《推定睡眠時間:0分》
いったい何が起こってしまったのか突如として地表がハンパない巨大津波のように隆起し波及、推定ほんの数分で韓国中の道路という道路は破壊され建物という建物は倒壊したが、いかなる幸運が働いたか主人公夫婦の住む団地的高層マンションだけは筆舌に尽くしがたいこの大災厄を免れた…というJ・G・バラードの『ハイ・ライズ』と『旱魃世界』をねるねるまぜまぜしたようなあらすじを予告編で知り、とにかく思わざるを得なかったのは「いや、そんなところ住むなよ!」であった。危ないだろう明らかに。そんなあんた『インセプション』のサイコロ状に折れ曲がる街みたいな感じで大地が猛り狂って見渡す限り他の建物はすべて倒壊、ラジオもテレビも電気もなく政府も壊滅したと思われる世界で一棟だけ残されたマンションって絶対それ外見は無事でも構造にヒビが入ったり鉄骨曲がったりしてるし仮に建物が基礎含めてオール無事であったとしても地盤の液状化現象とかでそのうち倒れるよ!
国土の広い中国では大規模な地震被害が珍しくないが韓国というか朝鮮半島ではあまり地震が起きないらしいので韓国の人はこういう災害の実感が湧かないのだろうか。フィクションとはいえこれはツッコミ不可避であろう。能登半島で大変な地震があった後でもあるし、ぜひともみなさんにはこの映画のような状況に陥った場合即刻マンションは放棄して近隣の避難所などにとりあえず逃げていただきたいものである。だいたい、電気もないので住み続けたところで下手に金出して上の階の部屋を買っちゃった人とかめちゃくちゃ大変だろう生活物資運ぶだけでも。そういえばそんなこともあったよな多摩川かなんかが氾濫して川沿いのタワマン高層階住民孤立みたいな。
だがこれはそのようなリアルな災害サバイバルを志した映画ではなかった。ゾンビパンデミックとか核戦争とかなにかしらの災厄で文明社会が崩壊してしまった後の世界を舞台にしたSFとかホラーをポストアポカリプスものと呼んだりするが、文字通りの意味でこれはポストアポカリプス映画といえるかもしれない。少なくとも見渡す限りは韓国にたった一棟残されたマンションの住民代表に半ば偶然選出されてしまったやるときはやるがなんだか冴えない風体の男イ・ビョンホンは代表就任挨拶でこう述べる「えーっと…そうですね…私はその…このマンションは選ばれたのだと思います…はい…」。選ばれたとは誰によってか。それがキリスト教における神であろうことは、終盤、絶体絶命状況に置かれた一人の登場人物が教会に逃げ込み、その身体を聖母マリアかなにかが描かれたステンドグラス越しに日の光が照らすと、直後その人物が救い上げられるという展開によってほぼほぼだいたい明らかになる。
つまりこの映画は…いや、俺のスーパー知性が弾きだした物語解釈は置いておいて、まずはどんな感じの映画だったが概観しておこう。おもしろかった。その一棟だけ残されたマンションに近くのマンションの住人とかも避難してくるんですけど、限られた物資と部屋を巡って居住者VS避難者の争いが絶えず、マンション住人たちは住民投票で避難者の追い出しを決定。でマンションを部外者立ち入り禁止のゲーテッド・コミュニティにして、外の世界は氷点下25度とかだからガシガシ人が凍死してくんですけど、どっこいマンション住民たちは頑張って敷地内を整備しミニ国家みたいにしたので結構平気、災厄前の水準に近い生活を取り戻して住民カラオケ大会まで開いてしまうのでした。もちろん、そんな悠々自適生活を毎日が生きるか死ぬか状況の外の人々が許すはずはない…。
