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昨年の秋頃だっただろうか。来年の映画ドラえもんのサブタイトルはこれですと発表された時には思わず心がざわついてしまった。『のび太の地球交響楽(ちきゅうシンフォニー)』…ピンとこない人も多いかもしれないいや! 圧倒的多数がピンと来ていないと思うのだが! …『地球交響曲(ガイアシンフォニー)』かよって…おいこれ『ガイアシンフォニー』じゃねぇかってさ…ニューエイジ趣味者にはお馴染みのカルト映画シリーズ『ガイアシンフォニー』を彷彿させるじゃないのこんなものはどうしたって…坂口博信もその影響をダイレクトに受けて『ファイナルファンタジー7』を作ったりしたという地球をひとつの生命体として捉えるいわゆるガイア理論を音と映像で表現して伝えることを目的とした啓蒙ヒーリングドキュメンタリー『ガイアシンフォニー』ですよ…いやこれぜったいタイトルつけた人は『ガイアシンフォニー』知ってるでしょ…『地球交響曲』と書いて『ガイアシンフォニー』と読ませる向こうに対してこちらは『地球交響楽』と書いて『ちきゅうシンフォニー』ですよ…映画ドラえもんほどのメジャー映画でこんな類似が偶然起きることってあるんですか!? ということで俺の心は大いにざわついたのであったが世間的には無風であったと思います。でしょうね!
さて今回の映画ドラえもんはテーマが音楽ということで昨年の映画ドラえもんのポストクレジットで楽器を演奏するのび太たちを見た時にはおお次はシリーズ初のミュージカルか!? と色めき立ったものですが、ミュージカル…とまでは行かなかった。音楽はたくさん出てくるけれどもあくまでも従来の映画ドラえもんのフォーマットに落とし込む形で、具体的に言うと音楽をエネルギー源にする星(的なもの)が舞台なので、わけあって休眠状態にあったこの星(的なもの)を蘇らせるためにドラ一行はいろいろと音楽を奏でたりするわけです。
それにしてもこの音楽パワーで星(的なもの)を復興させていく過程、いやにゲームっぽい。今年は出ていないらしいが映画ドラえもんといえば新作が公開されるたびに同タイトルのテレビゲームも発売されたりするので、ゲーム化を見越してシナリオを書いたのかと思ってしまった。この星(的なもの)、最初は何もないのだが、のび太たちが音楽を奏でると区画がひとつ解放され、眠った街と住民が動き出す。ひとつ区画を解放するたびにのび太たちの楽器の腕前はレベルアップ、これは比喩とかではなく今回ドラえもんは楽器ライセンスみたいな名前の道具を使って、これがなんか存在意義があるようなないような感じなのだが、このライセンスを持っていると使用者の楽器の腕前がそこに表示されるんである。だからひとつ区画を解放するとビギナーからアマチュアみたいな感じで目に見える形でレベルアップして、また次の区画へ。そこをレベルアップした腕前の演奏で解放したらレベルアップしてまた次の区画…とこれを繰り返して星(的なもの)はどんどん栄えていくのですが、これ、たいへんゲーム的な構成ですよね。
今回の敵はノイズというアメーバ状の宇宙生物でこいつは音楽を嫌う。だからのび太たちはこのノイズを楽器の演奏で退治するんですけれども、これまたゲームっぽい設定で…別にまぁゲーム的だったら悪いということもないのだが、交響楽を謳っているわりにはこのへんちょっと機械的でスムーズさに欠き、緩急やリズム感、カタルシスといったものが映画として感じにくかったというところはあったかもしれない。これがゲームなら何も問題なかったと思うのでやっぱりswitchとか用のゲームも一緒に作るつもりだったのだろうか。バトルが音ゲーになってるRPGみたいな感じの内容で。
まぁそんなことはいいか。シナリオの構成について言えば率直に言って散漫であり各シーンの有機性、言い換えれば必然性があまり感じられないというのが決して小さくない欠点だし、それはシナリオを貫く軸のようなものが作り手に見出せていないということでもある。つまり、これは何についての映画なのか。例を挙げれば『のび太の創世日記』は冒頭でのび太がアダムとイブの逸話を絵本で読んで「この二人が悪いんだ! この二人が知恵の実(※実際は善悪の知恵の実)を食べたばっかりにこんな世界になったんだ!」と言うのだが、『創世日記』を貫くシナリオの軸とはこれなのである。知恵の実を食べたことで人類は何を手にしたか。そこから始まる約100分のもうひとつの人類史は人類の知恵の歴史であり、物語は最終的に知恵によってのみ人類は知恵の生み出した悪(たとえば戦争)を克服することができる、という理性賛歌になるのであった。
