いつものカウリスマキ映画『枯れ葉』感想文

《推定睡眠時間:20分》

熱狂的なファンの多いアキ・カウリスマキの新作ということで非常に好評らしいのだがなんかよくわからなかった。別にお話が難しいとかそういうことでは一切なく、お話はしがない中年男女が慎ましく恋愛するだけなので難しいことはないのだが、こう、別に激賞するようなポイントはとくにないしなみたいな。面白いけどあー面白かったさっ次行こと思わせてくれる映画という意味ではセガール映画に近いというか。そこまでは言わずともそうだなほらちょうどこれを書いている今日はお正月ということで、お正月はテレビの演芸番組でいつもならテレビにあまり出ないけれども誰もが知っている有名な寄席芸人とか営業芸人の人が出てきて「いつものアレ」的なネタをやったりするじゃないですか。テツandトモみたいな。そういうことですよね。伝統芸とか名人芸的な。もう型が完成されてしまっているのでおー見事見事とさえ思わずただその芸を純粋に楽しんでや~っぱ何度見ても面白いな~って感心する。

『枯れ葉』そういう映画だったよ俺の中で。カウリスマキがいつもの名人芸をいつもの調子で披露する。それだけなのでここがどうのあれがどうのと考えることさえできない。完成された芸は安易な評論を寄せ付けず、そしてそのことが安心感と幸福感を生む。人間はどんなことに対してもあーだこーだと思考を働かせてしまう生き物だから何も考えない状態というのはひとつの夢なのでしょうな。完成された芸は無思考そのものではないにせよそれに近い状態に観客を導く。どうだこの書きっぷり、いかに俺が『枯れ葉』という映画に対して書くこと、考えたことがないかがよく伝わるであろう。

まぁカウリスマキとっていうのはホントに金太郎飴みたいなどれ観ても全部同じだろみたいな映画を撮る人で、それでも昔は設定とか題材に結構幅があったが、いつからだろうか、適当な印象論でいえば『浮き雲』ぐらいからずっと社会の下の方にいるしがない中年男女の淡い恋愛みたいのをやるようになって、それで名人芸化したんですよねその映画が。厳しい生活、冷たい社会、そんな中でも生まれる市井の人々のちいさな連帯、真顔で放たれるすっとぼけたユーモア。これはなにか古典落語に近いものがある。

あえて言えば『枯れ葉』は従来の作よりもなんとなく…間口が広いというか、わかりやすい笑いどころが多かったように思う。そのひとつはジム・ジャームッシュのゾンビ映画『デッド・ドント・ダイ』を観たシネフィル観客二人が真顔で「ブレッソン以来の名作だ」「私はゴダールを想起したよ」とか言い合うところで、そんなわけはない、そんなわけはないだろ! 大いに笑いました。

監督引退宣言を撤回して撮ったのがこれというのはもしかすると意味のないことではないのかもしれない。劇中、主人公がいつラジオをつけてもウクライナ戦争のニュースばかりやっていて気が滅入るという描写があるが、高度に抽象化・寓話化されたカウリスマキの映画で社会問題が具体名を伴って現れることは珍しい。思うに、いろんな人に戦争はとてもよくないことですと伝えるためのこの具体性、このわかりやすさなんじゃないだろうか。この映画に戦争そのものは出てこないが、それが戦場から離れたところにいる人々の生活にも暗い影を落としていることは見ればわかる。

撮っている間にも今度はイスラエルのガザ侵攻が勃発してしまったのでやれやれであるが、そんな世の中にあっても絶望する必要なんかないんだよ、そりゃあ世の中ろくでもないことばかりだが楽しいこと笑えることも案外あるからな、ため息をつきながらまぁ適当にやっていきましょう…それが『枯れ葉』という映画だったように思う。そうか、そうだったのか、カウリスマキはやさしいな。でも、やっぱ普通のカウリスマキ映画だから頑張って感想を捻ったが本音ではとくに言うことないわ…面白かったが。

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