フランスのアメリカ映画『落下の解剖学』感想文

《推定睡眠時間:40分》

何事もどの視点から見るかによって白も黒も決まってしまうものでついこのあいだ観た『マダム・ウェブ』は本国アメリカではかなり不評のようだがそれはおそらくこれをMCUみたいなアメコミヒーローがじゃんじゃか悪い奴をやっつけてエモいドラマをやっちゃったりなんかしてちょっとした社会風刺とかメタネタとかを入れてですねまぁなんでも構わないがとにかくヒーローが一時も休まずチカチカする画面の中で大活躍するパチスロみたいにアクティブなアメコミ映画なんじゃないかなぁ? と考えて観に行った粗忽な人が多かったためであろう。

アメコミにほぼまったく関心のない俺はわりと早い段階ではははこれはゼロ年代初頭のハリウッドB級サスペンスだなとさすがの素早さで視点を切り替えることができたので面白く観られたわけで、最初から頭使わない大雑把なB級サスペンスですよ、そのざっくり感が面白い映画ですよ、とでも宣伝しておけばこんなに叩かれることもなかったのに。まぁ、それではそもそも現代の映画観客は映画館に来てくれないだろう。まったくどいつもこいつも所詮は金のかかったB級でしかないマーベル映画をキャビアみたいな高級品だと思いおって…そのように観客をうまく騙したのがマーベル映画成功の理由であろうというアメコミ映画腐しはともかく『落下の解剖学』感想文ですがなんでそんな話から始めたかというと!

これ去年のカンヌ映画祭の最高賞パルムドール受賞作だそうですけれどもそれを頭に入れて観に行ってしまったものだから俺としてはえーこんな程度の映画がパルムドールなのー? とか思っちゃってなんか白けた。別に悪い映画とは思わないがこれぐらいの映画ならいくらでもあると思うんですけどねぇ。コンペ部門のノミネート作を見てみるとカウリスマキの『枯れ葉』とかヴェンダースの『PERFECT DAYS』とかが並んでるくらいだから去年のカンヌは不作だったんだろう。いや、面白いですよ『枯れ葉』も『PERFECT DAYS』も、それからこの『落下の解剖学』も。でもこれはすごい映画だからすごい賞をあげて歴史に残そう! みたいな感じには別にどれもならないしなぁ。

まぁ受賞が妥当かどうかはともかく、俺の場合は「カンヌでパルムドール取った映画」という視点がこの映画を観るにあたっていらんノイズとなってしまったのであった。同じ法廷劇ということであればノミネート作には入ってないしたぶん去年の映画でもないから無茶な比較かもしれないですけど『サントメール/ある被告』なんかの方がよほど納得感があるじゃんとかそんなことばかり考えてしまう。もし「カンヌでパルムドール取った映画」と知らずに『落下の解剖学』を観ていたらどうだったか? それはもう自分でも想像することしかできないが、絶賛とまではいかなくともなかなか面白い映画だったなという感じでとくに不満を感じることなく映画館を出ることができたかもしれない。どんな視点から物事を見るか、ということは、人間の体験を決定づけてしまうものなんだろう。

どの視点から見るかで結果がガラリと変わってしまうのは裁判もまた同じ。よほど強固な物証があるのでもない限り裁判官なり陪審員なりに事件がどう見えるかがイコールで判決であり、そのために検察側と弁護側はそれぞれ異なる見方を法廷で提示する。法廷で争われているのは事実ではなく事件を眺める視点なのである、というのはしかしぶっちゃけ当たり前すぎることじゃないだろうか。少なくともアメリカのよくある法廷もの映画はそうした認識が前提となっているので、中には裁判の内容なんかぶっちゃけどうでもよく、望む判決を出してくれそうな陪審員を陪審コンサルタント(!)が探すのが本筋の『ニューオーリンズ・トライアル』というメタ法廷劇さえ存在するほどである。

