面白くないがグッとくる『瞳をとじて』(2023) 感想文

《推定睡眠時間:20分》

ビクトル・エリセという映画監督は考えてみれば謎な人で『ミツバチのささやき』とその姉妹編のような『エル・スール』のたった二本だけで映画史にその名を刻み、ちょぼちょぼとオムニバス映画の監督などには呼ばれていたようだが長編映画では今回の『瞳をとじて』がウン十年ぶりの監督作というからいったいその間なにをやっていたのかと思うし、その作品もたしかに『ミツバチのささやき』は名作だと思うがこれはどちらかと言えば時代が作らせた作品というような印象があってそこに名監督の手腕だとか哲学だとか、作家性のようなものはあんまり感じられない。映画好きの人でビクトル・エリセの名前をまったく知らないという人は少ないのではないかと思うが、じゃあビクトル・エリセって何者なんですかと訊かれれば答えられない人が大半なんじゃないだろうか。むろん俺もその一人である。

ということでその謎を解くためにもこのビクトル・エリセ監督最新作『瞳をとじて』を観に行ったら想像以上に平凡だった。なにか秀でたところがあるわけじゃないしかといって下手なわけでもないし、つまらないとまでは言わないが面白いとも言えない出来である。きっとビクトル・エリセの名前が伏せられていたらこの映画が日本で劇場公開されることはなかっただろう。なので俺の中でビクトル・エリセとは何者か、とりあえずの答えはこれで出た。この人は天才でも名匠でもなんでもなく、一介の職人映画監督に過ぎなかったのだ。

もしかしたらエリセ自身それがわかっていたからこんなにも長い間長編映画から離れていたのかもしれない。いまから数十年前の新作映画の撮影中に突如として姿をくらました人気役者の行方を「あの人は今」的なテレビ番組への出演をきっかけに失踪時の映画の監督が探し始めるというこの映画のプロットには1992年の『マルメロの陽光』以来映画界の表舞台から姿を消していたエリセの姿もどこか重なる。今後いくら映画を撮ろうとも『ミツバチのささやき』というマスターピースを超えることができないことは誰よりもエリセ本人がよくわかっていたんじゃないだろうか。だからこそエリセは長編映画を撮ることができなくなったんじゃないだろうか。といっても劇中で役者が姿を消した理由はそれとはまた別なのだが。

平凡と先に書いてしまったがどのように平凡かというとこれは人探しミステリーなわけですが基本は主人公といろんな人との座りの会話シーンで進行するのでまず絵面がおもしろくない、絵面がおもしろくないのならせめて展開にダイナミズムがあればいいがそのようなこともとくになく、役者失踪の真相も意図的なのではないかと思うほどにつまらない理由であった。それでも不思議とまぁまぁ観られてしまうのがエリセの職人技なのかもしれず、なんとでないようなシーンに漂う重厚感が、あぁ今おれは映画を観ているのだなぁという充実感を与えてくれる。まぁ見方を変えれば鈍重な映画ということでもありますが。

エリセの雲隠れとも重なる役者の失踪は撮影中だった劇中劇ともリンクしており、これは死期を悟った孤独な富豪が探偵に娘を探し出させるというストーリー、この探偵役が失踪した役者である。この劇中劇は映画の終盤で重要な役割を果たすことになるので、主人公の映画監督の片腕であった老編集者の「カール・ドライヤー以降、映画に奇跡など存在しない」という反語的な台詞などもあり、映画の持つ力や可能性を信じる映画というのがこの『瞳をとじて』のように思われる。『ミツバチのささやき』において巡回映画の『フランケンシュタイン』が内戦で疲弊したスペインの現実をささやかに塗り替えた、その映画のファンタジーが、ここでも再演されるんである。

けれどもここには当然なのだが『ミツバチのささやき』のような輝きはなく、二重のメタ構造を用いた映画の賛美もいささか狙いが見え透いて白けてしまうところがある。もし劇中劇がおっぱいの大きいおねえさんが水着で浜辺をおっぱいぼいんぼいん言わせながら走ってくるだけの映画であったなら、そんなカスみたいな映画でも奇跡を起こせるのだから映画はスゴい…と説得力も僅かながらあるかあるいは逆にまったくないかもしれないが、無駄に重厚なだけでとくに面白くない劇中劇で映画の奇跡がなんて言われても(言わないが)困るし、「カール・ドライヤー以降、映画に奇跡など存在しない」なんてもういかにもシネフィルを騙す気満々の台詞をヌケヌケと出してくるのだから鼻持ちならない。

でも、そこが逆にチャーミングな映画でもあるとあえて言ってしまってもまぁよいような気もしないでもない。エリセはきっと自分がもう『ミツバチのささやき』のような奇跡的な映画は撮れないことは知っているが、それでも構いやしないと開き直って、『ミツバチのささやき』主演のアナ・トレントを再び起用した上で登場人物に「アナ」の名前を付けるぐらい、もう臆面もなく自らの映画遺産を最大限に活用しまくるわけである。こんな映画にシネフィルがNOと言えないことをエリセは知っているのだ。

ははは、良いじゃないか。何も作らない巨匠よりも作品を作り続ける凡才の方が俺はエライと思う。何も作らない巨匠は過去の栄光の中で決して傷つくことがないが、作品を作り続ける凡才は一作毎に自身の才能のなさに傷ついて、それでも決して歩むことをやめない。映画という大衆娯楽はそんな人たちによって支えられているし、もしかしたらその泥道の先には、『ミツバチのささやき』のような映画の奇跡が待ち受けているかもしれないのだ。とはいえ映画遺産で自身の凡才っぷりを隠そうとするエリセをそんな戦う凡才の範列に加えるのは俺の中でちょっとだけ抵抗もあるのだが。まぁ、その情けなさ込みで、というかさ。

凡才凡才言っているが荒涼としていながらも透き通った風景ショットを観るとそこには確かに詩情があるし、エリセの美学も薄ら見える。そればかりならよかったのだが、映画の大部分はつまらない座りの会話シーンなので…というこの残念加減。でももしかするとそれは、隅々まで都市化された今じゃこんな風景はスペインにほとんどなくなっちゃったね、という黙して語らぬ現代批判なのかもしれない。なんにせよ、エリセの時代はもう終わった。だからこそエリセが今あたらしく映画を撮ったことに、まったくしょうがねぇなと思いながら、ちょっと嬉しくなってしまうのだ。

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