予告編の印象からバラード系かと思いきや実際に観てみるとまるでゾンビ映画。モダンゾンビの父ジョージ・A・ロメロの『ゾンビ』と『ランド・オブ・ザ・デッド』を足してゾンビとゴア描写を抜いた感じといえば地球上の全人類は『ゾンビ』と『ランド・オブ・ザ・デッド』を毎日観ているので即座に了解されるであろう。ラストもロメロの『死霊のえじき』っぽい。が、その点は後で書くから置いておくとして。韓国エンタメらしいジャンル横断的な見せ場数珠つなぎのシナリオはいささか節操なく整合性に欠く気がするが、いやぁ面白いじゃないすか緊張感ありユーモアあり批評性あり、完全に絶望しかない見事な終末風景ありで、おまけにイ・ビョンホンまであってさ。イ・ビョンホンといえば去年のお正月韓国映画だった『非常宣言』にも出ていたから二年連続の正月ビョンホンだ。2018年の出演作『それだけが、僕の世界』(これはめっちゃ良い映画である)は同じ年の12月28日に日本公開されたのでビョンホン、なぜか日本の年末年始を彩る風物詩と化している。年末年始はみんなでビョンホン。
さぁさぁ、それじゃあ俺がこの映画を観て考えたことを開陳しようか。なんかね、すっげぇ絶望の深い映画だと思ったわ。もう深すぎて絶望ですらないんですよね。逆に希望にすらなっちゃうの、希望がなさすぎて。そういうラストをたぶん作ってる側はあんまり意識しないでやってるから、こういう映画がメジャー映画でナチュラルに出てきて、これが韓国国内でどういう風に受け止められてるかはわからないですけど、露骨な拒絶反応とかがないとしたら、結果的に『パラサイト 半地下の家族』みたいな意識的かつ理知的なバッドエンドの映画よりもすごいことを成し遂げたんじゃないかとか思いますよね。
っていうのはこの映画って『ゾンビ』とか『死霊のえじき』みたいなところがありますけど『ゾンビ』でも『死霊のえじき』でもゾンビだらけになってしまった世界をそれでも登場人物は見限らずに無線とかテレビとかで情報収集しようとしたり状況打開の糸口を掴もうとはするんです。ところが『コンクリート・ユートピア』では全然そんなことをしない。政府はもうダメだとかテレビとかももうダメだみたいのはごくごく序盤にほんのちょっと台詞に出てくるだけで以降は登場人物の誰もそこには関心を寄せない。もしかしたら『ミスト』みたいに軍の救助部隊がどこかで活動してるかもしれないじゃないですか。政府要人は全員死んだかもしれないけれども新たに臨時政府が組閣されて韓国再建に動いてるかもしれないじゃないですか。でもそういう描写がないっていうだけじゃなくて、ここにはそういうことを考える人が本当に一人も出てこない。もう世界は終わってしまったんだってみんな何も言わずに確信して受け入れてしまってるんですよね。
それでそういう人たちがマンションの中で何をするかってミニ国家を作る。物資調達班とか救護班とか警備班とか色んな班に住民を振り分けてマンションっていう小さな民主主義ユートピアを維持しようとする。その様々な班の中になんで当然あるべきあれがないんだろうって思ったのが、飼育班とか農耕班なんですよね。だって何が潜んでるかわかんなくて危険なマンションの外から他の生存者と時には争ったりしながら生活物資を調達してくるよりはマンション内で作物とか食肉とか作って自給自足できた方が安全だし楽に決まってるじゃないですか。でもそれも誰もやらないし考えない。そりゃ気温が氷点下25度の異常気象なら普通にやったら作物は育たないでしょうけど、マンションなんだし室内栽培だって色々試してみたらいいのに、食糧や水も含めて生活物資っていうのはすべて外の世界に残された、壊れる前の世界で作られたもの以外には存在しないってみんな思ってるんですよ。
ここだけ取れば現代韓国の戯画とも見えるかもしれない。自分たちのマンションに引きこもって外の世界にまったく無関心なサバイバル能力のない住民たちは韓国といわずまさしく現代先進国の都会人そのもの。合議と多数決によってなんだか冴えないオッサンを住民代表に祭り上げ、マンションの「異民族」を追い出し外の世界の物資を奪うことで維持されるその小さな社会は、あるいは民主主義に基づく国民国家そのものの虚飾を剥いだナマの姿でもある。韓国といえば成立が比較的新しいこともあってアジアではおそらくもっとも民主主義意識の強い国だが、日本同様に韓国もまた難民認定率がたいへん低い国であるというのはその注釈として頭に入れておくと理解が捗るかもしれない。