翻って『地球交響楽』はどうかというと残念ながらこれがない、少なくとも俺にはないように見えた。映画でもTVシリーズでもドラえもんは基本的にのび太の不満から始まる。今回ののび太の不満は自分がうまくリコーダーを吹けずジャイアン他からバカにされていることなのだが、そうした物語の起点とその後の音楽による星(的なもの)の復興という展開がどうも重なりそうで重ならない、そのためカタルシスがなく消化不良になってしまう。ラストの解決法がちょっと強引すぎないかとか思うところもあるにせよ、これはプロットに大きな欠陥があるということではなく、シナリオの練り込みが足りなかったということかもしれない。
思うに、このシナリオに足りていなかったのは、のび太の音楽に対する考え方の変化じゃないだろうか。最初はリコーダーが吹けないから音楽が嫌いだったのび太が、音楽の星(的なもの)の冒険を通して音楽の持つ力や音楽の愉しさ素晴らしさを知る。それならわかるし、おそらくそういうものをイメージして脚本家はシナリオを書いていると思うのだが、それを観客に伝えるためのシーンや描写が足りていない。そのためのび太の心境が見えづらく、シナリオに軸がない、と見えてしまうんじゃないだろうか。たとえば、この映画は音楽の授業でのび太が下手なリコーダーを吹く場面から始まるので、映画の最後にもう一度出てきた(と思う)音楽の授業のシーンで、腕前はあまり前と変わらないが今度は前と違って楽しそうにのびのびリコーダーを吹くのび太、というものを描写して、しずかちゃんの台詞で「でも、のび太さんなんだか楽しそう」とか説明すればよかったんじゃないだろうか。そうすれば1本筋の通った物語と見えた気がするのだが。
それから、これはまぁ年寄りの戯言として受け流してもらいたいが…なんでこれこういう編成になってるんですかね? 音楽の星(的なもの)でのび太たちは自分に一番合った楽器を持たされるんですけど、それがジャイアンはチューバ、スネ夫はヴァイオリン、しずかちゃんは打楽器(※シーンによって楽器が変わる)、のび太はリコーダーで…まぁのび太のリコーダーは良いのだが、他はやはりおかしいというか、いやまぁおかしいこともないがドラえもんの持ち味を殺してないか。
というのも映画およびTVシリーズのドラえもんにおいてしずかちゃんはヴァイオリンがド下手、ジャイアンはもちろんド下手な歌が大好き、などというのはド定番ネタであって、スネ夫にしたってこれほどネタ化はされていないがたしかピアノを習ってるみたいな設定があったはずなんである。だったらそのまましずかちゃんはヴァイオリン、スネ夫はピアノ、のび太がリコーダーでジャイアンはボーカルでよくない? そこはひみつ道具使ってこの星(的なもの)にいる間だけみんな演奏が上手くなるということにしてさ。なんでそれをしなかったのかがよくわからない。いつもは歌が殺すほど下手なジャイアンがこの星(的なもの)では感動の歌声を披露して観客を沸かせる…そんなシーンを見たらちょっとウルッと来てしまったかもしれないのだが。
ジャイアンの歌問題。あぁ、ついにこの問題に触れざるを得なくなってしまった…今まであれこれと姑の小言みたいな愚痴を書き連ねてきたわけだが、そんなもんねどうでもいいっちゃいいんです。この一点だけ俺の考え方にフィットしていればたぶん他のことは全部どうでもよくなっていただろう。逆に、これが俺にフィットしなかったので、あれはこうだここもこうだと粗ばかりが目についてしまうというわけ。坊主憎けりゃ…いや、別に憎いわけでは全然ないし楽しく観たんですけれども、でも俺にはちょっと合わなかったなーとはやはりどうしても思わされてしまう。それがジャイアンの歌問題なのだが、なんのことかと申せば、汚い音や汚い音の組み合わせは音楽ではない、という音楽観でこの映画は作られているわけです。
