラッと行ける気楽さを求めないので、そのスタイルだと商売にならないというのもよくわかるんですけれども、とはいえ寂しさはやはりあります。
昼興行の方も客を呼べる土日は話題作で、渋い名画みたいのは平日にやるようになっちゃったので、自分もそれで自然と足が遠のいてました
映画館で映画鑑賞するのは非日常体験する為だってのは確かにわかるんですよ。
その価値観ってレンタルビデオ普及頃には既にあったのでしょうけど、令和以降急速に広がった気がしてならないんですよね。ストリーミングサービスやコロナ禍だけじゃなく色んな要因があるんでしょうけど、新作旧作問わず映画は映画館で観るのが1番良いに決まってると思ってる人にとっては、というか映画も好きだけど映画館の暗闇に居場所を感じてる社会不適合者(泣)にとっては、やはり映画鑑賞にイベント感なんて要らないというか…
チケット争奪戦だなんて、例えチケット買えてもシラケてしまうんですよね…
どこでもいいやって席選んで、自販機のアイス食ったり固いアンパン食ったり、ネパール料理屋のチャーハン食ったり…そんな新文芸坐が僕は好きでした(泣)
夜中に食べるサグーンロールもチャーハンもサモサも美味しかった…でもあれも店ごと潰れたっぽいですし、ともかく世の中の流れに合わせてシステムを変えていかないともう物価高だなんだで名画座なんか経営できないってことなんでしょうねぇ…世知辛い世の中だなぁ…。
俺の場合はそんなわけで、多少ルールが変わったとはいえいまだ自由席かつ居眠りOKの(笑)、シネマヴェーラが数少ない居場所系映画館になってます。蓮實重彦がトークに来る回以外は基本的に毎回半死にの高齢客が30人ぐらい来てるだけなので雰囲気がゆるくて楽なんですよ。これからもしかしたら再建するかもしれない飯田橋ギンレイホールもかつては居場所系だったので、新ギンレイホールにも期待したいところです!
あ、もちろん新文芸坐さんもいろいろ試行錯誤中みたいなので、イイ感じに居場所感を取り戻してくれることを期待してます!