しかし俺にとって重要だったのはその先に提示される一筋の光であった。この光とはどういうものか。ネタバレにならないように慎重にボカしつつ書くが、たとえばアメリカのポストアポカリプス映画だったらだいたい出産か拾った子供が絶望終末世界を切り拓く光ということになる。大人たちは誤った、だから次の世界は君たちが作るんだというわけで、その背景にはアメリカの出生率の高さ(1.8ぐらい)がまぁあるかどうかは知らないがまったく無いということもないかもしれない。しかし韓国の出生率は1.2程度の少子化大国ジャパンよりも大幅に低い0.7とかである。そのような国の多くの人たちが出産や子供に希望の光を見出したがることもないと思われるので、この映画でもそれが光とはならない。
光は受け入れることであった。世界の崩壊を受け入れること、マンションの中で今は亡き在りし日々の再建に固執するのではなく、世界は終わってもう元には戻らないと諦めること、そのとき天から救いの光が放たれる。これは『死霊のえじき』とよく似ている。『死霊のえじき』もまた以前の世界を取り戻そうとする生存者コミュニティの崩壊を描いた映画だったが、しかし『コンクリート・ユートピア』がそれと決定的に異なるのは、『死霊のえじき』にあった旧世界を放棄することでの新世界の建設という理想主義的なビジョンがついに最後まで現れず、ただ旧世界の放棄を幸福として描き出している点であった。
よく千年王国と言うが(※言わない)千年王国とはキリスト教の終末論における世界の黄昏を指す。世界中をすさまじい天変地異が襲った後、最終戦争の千年前にキリストは再臨しこの世を直接統治する。その千年はキリスト教徒にとって超心安らかな楽園であるが、これは高級老人ホームのようなもので、キリスト再臨から千年が経てばキリストと獣の軍勢の最終戦争が勃発し、キリストが出来レースの勝利を収めると共に最後の審判が下されこの世は終わる。キリスト者はそのときに救済されるのでとりあえず神様を信じておればこの世が終わっても別に問題ないのであった。
『コンクリート・ユートピア』の強烈な終末論的世界観とその希望のない希望に満ちた結末にはどうもこうした思想が透けて見えるように俺には思える。住民たちがどうしようどうしようと困ったところで突然地鳴りと共に水が湧き出すシーンなどもまったくもって聖書的であるし、韓国の団地文化形成過程をドキュメンタリー風にダイジェストするオープニング映像はみるみる団地マンションの棟が増え高層化されていく様を映し出す。そうした演出には韓国の住宅事情の説明という面もあるだろうが、同時にそれは、その直後なんの前触れもなく発生し原因も説明されない謎の大災厄によって、バベルの塔の崩壊のイメージも帯びる。
そう思えば『ゾンビ』や『死霊のえじき』や『ランド・オブ・ザ・デッド』などロメロのゾンビ映画において常に主題化されていた略奪と生産、籠城と脱出の対比が『コンクリート・ユートピア』においては成立せず、その関心がもっぱら略奪と籠城に向けられていたこともなるほど納得できる。千年王国で最後の審判を待つキリスト者たちはそこから脱出する必要もそこで何かを生産する必要も全然ないからである。ただ世界の終わりを受け入れてそこに留まってさえいれば、キリスト者は救われるのだ。こうした救いが民主主義国家の戯画としてのマンションと対比される形で、マンション住民への回答として提示される。一言で言えば、これは「韓国はもう終わりだ」という気分を、宗教的に肯定する映画なんじゃないだろうか。
韓国はキリスト教の強い国でカトリックとプロテスタントの信徒を合わせれば今や仏教徒よりも多いらしい。カトリックとプロテスタントではプロテスタントが多く、アメリカもそうだがプロテスタントは民主主義とも相性が良いがグルイズムとも相性がいいのでキリスト教系の新興宗教も珍しくない。そのような宗教土壌から先鋭的な終末論映画が現れること自体はそう変わったことでもないのかもしれないが、ロメロ映画の意匠を借りた現代韓国社会への批判という形で、娯楽大作として現れたことには俺はかなり驚いた。そしてその天然っぷりというか本気っぷりに、ぶっちゃけかなり興奮してしまうのである。これは、スゴい映画である。