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「加害者」であることは結構キツイことなのだ。一言で言えば『12日の殺人』はそのような映画であった。たぶん2012年ぐらい頃のフランス田舎町で多少の猟奇みを感じる事件発生。21歳の女子大学生が夜道で何者かにガソリンをぶっかけられ火をつけられて焼死したのであった。新任警部(と思うが定かではない)の主人公は早速気合いを入れて捜査に乗り出すが怪しそうな男は次々と現れるものの物証もなくこれといった動機も見つからない。結局捜査は失意のうちに棚上げされることになるが、それから数年経ち、新任の女性検事が埋もれたこの事件を発掘、主人公に捜査の再開を要請する。果たして主人公と部下たちは今度こそ犯人を捕まえることができるのであろうか…。
なんだか『ツイン・ピークス』の出だしのようなこの映画を「加害者」であることのキツさを描いた映画として観てネットに文章で残しているのはおそらく日本で俺一人だろう。ふふんどうだすごいだろう。いや、すごいのだがすごくないのだ。それは要するに、もはや現代日本の観客はその程度の読解力すら持たないというこのなんだから。おそらくネットの外にはそんなことはなくこの映画をちゃんと読めている観客は当然ながらいっぱいいるのである。けれどもツイッターとかフィルマークスとかまぁそういうところにはいない。そんなところで「加害者」の肩を持とうものならみんなに嫌われること必至だからだ。なんだかんだ日本というのは付和雷同の国であり、和を尊ぶ国であり、出る杭を打つ国なのだ。まったくこの国は変わらんよ。元号が変わっても世代が変わっても中身は少しも変わりゃしないのよ…主役の顔ぶれが変わってるだけでね…まったくおもしろくない!
この映画を既に観た人ならきっと以上の文章をわけわからず読んでいるんじゃないだろうか。とくに「加害者」という部分。それはいったい…誰のことなのか? それは主人公のことなのです。ピンと来ておらんでしょうな。被害者に同情し被害者の友人の涙と「女の子だから(被害者は)殺された!」の言葉に心を痛め冷静と情熱の間でぐわんぐわん揺れ動きながら犯人逮捕のために奔走する正義漢の主人公がなぜ「加害者」なのか。そうなんだ、それがね、本当にまったく誰にもわかっていないことに俺はホントにションボリしてしまうんですよ。どうしてこれがわからんのか。
たぶん、みんな自分が誰かを秘かに傷つけてるかもなんて不安になったことがないんだろう。あるいはそう感じたとしてもその「加害性」は意識さえすればアッサリ振り払えるものだと思っていて、だから他人を見ては意識が低いと指導のポーズを取ってしまえる。「加害者」は常に自分以外の誰かであって自分は常に「被害者」の側にいる。今の日本のネット世論なんてそんなものだ。びっくりするほどの鈍感さ。想像力のなさ。だからそんな人は「人のふり見て我がふり直せ」なんてことは少しも考えずに平気で他人を非難できたりする。そしてそれを正義の勝利だなんて思い込んでいるものだ…。
事件から数年後、女性検事からの捜査再開要請を受けて主人公はふて腐れたようにこう述べる。「男と女の間には越えられない溝がある」それに対して検事、「私は男だからとか女だからとか考えないんで」。どうして主人公はこんなことを言ったのだろう。それは彼が女より男の方が優れていると考える差別主義者だからではない。少なくとも意識の上ではそうであった。それを理解するためにはこのような前提を知っておく必要がある。フランスの犯罪統計は知らないが日本の犯罪統計を見ると検挙者の7~8割は男であることがわかる。これは統計開始以来ほとんど一貫した傾向で、少なくとも検挙者数で女が男を上回ったことはおそらく過去一度もなく、そしてよほど特殊な事情が無い限り、どうも日本だけではなく世界的な傾向のようらしい。つまり犯罪とは、とくに暴力犯罪は基本的に男がやるものということである。
だから主人公は殺人捜査のセオリーに則って男を中心に調べ上げていく。被害者は誰とでも寝る人だったのでセフレ的な男は数多い。中には「彼女を燃やすぜ!」なんて物騒な自作ヘボラップを作った人もいる。聞き込みの最中に突然何かを思い出して笑い出す人もいる。そんな捜査を続けている中で主人公は被害者の女友達から非難を受ける。彼女は尻軽なんかじゃない! あんたなんで彼女の男関係を根掘り葉掘り漁るの! 彼女はただ女の子だから殺されたのに! 主人公としては返す言葉がない。もしかして俺たちが捜査をすることさえも加害行為なのだろうか?