俺が『落下の解剖学』をそんな大した映画とは思えなかったのはそうした視点があったからであった。不審死した男の妻が明確な物証なく夫の殺人の罪で起訴される。物証がないものだから弁護側も検察側ももっぱら参審員の心象にターゲットを絞って家族の世間には見せないヒミツをその裁判の中で暴露していく。夫には実はこんな裏の顔があった、いやいや妻にも実はこんな裏の顔があった、とやり合ううちに見えてくる一見幸福な家庭に入った深い亀裂…そんなこと言われても、ねぇ? 家族なんてどこもそんなもんじゃないの、と思うし、裁判でなされるのが事実の開示ではなくネガキャン合戦というのも、アメリカの法廷ものでは当たり前なので目を惹くようなものでもない。

これはフランス映画というから、それが良いことなのか悪いことなのかはよくわからないのだが、どうもフランスではアメリカと違って裁判は事実を争うもの、という視点が一般的な気配である。だからこそ裁判で事実が争われず視点だけが争われるこの映画がそれなりの衝撃を観客に与え、カンヌでパルムドールという快挙に繋がったんじゃないだろうか。フランス映画の法廷ものといえばホラー映画よりもホラーな不条理劇風復讐劇『眼には眼を』のアンドレ・カイヤットによる『裁きは終わりぬ』が俺は未見なのだが映画史的には外せない一本。あくまでも想像だがおそらくそこに登場する法廷には暴かれる真実や目指される正義といったものがあるんじゃないだろうか。

これは法廷を扱うアメリカ映画にはほとんどない。いや正確には真実も正義もあるのだが、法廷がそれを判断する場とは見なされていないんである。先頃はジョニー・デップとアンバー・ハードの裁判がネットで祭り化しその後ドキュメンタリー映画が何本も作られたが、アメリカの裁判はテッド・バンディの時代から既にエンタメでありショウだったんである。法廷は大衆を楽しませる物語を提供する場であり、そのアクターにとっては自らのキャラクターや思想の宣伝をする場でしかなく、判決はどちらがどれだけの金を裁判に投じたかですべて決まってしまう。

もちろんこれは誇張でありあくまでもアメリカ映画の中で描かれる裁判は、ということだが、いやはやアメリカとはおそろしい国だ…こんなおそろしい国で作られた法廷劇の前では『落下の解剖学』のようなヨーロッパの良心的法廷劇など霞んでしまっても仕方がないだろう。思えばフランス最後の決闘裁判を描いたノンフィクション『最後の決闘裁判』を映画化したのはアメリカであった。そしてその映画版『最後の決闘裁判』には、原作にはなく史実も存在しない女性主人公視点のパートが脚本家の手によって創作され、「真実」と題されて付け足されたのであった。

家族の裏面をアメリカ的にえぐっていく152分の長い物語(これ長すぎるよな)は視覚障害を持つ一家の一人息子の決断に収束していく。父親の死は事故だったのか、それとも自殺だったのか、あるいは母親の故殺もしくは過失だったのか。彼は一つの物語を選択する。事実がわからない以上、その判断はどの視点を取るのかの問題でしかない。だから、どの視点を取ろうとも結末はなんだか苦いものである。自分の意志で「真実」を選ぶことをアメリカの人は称揚するが、俺にはどうもそれが少なくとも100%善いこととは思えないし、映画を観る限りでは監督もどちらかといえばそうしたアメリカ式の真実との向き合い方に批判的であるように思える。

もしかするとこれは古き良きフランス精神なるものは今や存在せず、すべてがグローバルスタンダードと称してアメリカ化されていくフランスの今を皮肉った映画だったのかもしれない。言語はフランス語と英語が混在し主人公もドイツ→イギリス→フランスと渡り歩いてきたグローバルな人であるし。そこに旧来のフランス的価値観の崩壊に揺れる現代フランス人の心理を見れば、そんなにすごい映画でもないと思えた『落下の解剖学』、なんだかそれなりに深い映画な気がしてきた。結局、物事を決めるのはどんな視点に立つか、ということなのだ。

※一家の一人息子が視覚障害ありということで盲導犬のボーダーコリーさんが大活躍するのですがそのへんは超かわいくて最高でした。演技すごい達者でエライ!

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