音楽とは調性であり、調性に基づくシンフォニーであり…という音楽観はドラえもんという作品が基本的には子供に向けられた作品であり、娯楽と同時に教育も兼ねていることを思えば、間違ったものではないかもしれない。自由でポリフォニックな音楽教育は理想的ではあるけれども、公教育カリキュラムとしての音楽ならやはりシンフォニックな音楽教育、ということに現実的には成らざるを得ないかもしれない。でも、なぁ。それだけが音楽なのですみたいなことをやられてしまうとちょっと。無調性もまた音楽なのだという理解はシェーンベルクの活躍した20世紀前半には既にある程度一般化していたでしょうし、個人的にスロッビング・グリッスルとかアインシュトゥルツェンデ・ノイバウテンみたいなポストパンクのノイズ音楽は好きでよく聴くが、そのへんになるとポップミュージックの世界でさえ無調性どころかノイズを含む音そのものの組み合わせはどんなものであれすべて音楽なのだということになるわけじゃないですか。
だから、この映画観てて俺はなんかそこに復古主義的なものを感じてしまって。復古主義そのものが悪いとは思いませんけど、ドラえもんってSFなんだから未来を見せてくれるものなわけじゃないですか。そのドラえもんで調性音楽回帰をやるの? っていう。俺はね、しずかちゃんがギゴーギゴーという前衛的なヴァイオリン演奏を音楽の星(的なもの)の住民に聞かせたら、なんと地球人よりも遥かに優れた音楽耳を持つこの人たちから大喝采! みたいのが見たかったんですよ。汚い音でも下手な音でも楽しく鳴らせばなんだって音楽なんだっていう、それぐらいの進歩的で開放的な音楽観が、ドラえもんという作品であればほしかった。それは多文化共存の考え方とも繋がる平和思想でもありますからね。映画ドラえもんというのは、やはりF先生が平和と共存の大切さを訴えてきたシリーズですから。
調性音楽でノイズをやっつける、ねぇ…。ドラえもんのひみつ道具の効果で数十分だけ地球上から音楽が消えちゃうっていうシーンが序盤にありますけど、そういえばそのシーンでも「音楽」が消えるだけで車のエンジン音とかは聞こえてるんですよ。つまりそういうものは音楽じゃないってこの映画の作り手は思ってるわけ。車のエンジン音だってサンプリングしてAIにこれで音楽作ってって投げちゃえば10秒で曲ができちゃう時代なのにね。俺は今の映画ドラえもんを観るときにはF先生だったらどうだったろうって考えるんですけど、F先生だったらやっぱりノイズを単純悪にはしないと思う。F先生自体は合理主義的な人だし無調性の現代音楽なんか聴かないだろうとしても、キレイな音楽でノイズを排除するという考え方には強く反対したんじゃないすかね。それは全体主義を胚胎するどこか危険なものであるから。
ただ、そのような(俺にとっての)難点はあるにせよ、これが面白い映画であることには変わりなく、色彩豊かで遊び心に溢れたアニメーションにはプリミティブな楽しさが溢れていた。音を鳴らすとその先から様々な「かたち」が流れ出す、演奏が乗ってくると世界が様々な「いろ」に染まる。電線を見上げればそこにとまるスズメはまるで五線譜上の音符のようで、風のせせらぎに耳を傾ければそこには楽団が潜んでいる。こうした面白さの多くが音楽ではなく映像的なものであるチグハグさはこの映画の題材的にどうなのよと思わなくもないし、肝心の音楽にこれはと思わせる聴き所が乏しかったのは、映画ドラえもんといえばかつては武田鉄矢の主題歌が魅力のひとつだっただけに、ちょっと残念なところではあった。音楽の映画ならやはり『4分間のピアニスト』みたいにこれはすごいぞと思わせる音楽を聴かせてほしいし、いや別にそこまでとは言わずとも映画ドラえもん名曲メドレーぐらいやってくれてもいいのになぁ…とかまぁ、とかまぁ! 思うところはありますが!
決して完成度は高くないと思うものの観ていて飽きない映画にはなっていたし、こういうね、従来の映画ドラえもんにはなかった題材を取り上げるチャレンジ精神っていうのはやっぱりアッパレとおもいます。だから『映画ドラえもん のび太の地球交響楽(ちきゅうシンフォニー)』、悪い映画ではないと思いますけれども、一言で言えば、音楽性の違い、これに尽きる。バンド解散の理由で音楽性の違いとか言われるとなんだよそれって今まで思ってましたがなんかわかったわ、音楽性の違い、でけぇわ。