被害者の死に取り乱して泣き出す被害者の母親、被害者の名誉を泣きながら守ろうとする被害者の女友達に比べてセフレとか元カレの男どもときたらなんて薄情なのか。主人公はその捜査の過程で自分がそんな「男」の一員であることに強い罪悪感を覚えるのだ。つまり自分は「加害者」の一人なのだと。そしてその罪悪感が主人公の視野を硬化させる。やはり間違いなく犯人は男、それも彼女と関係を持った誰かのはずだ。今度はDVで捕まって公判を待つ身(保釈済み)の男が現れた。こいつなんか公判前だから厳密には違うとはいえ前科もあるんだから絶対犯人だろこれ! 視野を硬化させていたのは主人公だけではなく妻を若い男に寝取られた中年オッサン刑事も同じであったので彼はDV男に令状なしで暴力突撃を敢行してしまう。
これが「男と女の間には越えられない溝がある」という主人公の言葉の意味することであった。男は常に「加害者」の仲間であり、決して「被害者」である女の仲間には入れない。男という存在は加害性を帯びているが、女という存在は加害性を帯びていない。そして男が「加害者」を取り締まろうとすることは、それ自体が女に対する「加害」とさえなるのだ。だとしたら女に対して男ができることなどあるのだろうか? そうした主人公の心象風景は一向に進展を見ない捜査状況と合わせてオーバル型の競技用自転車トラックを彼が延々回り続ける姿が象徴している。
事件から数年後、捜査を再開した主人公の下には現場好きという変わり者の女刑事が新たに配属されていた。彼女と共に殺害現場の張り込み(犯人は現場に戻るというからもしかしたらこの犯人も…)に出た主人公は彼女のこんな言葉を聞く。「不思議なもんですよね。男が殺して男が捜査するんだから」。それから「見て下さい」。言われた通り主人公が見ると、そこには事件現場に献花をする被害者の両親の姿があった。それは主人公が捜査の中でずっと見落としていたものであった。つまり、男と女が共同して何かをすること。
被害者の死亡現場には実に多くの見舞い品が置かれ、それは彼女が多くの人に好かれていたこと、そしてその死を悼まれていることを意味する。考えてみれば、ヘボラップを作った男はとくに悪意なくギャングスタラップの真似事をしていただけだったかもしれないし、聞き取り中に笑っちゃった男は急にあんたのセフレ殺されましたよと言われて動揺しちゃっていたのかもしれないし、DV男がいかに粗野な性格をしていたとしても、粗野な性格だから犯人というのはいささか相当無茶な見立てであった。そして彼らの少なくとも一人は、その死を悼んで現場にその男なりの見舞い品を残しさえしたんである。けれども、犯人は男であり、男は犯人であり、すべての男は加害者であると強く思い込む主人公には、そんな姿は想像もできなかったんである。
そして観客がそう気付いたときに(俺以外は気付かなかったけどな!)、主人公の正義感は無自覚の差別へと反転する。「男と女の間には越えられない溝がある」。彼は、男が常に加害者として存在するなら女は常に被害者の役回りであり、決して同等の存在にはなり得ないと考えていた。それが間違いだったことに主人公が気付くというのがこの映画のクライマックスでありテーマである。2012年から数年経って時代は変わった、殺人課には頼りがいのある女刑事も入ってきたし新任検事だって女の人。それも「私は男だからとか女だからとか考えないんで」と事も無げに言う女の人である。もういいんじゃないだろうか。男が自分を常に「加害者」であり、それゆえにお仲間の加害者の始末を付けるだなんて、前時代的なことを考えなくても。
映画のラストに映し出されるのはぐるぐる回るだけのオーバルトラックの外に出てチャリで峠越えに挑む主人公の姿。もう自分の尾を自分で噛むウロボロスのように自分だけですべてを背負おうとしなくていい。男であることの罪悪感に苛まれて男らしく女を守ろうとする必要などないのだ。「不思議なもんですよね。男が殺して男が捜査するんだから」。まったくその通り。男も女も一緒になって捜査すればいいだけの話だ。むしろ男だけの捜査陣なんて「犯人は絶対に男!」と視野狭窄に陥って機能不全になってしまうんじゃないだろうか。そもそもこれは未解決事件なのである。不思議なことにこの映画を観た人はほぼ全員が犯人を男だと思い込み、これは男の女に対する憎悪犯罪だと断言する人までいるのだが、犯行時に犯人が一言だけ出した声は男のように聞こえたとしても男かどうかは不明だし、単独犯か複数犯かも不明である。
最後の被疑者は一般的に言われるところの男らしい男ではない人であった。彼は弱く、脆く、助けを求める「被害者」の男であった。事件を解決できなかった痛みから刑事を辞したベテランオッサン刑事は主人公に花の写真を送りつける。数年前まで洋式便所で立ちションして便器周りをびしょびしょに濡らしていた男とは思えぬ繊細さ。彼もまたどこかで「加害者」としての男から降りることにしたのだろう。
男が男を降りること。「男だから」という理由で女を保護しようとしないこと。それは女への「女らしさ」の押しつけをやめるということでもある。「加害者」と「保護者」は相手に対して優越的な立ち位置にあるという点で表裏一体のものであり、片方だけを都合良く取ることはできない。それと同じようにして、男は男らしくあるべきだが女は女らしくなくていいと言うことはできない。なぜなら男らしさとは「女らしくない」を意味する概念だからであり、その内には女らしさを必然的に含むことになってしまうからだ。だから、男たちの罪からの解放は、女たちの罰からの解放であり、女たちの罰からの解放の要求は、男たちの罪からの解放の要求を、必ず同時に意味するのである。
『12日の殺人』はそうした意味ですぐれてフェミニズム的な映画であり、男女同権とは何かということを力強く描いた映画であるが、俺に言わせれば用語だけ欧州フェミニズムの伝統から受け継いでその内実はまったくフェミニズム的ではないネットフェミニズムが跋扈する昨今の日本の、まぁ少なくともネット空間において、この映画のそうした意味や意義が理解されることはないだろう。現にネットで感想を探せば「何を伝えたいのかわからない」とか「フェミサイドと男女差別を描いた映画」だとさ。へっ! フェミサイドだって!
「加害者」としての男であることの罪の重さに耐えきれず他の「加害者」の男に対する人権侵害という「加害行為」にすら難の躊躇いもなく踏み込むような男が後を絶たない今日の日本なのだ。そしてそんな無自覚的な男性優位主義に(この映画の主人公と同じように)染まった天然差別主義者の男を、これこそ女の味方と自称フェミニストの反フェミニスト女が持て囃すのが、さすが人権後進国の先進国たる日本なのである。この国では結局のところ、誰も人権の概念を理解していないし男女同権も意味もわかっていないのである。まぁあくまでもSNSの上ではネ!
このブログは俺がサーバーを借りて運営しているものなので俺が突然死などした後に親族がトチ狂わなければ(その可能性はないわけではない)今後何十年先も一応残るはずである。俺は今の日本のネットのバカどもが俺の書いていることを理解できるとはまったく思っていないが、何十年後か先の誰かがこれを発掘して、へぇこんな野蛮な時代もあったのかと呆れてくれることを願って、こういう感想を書いた次第。それこそ捜査棚上げから数年後に男女平等の感覚を持つ新任女検事がこの映画に描かれた未解決事件を押し入れの中から引っ張り出したようにさっ。
※ただしいフェミニズムを学ぶためにインターネットのバカなみなさまには竹村和子著の岩波〈思考のフロンティア〉シリーズ『フェミニズム』を読んでみることをオススメいたします。